ここ数日、問題もないのに店にクレームをつけて来る男の話が上がっているらしい。
 出された料理に入ってなかったのに虫が入っていただとか、接客態度への不満、根も葉もない店の悪い噂を流されたりと料理店やカフェの間で問題になっている。
 カフェ「アマリリス」では今のところそんな男が来た様子はないが、少しでも妙な男性が来たりクレーマーが来たら店長の吉川にすぐに報告することになっていた。
「まあ、日も明るい間はそんなやつ来ないでしょ。大丈夫よ」
 都花はそう言いながら注文を受けたカフェモカとシフォンケーキを並べ、フロアへと出ていく。先日は巡警している最寄りの警察官がアマリリスに訪ねてきた。彼らによると、夕方から夜間にかけて男の現れる率が上がっている。店仕舞いをする時は特に気を付けて欲しい。とも言われたが、都花は「うちには来ないだろう」と高を括っていた。
「わかんないですよ。最近のクレーマーって、何するかわかんないですし」
 誉はそんな危うさもある都花を心配して言ったが、戻ってきた都花は鼻を鳴らしてレジに立った。
「アッパレはねえ、心配しすぎなのよ。何かあれば私たちで警察呼ぶなり、追い出せばいい話でしょ」
「そんな、すぐに対応できますかね……?」
 誉はそれでも、用心に越したことはないと思った。男性である吉川店長がいれば何とかなるかもしれないが、もし店内で暴れられたら女性の自分たちには太刀打ちできないかもしれない。誉だって、男性的な見た目ではあるが、力には圧倒的な差があるのだ。平穏なアマリリスも悪評被害も受ければ、どうなるかわからない。もしもを考えればきりがないが、いざという時のシュミレーションは必要だろう。それに、
「……来てもらってるお客さんたちの居心地が悪くなるのは嫌だな……」
 誉はぽつり、呟いた。
「誉、都花、ちょっといいか」
 吉川が厨房から出てくると、改まって二人を呼びつけた。二人を呼ぶ前、吉川は厨房の奥でアマリリス二号店の副店長と少し長めの電話をしていた。
「パートが二人、急遽休んだらしくてな。俺は今から二号店にヘルプに行ってくる。悪いけど、閉店前には帰ってくるから二人で何とか回しててくれないか。今日は平日だし、お昼以外は荒川さんと柴田さんとで何とかやれるだろ」
「わかりました。何かあったら、店長のケータイに直接連絡しても大丈夫ですか?」
「ああ、いいぞ。運転してて気づかなかったらゴメンだけどな。それじゃあ、後は任せた」
 吉川は、市街にある二号店に向かうべく足早に社用の車で出て行った。
「店長居ないと心細い時もあるけど、正直見張りの目がなくなって伸び伸び仕事できる気持ちもあんのよね」
「みゃー先輩……それ言っちゃだめでしょ」
 誉は苦笑しつつ、都花を窘めた。

 吉川が出かけてしばらくして、入れ替わりのように誉の想い人がアマリリスの戸をくぐった。瞳子である。今日はジョギングもしてきたのか、普段着ともとれるランニングウェアに、背中に黒い小さめのリュックを背負ってやってきた。入ってすぐのレジ前に立っていた誉は、瞳子の姿を見て一瞬で笑顔へと変わる。
「桜田さん! いらっしゃいませ、来て下さったんですね!」
「ええ。お昼の忙しい時間を過ぎた頃なら、席もあるかなと思ってきたんですけど」
 笑顔の誉を見て、クールな瞳子の表情が少しばかり和らぐ。誉が「お好きな席へどうぞ」とご案内すると、瞳子は一番隅っこの窓際一人席で、ソファになっている場所へ座った。上着を脱いでケータイの画面を一瞬だけ確認すると、すぐにリュックに仕舞う。カフェでケータイは時間確認以外に使わない。瞳子のマイルールだ。
「みゃー先輩、自分行きます」
「言わなくてもアッパレが行くんでしょ」
 レジ前でへへ、と笑った誉を見送るように都花は口元を三日月へと変えた。誉はメニューとおしぼり、お冷を瞳子の前へ優雅に置いて、
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
と言った。瞳子は伏し目がちに指先を口元にあて、何か考える素振りを見せた後、誉に聞いてみたかった言葉をかけた。
「待崎さんの、オススメはありますか?」
「えっ、自分のですか?」
 はい、と瞳子は頷いた。今まで、新作や期間限定、ケニアばかりを頼んできたが、既存のメニューの中で他を選んだことはない。自分で好きなものを選んだり、冒険するのも全然ありだと思っているが、たまには人から勧められた商品を選んでみたい。と、瞳子は思った。また、単純に誉がどんなメニューを選ぶのか興味があった。
 倒れてる人をわざわざ店から駆け寄ってきてまで、助けるこの人の選ぶものが。
「うーん、そう、ですね……」
 誉は虚を突かれたようで、メニューのページをぱらぱらと捲る。店員だからとは思わないが、大体のメニューは把握しているだろう。けれど、自分の中でこれが好きだとはっきり言えるメニューを他人も好きになるかというと、また難しい。
 誉は「桜田さんの好みかどうかはわからないですけど」と少し言葉を濁して、カフェインレスのコスタリカを指さした。
「カフェインレス? カフェインが入っていないってこと……ですよね?」
「そうなんです。最近、コーヒーだけじゃなくて色んなドリンクも置くようになりまして」
 カフェ「アマリリス」はコーヒー専門店で、コーヒーがメインのドリンクがほぼメニューを埋め尽くしている。もちろん、コーヒー好き、カフェ好きのお客様がやってくるので、コーヒーとはかけ離れたメニューをわざわざ置かなくてもいいのではないかと普通は思う。しかし吉川は違った。コーヒー独特の苦みが苦手なお客様だけではなく、一人はコーヒーを飲みたいけど、連れは飲めないから抹茶オレにする、とか。コーヒーを飲みたいけど夜眠れなくなったりカフェイン摂取を控えている方にはカフェインレスでコーヒーを楽しめるようにしたいと考えたのだ。
 さすがにパフェは置いていないが、他にも野菜ジュースや豆乳を使った新しいメニューも記載されていた。
「洋梨みたいな透明感と、甘い香りが心地よくて。でも飲んだらスッキリして自分は好きなんです。カフェインレスだからあまり苦くもないですし、オススメですよ」
 ニッと笑って誉は言った。この方は、本当によく笑顔が似合うな。と瞳子は思いながら、
「……じゃあ、それにします」
と言って、コスタリカを選んだ。ついでに、コスタリカに合うように葡萄のタルトケーキも注文する。アマリリスのコーヒーの値段は結構するのだが、久しぶりに訪れたのだ。たまには自分のご褒美として、いいだろう。
「承知しました。すぐお持ちしますので、少々お待ちくださいね」
 誉が持ってくるコーヒーがどんな味なのか、瞳子にとって待つ時間も贅沢に感じるのだった。

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