香ばしい香りを嗅いで、瞳子は肩の力が抜けた。
ここはカフェ「アマリリス」。半年前にできたコーヒー専門のカフェで、桜木瞳子は週に三回はやってくる常連だ。

アマリリスを知ったのはちょうど二ヶ月前。図書館の隣に白い建物ができたのを見かけて、ふらりとジョギング途中に立ち寄ったのがきっかけだった。
ブラジル産のコーヒーを主に扱う、質の高いコーヒーを提供しているこだわりのある店だ。その分、一杯の料金はややお高めだし、フードメニューはそれほど多くもない。
それでもこの店が人気な理由はただひとつ。それは――
「お待たせしました、春のブレンドです」
ぼうっとしていた瞳子の前に、そう言って一人の店員が現れる。
ソーサリーをそっと置き、流れる所作でコーヒーを注ぐその人を瞳子は静かにちらりと見た。ネームプレートの名前は……待崎。
髪は明るい金髪に、切れ長の目が奥に潜む黒縁眼鏡。耳には沢山のピアス。男性のように長身ですらりとした佇まいをしているが、手首や物腰から女性だとわかる。誰もが目を引くこの人がいるからこそ、このアマリリスは人気なのだろう。

かくいう瞳子もこの待崎が気になる内の一人だった。
美しい彼女を見ながら飲む格別なコーヒーは特別なもので、仕事で疲れた瞳子の心を癒してくれる。女子高生を見ながら一杯やるオジサンのようだと思わなくもないが、このカフェに来て幸せな気持ちになる理由が彼女であることは確かだった。
「ご注文は以上でしょうか?」
瞳子は頷いた。真面目に生きてきた自分の髪色は何色にも染まっていない。相反するように輝く待崎の金髪は男のように刈り上げられ、伸びた前髪を後ろで小さく結っている。
雀のしっぽみたいだわ。
瞳子はカップの縁に唇をつけながら、ひっそりとそう思った。
「こちらは今回ご注文されたコーヒーの紹介カードです。宜しければご覧下さい」
待崎はテーブルの上に白いカードをそっと置くと、一礼して足早にカウンターへと戻っていく。アマリリスでは注文したコーヒーの紹介として、原産地や生産者の名前が書かれた詳細のカードを一緒に客に提供している。
コーヒーのことを知ってもらうことも目的だろうが、アマリリスの真横に隣接しているビーンズショップで同じコーヒー豆が購入できる。もし飲んで気に入ったら買ってね。という、店の意図が感じられる。

コーヒーについて理解していれば、待崎とも話をすることができるだろうか。そう考える自分がいて少々困惑してしまう。別に、お近付きになりたいと思ってカフェに通っているわけではない。
言い聞かせるようにもう一口含めば、アップルベリーの香りが静かに瞳子に絡みつく。
ふと顔を上げると、別の客に接客している待崎の姿が見えた。彼女の甘い微笑みで客は頬を染め、夢見心地で連れの客と談笑を始める。その様子に、瞳子は純粋に羨ましいと感じていた。

瞳子は昔から親に可愛げがないと言われ育った。
愛想を振りまくのが苦手で、表情筋はほとんど動かした事がない。おまけに真面目なものだから、思った事をはっきり伝えてしまって相手を傷つけることの方が多かった。
自分の好きな色で髪を染め、好きな仕事をしながら、人に優しく接する事ができる人。待崎という人間は、瞳子にとって密かな憧れの人なのだ。
そう、憧れだ。
荷物を確認して財布を取り出し、勘定の用紙を握ってレジへと向かう。待崎はまた別の客を接客している。あまり近くに来られるとむず痒くなるので、瞳子は内心ほっとしていた。
レジカウンターでは三十代後半くらいの歳の男が対応してくれた。髪をオールバックにきっちりとキメた、髭の生えた落ち着きのある男だった。
瞳子はそそくさと勘定をすませると店を出ていく。去り際に待崎がカウンターの男へ何か言っているような気がしたが、気のせいだろうとかぶりを振った。

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