誉の手を掴んだのは、瞳子だった。
「っ、あ? 何じゃお前、離さんかい」
 そう言って男が手を引き離そうと力を込めたが、瞳子に掴まれたままの手はびくともしない。それどころか、自分よりも小柄で華奢な瞳子が掴む手の方が強い気がする。不可思議な顔をして焦る男に、瞳子はぱっと手を離すと微笑みながら姿勢を正した。
「すみません、勝手にお手を取ってしまって。少々お時間よろしいでしょうか」
 男が掴まれた手を見ると、瞳子の指先を模るように赤く痣になっていた。改めて彼女と自分の痣を交互に見遣って、男は怪訝そうに口を開いた。
「お前に関係ないだろ。こっちは、この二人と話してんだよ」
 邪魔されたことにイラついているのか、荒っぽい男の口調に瞳子は身じろぎもせず淡々と答える。
「いえ。先ほどからお話を伺っておりますと、あなたのご希望がなかなかこの方たちに通らないようですので、私が間に入らせて頂けたらお互いがスムーズになると思いまして」
「はあ? 勝手なことすんな……いや。そう言うってことは、姉ちゃんは、こいつらが融通の利かないやつらだって言ってんだよな?」
 誉と都花がちらりと瞳子の方へ視線をやった。瞳子は怖いほど綺麗な姿勢でにっこりと頷いた。
「はい。ですので、私があなたのお話を伺った上で、このお二人にあなたのご希望が通るようにお伝えします。これでも、優秀な方なんですよ。私」
 男は瞳子の話を聞いて、目の前の彼女は弁護士か何かだと思った。どういう理由であれ、自分の理屈を通そうと考えているこの男にとって瞳子の提案は悪くはなかった。誉も都花も、自分たちの味方だと思っていた瞳子に「融通が利かない」と一瞬でも男の発言に同意されたのを悲しく思った。また、瞳子の思惑がわからない都花はどういうつもりだろう、と動揺する。
「おう、何から聞いてもらおうか……」
「ああ、その前に」
 男が話し出す前に、瞳子はジーンズのお尻ポケットからあるものを取り出して見せた。
「所《しょ》までご同行頂けませんか? 私は非番ですが、朝までじっくり当直の者がお話を伺いますよ」
 瞳子が取り出したもの。それは、チョコレート色の革の生地に金色の記章が描かれた、財布サイズの身分証明書。警察手帳だった。
「……!?」
 警察手帳を目の前に、男はあんぐりと口を開けて驚いた。まさかこんなところに、私服警官が、しかもこんな華奢な女性が警察だとは思うはずもなかった。それは男だけではない。誉も、都花も、同じ店に居たその場のお客全員が目を白黒させた。
「な、なん……」
 呂律の回らない男に、瞳子は薄い笑みを浮かべたままだ。誉と視線が一度だけかち合うと、その時だけ、ふわりと優しく笑った。まるで、任せてとでもいうように。相手が警察官だとわかった男は慌てていたが、落ち着いてきたのか寂しい禿げ頭で不気味に笑って言い返した。
「ハッ、そんなもの……今時ネットで探せばレプリカなんぞいくらでもあるわ! この場を丸く収めようとして、たまたま持ち出した偽物だろ!」
 たまたまこんなレプリカを持っている方がおかしいことに、男は気づいていないのか。瞳子はスマホをテーブルから持ってくると、指を動かしスピーカーにすると、どこかへ電話をかけ始めた。繋がった先は、
『はい。中沢警察署、駅前交番、与那覇です』
 駅前の交番だった。会話を聞いている男の顔が、サッと青くなる。別にあなたを捕まえますと言ったわけでもないのに、ちょっと話を交番で聞いてあげるだけなのに。男の表情の変わりように、瞳子は呆れた。
「桜田です、お疲れ様です」
『あれ? 桜田巡査ですか? 今日、非番ですよね? どうかされました?』
「何でもないの。ちょっと確認したかっただけです。また後で連絡しますね」 
 不思議そうな後輩、与那覇巡査の「はーい」という声が聞こえて瞳子は笑顔で電話を切った。これで、瞳子が本物の警察官で、先ほど見せた警察手帳はレプリカではなく本物だということが証明された。男は脂汗を浮かべたまま押し黙っていたが、急に笑い出した。
「は、はははっ、いやあ巡査さんもお人が悪い。ちょっと、若者をからかっただけですよ。ははははは」
「……からかうというには、些かおふざけが過ぎるような気がしますがね」
 瞳子の目がきらりと光り、低い声を出した。男は笑顔のままゆっくりと席を立ち、逃げるように瞳子達に背を向けてアマリリスの出口へと歩いていく。
「あら、もうご相談は宜しいのかしら?」
 その背中に瞳子が声をかけると、男は飛び跳ねてぐぎぎ、と瞳子を振り返った。
「ああ……はい。そうですね……。ちょっと、立ち寄っただけですから。私はこれで帰りますね……」
 そう言って立ち去ろうとする男に、瞳子は笑顔でそうですか。と言った。そして、男へ追い打ちをかけるように、
「そうそう。私もお客様は神様だという考え方には賛同ですよ。今時は店員の態度でクレームをつけられる事案が多々ありますからね。駅前のクレープ屋さんや、飲み屋街の店なども、クレームをつけられてさんざんな目に遭ったようです。そういった案件が多発しているそうですね。中年の男性が、店に落ち度はないのに出された料理にわざと虫を混入してクレームをつけたり、難癖をつけて店の悪評被害を出したりして、店の料理をタダで召し上がって帰る客がいるようで」
「そ、そうなんですね……」
「ええ。あ、決してあなたではないと思うのですが、いつも上司を出せ、店長を出せと言って暴言を吐くそうですよ。こんなお話を聞くと、お客様は神様だといえど、貧乏神や疫病神のようなお客様には来て頂きたくないと思ってしまいますね。まあ――」
 瞳子はそう言って、腕を組んだ。
「そういう方たちに対応するのが、私の仕事ですがね」
 最後の言葉に、男は弾けたようにアマリリスから出て行った。店に居た客が、わっと拍手をして盛り上がったこを、男は知らない。

 店から疫病神が居なくなったので、都花は

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