瞳子がケニア産のコーヒーを飲むのには理由がある。
 単純に言えば好きだから。あの花のような香りと、グレープフルーツを感じさせるフルーツ感。コーヒーは温かい内が美味しいと思い込んでいたら、冷めるほどにベリーやパッションフルーツのようなフレーバーが感じられる。そんなケニアのコーヒーに病みつきになってしまったのだ。
 仕事で沸き起こる、くさくさした気持ちは花の香りに打ち消され、温度によって様々なフルーツに感じられるフレーバーは、疲れた体を癒してくれる。何より、カフェ「アマリリス」の解放感のある空間と、誰にも邪魔されない自分だけの時間が、より居心地のいいものにさせていた。アマリリスでケニアのコーヒーを一杯、頂く。それが瞳子にとって幸せな時間になっていた。
「ご注文はお決まりになりましたか?」
「……あ。はい。ケニアのホットと、チーズケーキで」
 初めてアマリリスでケニアコーヒーを飲んだ時の事をぼんやり思い出していたせいで、瞳子は待崎の問いかけに思わずはっとしてしまった。慌てた表情は一瞬で仕舞いこんだが、つい癖でコーヒーはケニアを頼んでしまった。待崎が居る時は、新作メニューを頼むのに。もしくは、金銭的に余裕がある時限定で、昨年入賞した海外のコーヒー豆を使ったホットを頼むのに。
 そうすると、間違いなく待崎が新作コーヒーのご案内カードを添えて、コーヒーを持って来てくれるから。
(まあ、いいか……)
 瞳子は心の中でため息をついた。今更、注文した内容を覆すのも億劫だし。今日は待崎もフロアで動き回っている。それだけではなく、実は先週も仕事が休みの日に新作コーヒーを飲んだし、初夏の期間限定コーヒー「夏のブレンド」ももう頂いていたのだ。明日から仕事が忙しいかもしれない事もあって、アマリリスに来たからか、気が緩んでいつもと同じものを頼んだのかもしれない。今日はケニアでいいや。瞳子はそう思った。
 ところが待崎は何か言いたげな顔をして、
「……あ、今日はケニアにされるんですね」
と言った。
「え?」
 瞳子は待崎に声をかけられたのが意外だったので、咄嗟に聞き返した。
「……え? あ! あ、いや、何でもないです!」
 しまったといった顔をして、待崎は直ぐにお持ちしますねと慌てて奥に戻ってオーダーを伝えに行った。どうかしたのだろうか。瞳子は不思議に思ったが、特に気にせずコーヒーを待つことにした。ただ、ずっと話したことがなかった待崎から声をかけられたのが、ちょっとだけ生活に変化が出たような気がして浮ついた。

「お、オーダー入ります。ケニアいち、チーズケーキいち」
(何を聞いてるんだ、自分は……)
 あの言い方だと、まるで今日は自分に会いに来たんじゃないのかと言っているようで、それに気づいた誉は瞳子がどう思っているかもわからないのに居たたまれなくなってしまった。
 誉は、吉川店長と三年先輩だが二つ年下の林 都花にオーダーが入った事を伝える。吉川はすでにマグカップを温め、コーヒーメーカーにお湯を注いでいる。
 アマリリスではマグカップにコーヒーを入れてお客のところに持っていかない。コーヒーメーカーとマグカップをそれぞれお持ちして、目の前でコーヒーを注いでくれる。容器には二杯目分も残るので、おかわりはお客様自身で注いでもらう。
 それもまた、アマリリスのやり方でもある。
 ケーキはレジ前のショーウインドウに今日は四種類。アマリリスが取り扱うコーヒーで作ったティラミス、砕いたビスケット生地が香ばしい濃厚なチーズケーキ、しっとりとしているのに軽い口どけのプレーンシフォン。そして季節の果実を使ったタルト。今旬は甘夏のタルトが並ぶ。それら全てを作っているのが都花だった。
 都花は県外のレベルの高い調理学校を卒業したのにも関わらず、就職先が決まらなくてどうしようか考えていたところに、アマリリスの調理募集の貼り紙に出くわした。今では吉川に季節のケーキや軽食のメニューを一任されるほど、力の有る若き社員である。
「できたよ」
 都花がマグカップとコーヒーメーカー、チーズケーキを乗せたお盆をカウンターに置いた。ありがとうございますと一言添えて誉が持って行こうとすると、都花が言った。
「今日はケニアじゃないのかぁ。残念だねぇ、アッパレ」
「……何がですか? みゃー先輩」
 アッパレというのは、都花がつけた誉のあだ名である。誉イコール、アッパレという安直なあだ名だ。反対に、誉は都花のことをみゃー先輩と呼ぶ。都花は誉と歳も近いが、誉は彼女の仕事や腕前を尊敬して、中途半端にあだ名と先輩呼びをしている。
 都花は目くじらを立てた誉を無表情でからかうように言った。
「今日はフロア担当だったからケニアさんのところに行けるけど、新作頼まないのを見ると『あれ? 今日は自分に会いに来たんじゃないのかな?』って思っちゃうよねぇ。まあ、アッパレは人間ができてるし、心に余裕があるだろうから、そんな迂闊な事をつい口走ったりなんか、しないよねぇ?」
「……もう持っていきます。」
 みゃー先輩のバカ。どうやら、先程の瞳子との会話を聞かれていたらしい。誉は心の中で不貞腐れたまま、営業スマイルで瞳子の席へと向かった。

「お待たせ致しました。ケニアのホットと、チーズケーキです」
 瞳子の前にゆっくりと無駄のない動きでマグカップを置き、静かにコーヒーメーカーからケニアを注いでいく。半年前まではもたついていた動作も、今では様になったなぁと瞳子は何様だとも思いつつそう感じた。それが本当に、よく似合っているのだ。
 コーヒー独特の香ばしい薫りが瞳子の鼻をくすぐった。今日はお腹が空かなくて昼食を取らなかったから、チーズケーキが思っていたより美味しそうに見える。まあ、ここのケーキはどれも美味しいのだけれど。
「ありがとうございます」
 あまり嬉しいという感情を外で出さない瞳子だが、この時ばかりは目を細めて口角を上げた。おいしい。そうぽつりと呟いたのを、誉は聞き逃さなかった。瞳子がこのカフェで幸せそうな顔をしている時が、誉は嬉しく感じるのだった。

戻る