シュネーはマロンタルトを美味しそうに頬張った。
 粉砂糖のかかったスライスアーモンドが香ばしく、芳醇な栗はとびきり甘い。サクッとしたタルト生地と、なめらかなマロンクリームを一緒に食べれば、その瞬間、幸せな気持ちでいっぱいになる。
 嬉しそうに食べるシュネーに、ブラウも不思議と同じような気持ちになった。同時に、調理場での使用人たちとの会話を思い出し、眉間に皺を寄せる。

『伯爵様は、まだ公務から戻られねえのか?』

 ゲルプが、他の使用人と同じ心配を口にした。伯爵は、半年前にジルヴァが亡くなってから頻繁に公務に出たり、屋敷に帰らない日が多くなってしまった。
 もちろん伝染病の終息はいまだ目途がたっていないのは確かで、それを追うのは伯爵の務めだ。けれどそれ以上に、奥方を亡くした悲しみを仕事で紛らわせているのは、誰の目にも明らかだった。

 食べ物もあまりとっておらず、ゲルプの元へほとんど口につけていない配膳が帰って来ることもしばしば。睡眠もとれていないのだろう、過日に玄関先で見た彼の眼元には、大きな隈ができていた。その姿を見るのは、使用人としてあまりにも辛い。

 ロートは「あのままだとそのうち死んじまうだろうな」と言って呆れていた。医者が呆れる程度なら、まだ大丈夫なのだろうが、その言葉にブラウはぎくりと肩を震わせる。ジルヴァが亡くなってからまだ、半年。半年も経っていないうちにまた大切な人を失うのは、何と恐ろしいことか。

 オランジュの言葉が蘇る。

『お仕事を一生懸命されるのは大事……だと、思います。でも、あんなに根を詰めてばっかりじゃ、伯爵様はいつか倒れてしまうのですっ。それに……』
『それに?』

 オランジュは俯いて眉尻を下げた。

『……お嬢様が、寂しいと思うのです……』

 隣にいたシュヴァルツが、彼女の肩を優しく叩く。そうだな、と誰もが口にし頷いた。
 伯爵が忙しくて屋敷に帰らなければ、一番寂しいのはシュネーだろう。母親を亡くしたシュネーにとって、いくら、家族と変わらぬ使用人が居るといえども父親はゴルト伯爵だけ。母親が亡き今、彼に近くに居て欲しいに違いない。

 皆に配られていたマロンタルトの一ピース。誰も口をつけずにそれをじっと見ていた。調理場に漂う安物紅茶の匂いが、妙に物悲しかった。

『ブラウ、お嬢の様子を見ていてやってくれよ。お前が一番、お嬢に近いんだからさ』

 ゲルプが真面目な顔になって、ブラウの方を見た。目の見えない彼の瞳が、サングラス越しに見える。
 頼んだぞ。
 彼は口にしないけれど、そう読み取った。ブラウは折れていた裾をきちんと正してしっかりと頷いた。

 と、任されたものの。
 何と声をかけたらいいものか、とブラウは考えていた。シュネーのためなら何でもしようと思う反面、一介の使用人に何ができるのだろうかと考えてしまう。
 主人であるゴルト伯爵を説得し、無理やりにでも休みを取ってもらって、シュネーとの時間を作る方がよっぽど合理的ではないか。
 自分の安い言葉よりも、ずっと。

 マロンタルトを食べてご機嫌になったシュネーの配膳を、オランジュがすぐに片づけていく。ブラウはその様を見届けて、シュネーのほっと一息ついた横顔を眺めた。その視線に気づいたのか、シュネーが瞬きして尋ねる。

「何?」
「あ……いえ」

 ブラウはぼーっとしていた事を謝り、何でもありませんと誤魔化した。

「それでは……何かございましたらお呼びください」

 もう一度、何かできないか、よく考えよう。そう思い踵を返した時、背中から声が返ってきた。

「――大丈夫よ」

 え、と思わずブラウは振り返る。シュネーは座ったまま、真っすぐにブラウを見つめていた。
 笑いもせず、ただ穏やかに。カップとソーサラーが重なり合う音だけが小さく響いて、伏し目がちに彼女は言った。

「私は大丈夫。心配してくれているのでしょう? 顔に書いてあるわ」
「え……」

 ブラウが慌てて自分の顔を手で押さえるのを見て、シュネーはクスクスと笑い出した。ひとしきり笑った後で、彼女は言う。

「ブラウだけじゃなくて、皆が私の事を心配してくれてるの、知ってるわ。でも、大丈夫。お父様がいま、とっても忙しいことも知ってる。それに対して私は我慢できる。もう、小さい子供じゃないもの。だから……安心してね」
「……お嬢様」
「今、子供には変わりませんけどね。って思ったでしょ?」
「そ!? そんなことは……」

 ふふっと屈託なく笑うシュネーに、ブラウは慌てる。自分よりもうんと歳の離れた女の子は、自分たちが思っていたよりずっと、しっかりしていた。
 どう言葉をかけようか。そんな風に迷っていた自分にも気づいていたのだろう。
 気遣われてしまった。年上として、執事として、少し情けない。ブラウは唇をへの字にしながらため息をついた。そんなブラウを見て、シュネーは口角を上げる。

「気を遣わないで。お母様が亡くなったことも、悲しくないなんてことは……ないけれど。でも、今は勉強をするのがとっても楽しいの」
「シュネー様……」
「ブラウが言ってくれたでしょう? 自分に足りないものは何か、知るんだって。今は、今まで無駄だって思ってたことも、キラキラして見えるの。これもあれも、全部自分の力になるんだって思うと……悲しんでばっかりじゃ、いられないわ!」

 そう言って、顔を上げたシュネーに窓からすっと光が差した。希望を持った少女の瞳は、きらきらと満ちて輝く。ブラウはそれを見て純粋に美しいと思った。伯爵の美しいもの好きが似てきたと思うのはおこがましいかもしれないが、その時のブラウは、伯爵と同じ気持ちを共有できたような気がした。
 目標を持ち、強く生きようとする人間の姿は、美しい。

 ブラウは長いまつげを下にして、「そうですね」と頷いた。傍に居られる限り、ブラウはシュネーの成長を隣で見てみたいとも思う。許されるなら、遠い未来までも。
 そして、とシュネーは続けて言う。

「目指せ悪役令嬢!」
「それまだ言ってたんです?」

 ブラウは呆れ気味に言った。何かに憧れたり、目標を持つことは大事だが、一端のお貴族令嬢が悪役に憧れるのはいかがなものか。ブラウはため息をつきながら、どうやって彼女を矯正するべきか考えていた。

「だって、私の夢なんだもの。格好いいし良いと思うんだけど」
「まあ……思うだけなら勝手ですしね」
「ちなみに、目標はもうひとつあるわ」

 なんですか、とブラウは訝しんで尋ねた。シュネーのことだ。もう何を言われても驚きはしない。ブラウは目を固く閉じて腕を組んだ。

「ブラウのお嫁さん!!」
「ブッ!」

 ブラウは噴き出して「何を仰るんですか!?」と咳き込みながら叫んだ。とんでもない爆弾発言に、誰かに聞かれてはいまいか思わず廊下を確認してしまう。息を整えながら、ブラウはありえないとシュネーに言った。使用人と主人が結婚するなど、聞いたことがない。

「第一、伯爵様がお許しになるわけが」
「ブラウなら良いかな! って言ってたわよ?」
「あの方はもう………っ!!」

 ブラウは顔を覆って小刻みに震えた。子供がこうなら、親も親だ。
 ふと、ブラウとシュネーはお互いの顔を見合って笑いあった。くだらないことで話し合えるこの時間が、何よりも愛おしい。


 だが穏やかな時間は、いつまでも続かなかった。

「……あら」

 シュネーの声にブラウが顔を上げ、彼女の傍に寄る。

「どうかされましたか?」
「見て。誰か来たわ」

 屋敷の門を潜り抜け、馬の蹄の音とともに一台の馬車がやってきた。玄関先で、リラが応対しているのが見える。ふと、先ほどまで差していた光が失せ、空を見上げれば黒い雨雲が渦巻いている。
 ――雨どころか、嵐が来るか。
 ブラウがオランジュに洗濯物を取り込んでもらうように言わないと、と考えていたところに、雷のような怒号が屋敷に響き渡った。

「ッふざけるな!」

 同時に本当に雷鳴が響いて、ブラウもシュネーも縮みあがった。そんな大きな怒鳴り声を出す人間は、この屋敷にはいないと思っていた。
 顔を見合わせた二人は、声のしたロビーの方へと向かう。二階の階段の手すりから様子を見ると、玄関先にはすでに現れていた使用人たちと、ゴルト伯爵、そして見たことのない若い婦人が立ったまま会話をしているのが見えた。

 婦人の顔も、名前も、ブラウは今まで顔を合わせた覚えもなく、シュネーもそれは同様のようだった。
 怒鳴り声の張本人は、不愛想ながらも普段は怒ったり声を荒げたところを見たことのない――ロートだった。

「お前は……お前は、何を考えているんだ!? ジルヴァが亡くなって半年も経ってねぇっつうのに、そんな女を屋敷に連れてきて……!」

 今にも伯爵に掴みかかりそうな勢いで、顔を髪色と同じように真っ赤にして怒っている。ブラウはシュネーの手を引いて、急いで下に降りていった。
 ゴルト伯爵は彼をなだめるように両手を軽く上げながら、普段と変わらない明るい顔で答えた。

「大丈夫。ちゃんと考えているよ、ロート。きちんと彼女を紹介したいから、みんな、顔が見えるようにこちらへ並んでくれないか。――ああ、シュネー。ごらん、彼女が私の娘だよ。さあ来なさい」

 隣に立っていた婦人へ紹介するように伯爵が言った。ブラウは平静を装いながら、その婦人を上から下まで眺めてみる。
 化粧っ気のないその顔は、血の気のない不健康そうな色をしているし、鉄の仮面でもかぶっているようにぴくりとも動かない。短い髪はわざと一本にぎゅっとくくられているが傷んでいるのがよくわかる。何より身の毛のよだつのが、喪服のような真っ黒なドレスを着ているところだろう。

 嫌な予感がする。
 彼の直感ははずれがない。ブラウは訝し気に伯爵と婦人を交互に見ながら、伯爵の言葉を待った。しかし、ブラウの予想を上回るほどの知らせを、伯爵から聞くこととなってしまった。

「シュネー、みんな。よく聞いてくれ。彼女はオリーブ。公務先で出会った、僕の新しい妻だよ」

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