「すみません、待崎さんはいらっしゃいますか」
 カウンターに現れた女性を見て、吉川は後ろにひっくり返りそうになった。カフェ「アマリリス」にケニアコーヒーばかりを飲みに来る常連で、店員の待崎誉が気になっている女性……通称ケニアの人、桜田だったからだ。桜田はパールのイヤリングを耳に、緩いVネックになったピーコックグリーンのニット、淡色のジーンズを履いて、夏らしい爽やかな着こなしで来ていた。姿勢がいい彼女に、その服はとても良く似合っていた。
 先日、桜田は店の前で気分が悪くなったようで、起き上がれないところをうちの待崎が店で休ませたらしい。今日はジョギングの途中のようなジャージや軽装ではなく、誉に改めて礼を言いに来たのだろう。綺麗な格好でわざわざお礼に来るあたり「ちゃんとした大人」なのだなと吉川は思った。当の本人は「三十三歳の大人が水を飲まずに暑い中、走ったせいで熱中症になりかけたなんて、何たる失態……」と恥ずかしく思っていたが。
 そんなことを知らない吉川は、桜田に対して申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「すいません。待崎は今日、お休みを頂いておりまして……」
「あ……そうでしたか。では、また改めてお礼に伺います。その……先日はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。ありがとうございました」
 桜田が深々と頭を下げたことで、跳ね返るように吉川も頭を下げた。
(残念だったな、誉……。せっかく、ケニアの人が来てくれたのに)
 吉川は、急な熱で寝込んでいる誉を憐れに思いつつ温い顔になった。夏に風邪をひくのは何とやら……とはいうが、本当にあいつはタイミングが悪いというか、可哀そうというか、おバカというか。
「いえいえ、とんでもないです。お体もあれから変わりありませんか。待崎も心配しておりました」
 どちらかというと、急に桜田が居なくなったことに心配していたのと、全てが終わってから自分が桜田の手を握ったり憧れのケニアの人の名前を知れたことで興奮していたことに吉川が心配したのだが。ついでに言うと、それが原因で熱が出たんじゃないかと吉川は内心思っている。
 桜田は待崎が心配していたという言葉に、無だった表情をひとつ和らげて答えた。
「はい、おかげ様で大事に至らずにすみました。あの時は、お声もかけずに帰ってしまってすみませんでした。お忙しそうで、かえってご迷惑になるのではと」
 面目なさそうに言う彼女に、吉川は吹き飛ばすように笑って言った。
「いやいや、謝らないでください。むしろ、こちらも何のお構いもできず。待崎も水だけ出したままですみませんでした。良かったらいつでもまたいらしてください。コーヒーだけなら他所の店には負けませんから」
 吉川のさり気ない気遣いに、桜田は笑って頷いた。アマリリスの店長がそう言うのだから、気まずくならずにまたケニアを飲みに来られる。桜田はそう思ってくれたようだ。

 誉はもう一日休んで完全復活した。翌日に出社して吉川からケニアの人が来店したことを聞いて、やっぱり落胆していた。何で自分はこんな時に風邪なんか引いてしまったんだろう、と愕然としていたが、それはどちらかというと店長である吉川の気持ちに近かった。吉川からすれば、多くない人手が一人でも欠員することは好ましくない。
 まあ、彼女もわざと風邪を引いたわけではないので、上司としては寛大にいきたい。吉川はふうとため息をつくと、苦笑しながら誉を気遣った。
「また何回かここに来てくれるだろうし、会うタイミングもあるだろ。あんまり落ち込むな」
「ふぁい……」
 よろよろと重症を負った武士のようにフロアのテーブルを拭きに向かう誉を見て、吉川は優しい笑みを見せる。それは、彼女を大事な後輩とも思い、妹とも思う、よき理解者としての顔だった。
 吉川が誉と出会ったのは半年ほど前。アマリリスがカフェとしてようやく軌道に乗ってきたのはいいが、人手が足りず彼が疲弊していた頃だった。アマリリスは現在、市内と市街に一店舗ずつ展開していて、吉川は今いるアマリリス一号店と市街にある二号店へのヘルプで行ったり来たりしていたのだ。
 一号店に自分以外のリーダーは都花しかおらず、パートの荒川と柴田だけでは店が回らなかった。どうしたものかと考えている時に、店の近くの公園で途方に暮れていた金髪が目に入った。若い時、この世のすべてに絶望し心を閉ざしていた自分の姿を思い出し、つい声をかけてしまった。あの時の誉は暗い瞳で吉川を訝し気に見ていたが、最後は、誉の事を決して放っておかなかった彼の勝ちだった。今では、吉川の方が誉のことを信頼し、アマリリスで自分が手の届かないところを任せている。いや、任せられるやつになっている。
 アマリリス一号店の二階はもともと物置小屋になっていたが、行き場のない誉が部屋として使っている。すぐ上の階に住んでいるからと言って、無理やり早い出勤にはさせていない。その代わり、光熱費は給料から差し引いている。今考えれば、素性もよく知らない人間をよく自分の店に住まわそうと思ったなと吉川は思う。けれど、アマリリスという店を建てたのも思いつき、コーヒー専門にやろうと決めてケニアに飛んだのも思いつき、結婚も第六感でこいつしかいないと思い決めた。吉川は、自分の第六感や直感を信じる性質だった。少しでも心にノーが浮かべばその通りに行動するし決めてしまう。でもそれでよかったと思う。選んだ結果に悔いがないからだ。
 誉をアマリリスに引き入れた自分の決断に間違いはなかったと思った。面接になって、彼女が女性だということに気づいて飛び上がったのは、ここだけの秘密だが。
「まあ、なんだ、誉」
「はい?」
「頑張れよ」
 言って手をひらひらと返し、彼は笑った。誉は、少し元気を取り戻したようにはい、と短く答えるのだった。

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