それからしばらくして、三十代のすぐに弛んでくる体を苛め抜くべく。瞳子は休日にワークアウトに出かけていた。ワークアウトといっても、ただのジョギングではあるが、今の年齢に三十分連続のジョギングは結構こたえる。
 コースは単純。一人暮らしをしているマンションを右に出て、その通りにある角の小学校、コンビニを通り過ぎ、集合住宅の周りをぐるりと一周してカフェ「アマリリス」と図書館の前を通ってまたマンションに戻ってくる。もしくは、図書館方面へ行かずに市役所の方へ行って遠回りして帰るかだ。明快なコースだが、一周するだけでちょうど三十分になる。
 軽快な足取りで走っていた瞳子だが、小学校の前を通り過ぎたあたりで小銭をポケットに入れてくるのを忘れたことに気づいた。これでは、途中にアマリリスに寄るどころか自販機でペットボトルの水一本すら買うこともできない。時間は朝の九時半過ぎ、すでに太陽は真上に上がっており肌が汗ばんでいる。喉も少し乾き始めていた。
(どうしようかな。今から取りに帰るにしても、ちょっと家から遠くなってしまったし)
 早めにコースを切り上げて、帰って水を飲めばいいや。
 合理的な彼女はそう思い、走る速度を上げた。

 アマリリスは朝八時からビーンズショップを、カフェの方は十時からオープンする。カフェは十七時でラストオーダーとなり十八時で閉店。ビーンズショップは十九時まで営業する。誉の出勤時間は十時から十一時の間に出社して、ラストまで。
 出勤体制は朝一番に都花とパートの若い主婦が入って準備をし、昼前に誉が交代で入る。吉川は誉の出勤より早かったり遅かったりするが、ヘルプや研修でもない限り大体は終業までいる感じだ。
 雀のしっぽのように短い髪を後ろで結んで、誉は指の爪や埃など、衛生的に問題がないか鏡の前でチェックする。吉川は仕事上のミスやファッションには寛大だが、衛生面や接客には厳しい。
「……よし。店長、トイレチェック終わったら、自分豆の方に入ります。パートの荒川さん、もう上がりですよね」
 豆、とはビーンズショップのことだ。カフェのレジからビーンズショップのレジで接客している荒川さんがそわそわしているのが見える。吉川はエスプレッソの準備をしながら振り返りざまに誉に叫んだ。
「おう、悪いな。もうちょいしたら次の柴田さんが来るから、それまでお前が入っててくれるか」
「了解です」
 誉は入店してきた客にいらっしゃいませと声をかけながら、やや速足で荒川のもとに向かった。
「お疲れ様です。荒川さん、もう上がりですよね。すいません、もうちょい自分が早めに来てたら良かったんですけど」
 荒川は忙しそうにしていたが、それほど嫌な顔もせずカウンターから出てきた。
「ええんよ。柴田がいっつも遅いからって、誉ちゃんが気を遣う必要ないし。ああほら、今裏の方に柴田が走って行ったわ。帰り際に私が文句行うとくし」
 あはは……と誉は苦笑い気味に荒川の圧に笑った。荒川も柴田も古株のパートで、誉は二人から可愛がってもらっていた。
「ごめんなぁ、もうちょっとだけ入っててや」
「はい、任せてください」
 じゃあね、とピースをして帰っていく荒川を背に、誉はショップの陳列を整頓したり、モップで埃を落とすことにした。ビーンズショップの客用入り口は全面ガラス張りで、隣向こうは市立図書館、その隣は市立体育館が並ぶのが見える。住宅が密集しているので人も入ってきやすく、図書館で本を借りてアマリリスに立ち寄る客も多い。ここはアマリリスにとって最高の立地条件だった。
 カフェで忙しそうに吉川や都花が行ったり来たりしているのが見える中、すぐ来るだろうと踏んでいた柴田は、まだ来ない。もしかしたら、荒川に足止めという名の小言を聞かされているのかもしれない。
「遅いなぁ……」
 昼前からランチに利用する客が来始める前に、柴田と早く交代がしたい。カウンターで腕組みをしていた誉だったが、ふと向かいの道路に見知った人が見えた。
 ケニアの人、瞳子だ。
 ジョギングだろうか。今日はアマリリスに寄ることもなく、店の前を通り過ぎようとしている。誉の眼鏡は近視だが、瞳子の姿は良く見えた。
(なんか、ふらふらしているようにも見えるけど……大丈夫かな?)
 いつも姿勢を真っすぐにして、きりっとした表情で走っている瞳子が、どこか頼りなさげに見えた。少し心配になってカウンターから身を乗り出す。……アマリリスに寄らないのなら、こっちを向いてくれないだろうか。自分と、目が合ってはくれないだろうか。そんな風に思っていた。
 こっちを向いてくれないことは、自分を意識していないと言われているようで、誉は複雑な思いを抱いた。
(貴女のことが、気になっている人間が、ここにいますよ)
 誉は数を数えることにした。三、二、一で瞳子は自分がいるアマリリスの方を向いてくれる。そんな子供じみたおまじないを思いついたから。
(今からケニアの人が、こっちを向いたらケニアの人が自分を今後、意識してくれる)
 そんなおまじないを。
「さん」
 誉は喧騒になりつつあるカフェの中で一人、呟いた。
「に」
 瞳子はこちらを向く気配はない。
「いち」
 ゼロ。

 ……。

 誉のおまじないも空しく、瞳子はすたすたとアマリリスを越えて走って行く。金髪を誤魔化すようにぼりぼりを掻きあげて、誉がため息をついた瞬間。瞳子が地面に向かってうつ伏せに倒れ込むのが見えた。
「……は?」
「誉ちゃん、ほんっとごめんね遅くなって! 今さっき荒川さんに捕まって怒られてたのよ。もうフロアに戻っても大丈夫よ」
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。固まった誉にやっと出社したパートの柴田が両手を合わせて駆け込んでくる。柴田は自分の声に返事をしない誉に首を傾げて問いかけた。
「誉ちゃん? どうかした?」
「柴田さん、自分、ちょっと出てきます!」
「え……」
 誉は弾かれたようにビーンズショップの扉を出て、真っすぐ瞳子のところへ駆け出していった。

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