華やかで香ばしい香りに、瞳子(とうこ)は肩の力が抜けた。

 今日頼んだコーヒーは春のブレンド。アップルベリーのほのかな甘みと、チョコの余韻が織り成すこのカフェの春一押しである。
 瞳子の休みの日課は、朝いつも通りに起きて、部屋の掃除をし、ジョギングの途中でカフェ「アマリリス」に立ち寄ること。
 そしてアマリリスでケニア産コーヒーを頼むこと。
 でも今日はケニア産は頼まない。
 なぜなら、
「こちら、本日ご注文されたコーヒーのご内容です。
良ければご参考にしてください」
 そう言って一枚のカードを出してきた店員の、待崎という名札をチラ見して瞳子は会釈した。
 見た目年齢のわりに珍しい、明るい金髪。後頭部は男みたいに刈り上げて、前髪を雀のしっぽのように後ろで結んで額を出している。耳にはいくつものピアス。黒縁眼鏡の奥の瞳は細く切れ長で、笑顔が甘い。
 ボーイッシュな彼女が店に居る時は、お客さんに必ずコーヒーの宣伝をするために紹介カードを渡しに来る。そのカードをそのまま隣のコーヒー豆販売店に持って行くと、同じコーヒーのドリップ用のコーヒー豆が買えるのだ。
 いわゆる、飲んで美味しかったら買ってね、である。
 ちなみに、いつも店に備えてあるオリジナルのケニアを頼んだ時は来ない。ちょっと高めのコーヒーとか、新作を頼んだ時に持って来る。瞳子は最近それに気づいた。
 別に待崎とお近付きになりたいとか、そういうわけじゃない。瞳子は丸みを帯びた茶色いマグカップを両手で包んで、待崎の背中をじっと見つめた。
 彼女の身長は自分よりずっと高くて、顔は大人びている。今年三十三を迎える自分より、二、三歳は年上じゃないだろうかと瞳子は推測する。
 この気持ちがどういう感情なのかは今はどうでもいい。ただ、魅力的な彼女を見ながらコーヒーを一杯やると心が豊かになるのだ。女子高生に憧れるサラリーマンみたいだけど、平凡で真面目に生きてきた童顔喪女の自分にはないものを、彼女は持っている。
 それが羨ましくあり、憧れだった。
 割りとこのカフェも通っている気がするけど、待崎と話したことは一度もない。話しかける勇気も、話題もない。話す気もない。
 向こうもきっと、覚えてはいないだろう。
 二杯目のお代わりを継ごうとカップに注いで、すかさず飲む。春のブレンドは、仕事のストレスやプライベートの愚痴を全て癒していった。
 瞳子はコーヒーから立ち上る湯気と、窓の外をぼんやりと眺める。
 これを飲み干したら、ジョギングを再開しよう。
 脱いでいたアウターを羽織り、会計の紙を掴むと足早にレジに向かう。だらだらした時間はもう終わり。ジョギングの途中で百均に寄ったら、仕事で使う事務用品やメモ帳を買ってそのまま帰る。帰ったら一度横になって、一時間くらい寝たら夕ご飯の支度をして、今日のミッションは終わりだ。明日の準備をして、風呂、夕ご飯、寝るだけ、とすました顔で会計に向かう。
ところがレジの近くに別の店員もいたのに、瞳子に気づいた待崎がスマートにレジに入って来たので、彼女は一瞬、怯んでしまった。
「ありがとうございました!」
 待崎は爽やかな笑顔で御礼を言う。瞳子がわりと視線を外して人と会話するのに対して、待崎は真っ直ぐに自分を見て来るものだから、いたたまれない気持ちになる。
 またのお越しをお待ちしております。そう続けてお釣りをもらう時に触れた手が冷たかった。店内はとても温かいのに、彼女の手に触れて静電気にあったみたいだった。
 小さく会釈した瞳子は、木製の扉についた固い取っ手を力強く握って、逃げるようにアマリリスと待崎に背を向けた。待崎が慌てて自分に何か言いかけた気がしたが、怖くて振り返らなかった。
「あっ、お客さ、ま……!」
「帰っちゃったね、待崎」
 瞳子が帰ってしまい、アマリリス店員の待崎 誉(ほまれ)はガックリと肩を落とす。
 今日も彼女に声をかけられなかった……。と落ち込む誉の肩を、店長が慰めるように軽く叩いた。
 誉は半年前からこのアマリリスで働き始めた。三年働いた会社を辞め、家に居場所もなくふらふら路頭に迷っていたところを、今の店長に声をかけられてやってきた。
 アマリリスという名のコーヒー専門カフェは、ブラジル中心に様々な国からコーヒーを輸入し、販売しているコーヒーの店だ。
 他では飲めない美味しいコーヒーが飲めるのが評判で、やや割高の値段がするラインナップでも毎日のようにコーヒーを嗜みに来る客で賑わっている。
 コーヒーの種類、淹れ方、その他雑用や試験など覚える事は山ほどあるが、接客業は性に合うと誉は感じていた。二ヶ月働いてしばらくして、常連の顔も覚えてきた頃。誉は店内で瞳子を見つけた。
 他の客は本を読んだり、スマホを触ったり、ネットブックを広げて仕事を始めたりする中で、一人だけコーヒーに集中してぼんやりと窓の外を眺めている人がいたのだ。それが瞳子だった。黒髪のショートカットが良く似合っていた。二十六歳なのに老け顔に見られる自分とは違って、幼顔の可愛らしい女性だった。
 外の掃除をしていると、時々ジョギングしているのか店の前を通り過ぎることがある。こちらには全く気づいていないが、ジョギングの途中で、アマリリスに寄っているようだ。
 最近は他のブレンドも飲んでいるけれど、誉が店にいる時以外は必ずケニア産のコーヒーを頼むらしい。あんまりケニアを頼むから、店員の間では「ケニアの人」だなんて呼ばれている。なぜケニア産のコーヒーばかり飲むのか、誉はずっと気になっていた。気になった先、はにかんで会釈する彼女の事が気になり始めていたのだった。
 誉は格好は男性的だが、心は女性で、女性が好き。
今の時代、珍しくも何ともないだろうが、受け入れられはしない。
 別に、彼女に気持ちを押し付ける気はない。
 けれどいつか、ケニアの人と呼ばれる彼女のことをこっそりとあだ名で呼ぶんじゃなくて名前で呼んでみたい。同じ景色を見てみたい。あわよくば……触れてみたい。
 誉は大きなため息をついてレジの中にしゃがみこむ。
「待崎誉は重症を負いました……」
 吉川店長が、しゃがみこんだ誉を覗き込んでさわやかな笑顔を作った。
「いつも渡してるコーヒーの紹介カードに連絡先書いて、渡したら?」
「そんな男前なこと、できるのは吉川店長だけですよ……!」
「ヘタレだなあ。見た目はイケメンなのに」
 ため息をついた誉が、顔を上げて店長に訴える。爽やかイケメン妻子持ちの三十五歳に、この気持ちは一生わかるまい。
「さー仕事、仕事。ケニアの人は帰ったんだから、後半もお仕事頑張ってもらわなきゃ困るよ」
 吉川店長の掛け声に、わかってますよと立ち上がって誉はいつもの顔に戻る。
 ケニアの人、瞳子はかなりの常連だ。またいつだってアマリリスにやってくる。機会はまたある。今は今日一日の仕事を完遂することが、自分の使命だ。切り替えの速さも、誉の美点だった。
「吉川店長、自分頑張ります。色々と」
「うん、その意気で」
 瞳子が座っていたテーブルの上を片付けようと、誉が台拭きを持っていく背中を見ながら吉川は思った。
 ケニアの人が、誉が出社している日はケニア産コーヒーを頼まないことを、誉は理解しているのかと。

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