妻?
 その単語に、場にいた誰もが息を飲んで固まった。オランジュとシュヴァルツは信じられないと動揺し、ゲルプとロートは怒りの感情をあらわにしている。グリューンとリラに至っては、軽蔑で冷ややかな目を二人に向けていた。

 ホワイトブルク家の奥様は今までもこれからも、ジルヴァただ一人。そう思っていたがゆえに、困惑は大きい。公務に出かけて忙しくしていたはずの伯爵は、実はジルヴァ以外の女性に会っていたというのか。心なしか、ゴルト伯爵の顔色は以前より良かった。だがシュネーも使用人たちも、伯爵の言葉を受け入れられなかった。

 ブラウは視線だけでシュネーを見た。彼女自身もまた目を大きく開き、自分の父と新しく迎えられた義母のオリーブを正面から見ていたが、その表情は固い。
 稲光が激しく窓から差し込んでくる。いつの間にか外は、ブラウの予想通り嵐となっていた。まるで、自分たちの気持ちを表しているかのように、空をかき乱している。
 沈黙がしばらく続いて、ゴルト伯爵は場を和ますようにシュネーに言った。

「さあ、シュネー。新しいお母様にご挨拶をしようね」
「おかあ、さま……?」

 ぎこちなく笑うシュネーは、ゴルト伯爵に言った。そうだよ、と伯爵はオリーブの方を向いて促す。使用人の誰もが彼女とオリーブの様子を見つめていた。シュネーは仕方なく困惑した顔を内に秘め、ドレスの裾をつまみお辞儀をした。
 ――しかし。

「……お義母様、はじめまして。私は、」
「お義母様なんて呼ばないで」

 紹介をする前に言葉を遮られ、シュネーは目を大きく見開いたまま固まってしまう。オリーブはシュネーから顔を背けるようにして吐き捨てた。

「私は貴女の母親にはなれないし、なりたくもない」

 その場を氷漬けにでもされたような気がした。一人、ブラウがその言葉にいち早く気づき、眉を上げて抗議する。

「……どういう意味でいらっしゃいますか?」
「おい、ブラウ。やめろ」

 思ったよりも低いブラウの声に、他の使用人がハッと我に返る。シュネーに対するオリーブの態度も気に食わないが、相手は伯爵夫人。一介の使用人が反抗的な態度を取るのは不敬に当たるだろう。ゲルプはブラウの肩を掴んで制したが、彼はそれを軽く振り払った。
 ブラウはだんだんと腹の中が煮えたぐっていた。新しい夫人を勝手に連れてきて説明のないゴルト伯爵にも、無礼なオリーブにも、大切な女の子がいま、傷ついていることにも。

 夫人はゴミを見るような目で彼を睨みつけて言う。

「そのままの意味よ」
「――オリーブ。今日はもう休もう、皆もすまない。詳しい顔合わせはまた明日にしようか」

 険しくなった使用人の顔を見て、さすがにゴルト伯爵がオリーブの言葉を窘めた。伯爵はオランジュにオリーブを部屋へ案内するように伝え、その場は解散となった。



「何なんだ、あの女は……!」

 ダン、と強く机を拳で叩いたグリューンが息荒く吠えた。
 伯爵たちが寝静まった頃、ブラウは他の使用人たちと調理場に集まっていた。オリーブが来てから一か月。ブラウや使用人たちは、彼女の傍若無人な態度に限界が来ていた。
 屋敷にやってきてからの夫人は、伯爵がいない間は部屋にずっと閉じこもり出てこない。扉に耳をつけて中の様子を探っても、物音ひとつしやしなかった。たまに顔を合わせたかと思えば、使用人に難癖をつけてくる。

「今日はあたしが庭で剪定していたところに来て、最後の一本はまだやらないのか、いつやり上げるのか急かしに来てたよ。うざ」

 グリューンが舌を出して不満を顕わにする。

「俺んとこには、午前に来た客用の料理に問題がないか確認に来てたわ。こんなものを出すなんて、って一品ゴミ箱に捨てられたけどな」

 ゲルプは両手を頭の後ろで組んでため息をつく。ブラウは部屋の隅で俯いている少女に問うた。

「オランジュは?」
「私は……割れた花瓶の後始末をしていたら、掃除の仕方が悪いと言われて」

 君もか。しょんぼりしているオランジュの様子に、ブラウまでもが肩を落とした。そういうブラウも、シュネーの様子を見に行った時にオリーブと鉢合わせし小言を言われてしまった。専属執事たるものが、令嬢の傍から離れるとは呆れてものが言えない、と。
 夫人の言いたい放題な物言いに、使用人たちは怒りでふつふつと頭を煮えたぎらせていた。いつの間にか、話題はどうやってオリーブ夫人を屋敷から追い出すか。そんな議題に変わっている。「いっそ伝染病にでもかかってくれたらいいのに」そう誰かが口にして、それは言い過ぎだとブラウがはっと顔を上げたその時。
 シュヴァルツがさらさらと紙に何か書き、机に置いてすっと皆の前に出した。

『でも、オリーブ夫人の言う事は正論だ』

 シュヴァルツは曲がった背中を伸ばそうともせず、上目遣いに使用人たちを見つめていた。
 彼の一文に皆、頭を垂れて俯く。ブラウはばつが悪そうに口をつぐんだ。シュヴァルツが言うように、オリーブの口の利き方には物申したくなる気持ちはあるが、全て使用人に対する真っ当な叱責だったからだ。

 グリューンの剪定を注意されたのは、あと一時間で来客だというのに時間がかかっていたからだし、ゲルプの料理を捨てられたのも来客の苦手な食材でうっかり調理していたからだ。オランジュに至っては、花瓶を割ったのは当の本人で、尚且つ無精から素手で陶器の破片を触ろうとしたから。ブラウは、シュネーが呼んでいることに気づかず別の部屋で用事を済ませていた。シュネーやゴルト伯爵の気前の良さに時々忘れかけている、主人と使用人という立場をオリーブはわきまえていた。

「ブラウ、シュネー様に対するオリーブの様子はどうなんだ?」

 グリューンが尋ねた。

「シュネー様は……」

 ブラウは一度口ごもってご令嬢の様子を伝えた。オリーブは使用人たちと変わらず、シュネーに対しても厳しかった。いや、厳しいというよりは、なるべく関わらずに過ごそうとしている様子を彼女から感じられた。

 一度、シュネーがオリーブの部屋をノックした時。
 部屋から出てきたオリーブに、絶対に入ってはいけないと鬼の形相で注意を受けたことがある。シュネーとオリーブは晩餐すら共に過ごしたことはなかった。むしろ今月に入って、二人が会話をしたところを一瞬でも見たことがあっただろうか。だからこそ義母であるオリーブと、少しでも心を寄せようと考えたシュネーに、オリーブはいつまでもそっけなかった。
 しかし、シュネーはそれらオリーブの態度に対して全く気にしている素振りがない。屋敷で初めて会った時の動揺がシュネーに見当たらないというのが、ブラウにとって理解できなかった。シュネーにそれとなく「大丈夫ですか」と尋ねたことがあったが、「何が?」とけろっとした様子で返事をする。気丈に振舞っているようにも見えないので、ブラウはますます首を傾げるばかり。

「だー、くそ」

 ゲルプが椅子ごとひっくり返りそうな勢いで背にもたれ、文句を言って静寂を打ち破った。

「もう少し、様子を見るか」

 料理長は顎髭をさすりながら、誰にともなく呟くのだった。
 そういえば、とオランジュが口を開く。

「リラさんとロートさんはいらっしゃらないんですね」

 ブラウはゲルプに視線をやると、兄貴分は首を軽く振って応えた。使用人の中で最年長のロートは「ガキどもに付き合ってられるほど俺は若くねェ」と部屋に戻り、群れるのが苦手なリラも同様に話し合いに来なかった。

 グリューンから聞いた話では、ゴルト伯爵、ロート、リラはジルヴァも含め竹馬の友だったらしい。先先代からホワイトブルク家に務めるロートとリラは、伯爵とほとんど生まれた頃からの付き合い。ジルヴァの両親と伯爵の両親は仲がよく、使用人の二人と一緒に領内の野原を駆け巡って遊んでいた。伯爵は幼い頃からジルヴァに思いを寄せ、互いの両親から婚約の許しをもらった末の結婚だったそうだ。

 彼らにとって、友人とも家族とも呼べるジルヴァが亡くなったことは、身を切られる思いだろう。そして彼女を忘れたかのように新しい奥方を連れてきたゴルト伯爵のことを、二人はどう感じているのだろうか。
 ブラウは、自分の中の持てるだけの記憶を引っ張り出して想像した。もしも、シュネーが伝染病で亡くなって代わりの娘を伯爵が連れてきたとしたなら……考えただけで、吐きそうになった。

「ま、あたしらには明日も仕事があるんだ。さっさと休んでおこうぜ」

 冬の寒さに軋むのか、義手の手首をひねりながらグリューンは踵を返して調理場を離れる。残りの使用人たちも後に続いて、その場はお開きとなった。

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