やらかした。
 初夏の太陽を嘗めていた自分を反省した。瞳子はクラクラし始めた頭を押さえると、ゆっくりと体を起こす。そうはいっても、すぐには立ち上がれそうもない。
(……やっぱり小銭か、ペットボトルに水でも入れて走るんだった)
「っとに、危ねぇな」
 アスファルトに腰をかけて汗を拭う自分の隣を、自転車に乗った初老の男がじろりと横目で通り過ぎていく。悪態を吐いて去るジジイの気持ちもよくわかる。いい歳した大人が盛大に転んでしまって、ものすごく恥ずかしい。さっさとこの場から立ち去りたい。瞳子はすっくと無理やりに立ち上がったが、頭が茹で上がっている彼女には二本の足で立ったままなのも難しく、また座り込んでしまう。
(どうしよう……)
 いつも通っているカフェの前に座ったままでいるのも怪しいし、這いずってても帰るか。途方に暮れていた瞳子の背中から、掠れた低めのアルトが聞こえた。
「大丈夫ですか……!」
 振り返って、金色の髪がまず最初に目に入った。光に照らされた金色って、黄色じゃなくて白に見えるんだなと瞳子は目を瞬かせて思った。次いで、アマリリスから走ってきた待崎だということに気づいて、瞳子は顔を赤くした。アマリリスが目の前だからって、結構距離がある。あんなところから、瞳子が転んだことに気づいて走り寄ってくれたのだ。
 待崎は息を上がらせて、しゃがんだ瞳子に手を差し出した。
「立てますか?」
 少し躊躇った彼女だったが、一人ではふらつくので仕方なく待崎の手を取った。黒縁の奥の目が、心配そうに瞳子を見つめる。
「すみません」
「めっちゃ顔色悪いですよ、熱中症かも……。今日思ったより暑いですしね、よかったらそこのカフェで休んでいきませんか? 水くらいなら出せますし」
 それを聞いて、赤い瞳子の顔が青く変わる。お金も持っていないのに水だけもらって帰るなんて、そんな申し訳ないことはできない。
「いや、大丈夫です。自分の自業自得ですのに、そんな厚かましいことできません。お仕事ですよね、私帰りますので……」
「おっと」
 慌てて踵を返そうとした瞳子だったが、足がもつれてまた転びそうになる。とっさに瞳子の手を掴んだ待崎のおかげで、再びアスファルトとキスをすることは防がれたが。
「……。すみません……」
 三十三歳にもなって、人の手を借りることのなんと情けないこと。口を一文字にする瞳子を見て、待崎は零したようにふはっと笑って、
「全然、大丈夫です。歩けますか?」
と言った。待崎の見せたその笑顔は、暑い初夏の中に吹く爽やかな風のようだった。

「誉ぇ! お前、このクソ忙しい時に一体どこに行ってたん……だ、何、どした?」
 カフェの扉を開いた誉に、吉川店長の悲鳴が飛んでくる。ところが、顔色の悪い瞳子と誉のセットの登場に吉川は混乱した。しかも、手を繋いでいやがる。さすがの無表情ガール、都花もキョトンとした顔で二人を見やった。
「店長すんません。この方、店の前で倒れてたんです。熱中症っぽい。お冷あげてもいいですか」
「お、おう。それはいいけど」
 後で説明しろよ、と吉川は誉に耳打ちして厨房に戻った。都花は誉の代わりに忙しいこの時間帯にフロアに出てくれていた。誉は二人に感謝しつつ、ケニアの人をビーンズショップに設置されているソファに座らせると、自分は厨房のガラスコップをひとつ拝借し水を入れる。氷は入れない。頭が痛くなるかもしれないし。
 増えてきた他の客を横目に、焦る気持ちを抑えつつ、少し速足で瞳子のもとへ戻る。
「どうぞ」
 空調の効いたカフェの中で落ち着いたのか、外で話した時より瞳子の顔色は落ち着いたように見えた。グラスを目の前に差し出すと、瞳子は申し訳なさそうに頭を下げて受け取った。
 指先が細くて、白い。華奢だな、と誉は思った。
「すみません」
「謝る気持ちもわかるんですけど、こういう時はすみませんよりありがとうって言ってもらえる方が、自分は嬉しいです」
「……」
 そう言って笑う誉を瞳子が見上げた。色素の濃い、黒い瞳が自分を真っすぐに見つめてきたので誉はどきっとする。言って、失礼だったかもしれないと次いで慌てて訂正した。素直なのは自分の美点で、欠点でもある。
「すいません! 生意気でしたね」
「いえ……」
 一口、二口。ほっとしたような顔で――ケニアコーヒーを飲むときと同じ顔で――瞳子はお水を頂いた。
 カラン、とアマリリスの扉の鐘が鳴る。瞳子のその様子をしばらく見ていたい誉だったが、そろそろ本当に戻らなければ店が爆発寸前だ。ついでに店長も爆発するかもしれない。柴田に瞳子を見てもらうことにして、誉はカフェのフロアに向かう。
「それじゃあ、自分はフロアに戻るんで。柴田さん、すみませんがこの方をよろしくお願いします」
 じゃあと背を向けた誉に、瞳子が、
「……ありがとう」
と呟いた。
 顔だけ振り返った誉はニッと笑うと、
「どーいたしまして!」
と笑って。今度こそ、フロアへと消えて行った。瞳子は、慌ただしくクルクル動く誉の様子を、静かなビーンズショップのソファからじっと見ていた。

 昼時のアマリリスは平日問わず出入りが多い。目まぐるしい注文の数と接客に、気を張り巡らせて誉たちは動き回っていた。多忙な時間が過ぎて、ようやく客足も落ち着いてきた頃。誉が瞳子のいるはずのビーンズショップに向かうと、そこに瞳子の姿はなかった。さっきまでいたのに。ビーンズショップの扉を出て、左右と見まわしてみたが、午後の優しい風しか残っていなかった。
 もうすぐ勤務時間を終わる柴田が一分一秒と時計を見ているのを見つけて、誉は柴田に詰め寄った。
「柴田さん、ケニアの……いや、さっきまでここで休んでいた人は?」
 柴田は上の空だった頭を急に現実に引き戻された顔になって、素っ頓狂な声を出したが「ああ」と返事をしてポケットから一枚の紙を取り出し誉に渡してきた。
「もうちょっとここに居たら? って引き留めたんだけどね。いつまでもここに居るわけにもいかないし、用事があるから家に戻りますって言って聞かなかったんだよ。まあ、顔色もだいぶん良くなってたから、私もいいかなって思って」
 帰り際に声をかけられなかった事を誉は少し残念に思ったが、柴田がそう言うなら体調については大丈夫だろう。受け取った紙をおもむろに開くと、そこにはきっちりとした丁寧な字で、
【ありがとうございました。桜田】
と書かれていた。
 桜田。きっと、ケニアの人の名前だ。と、誉は宝物を見つけたような目でその二文字を見張った。桜田さん。下の名前は何ていうんだろう、とも思ったが。誉は嬉しくなって大事そうに自分の胸ポケットにしまい込んだ。他人の名前がこんなにも煌めくように感じられたのはいつぶりだろうか。自然と上がる口元を拭うように誤魔化して、誉はショップの中から初夏の空を見つめながら思った。
 次にケニアの人がコーヒーを飲みに来たら、桜田さんと呼んでみよう、と。

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