「お待たせしました。コスタリカのホットと、葡萄のタルトケーキです」
 一瞬、目の前に置かれたコーヒーよりも、葡萄のタルトに瞳子はくぎ付けになった。タルト生地が見えないほど、大きな葡萄が沢山乗っていたのだ。けれど、先に頂くのは絶対にコーヒー。一口飲んで苦味のない、飲みやすいコーヒーに目を瞬かせる。コーヒー好きの瞳子だから、カフェインレスを飲んだ事がなかったのでどう違うのだろうと思いつつ今まで手を出した事はなかった。コスタリカのカフェインレスは、誉がいうようにどことなくパッションフルーツのような果実の風味がする。コーヒーの苦味がない分、優しく感じられ、またホットだからこそゆったりと自身を温めてくれるような気がした。
 癒される。それはまるで、誉に似ているとも瞳子は思った。
「……美味しいですね」
「でしょう?」
 瞳子は思わず、彼女に感想を伝えていた。同意する誉に、瞳子もまた頷く。葡萄のタルトケーキはどこからフォークを入れようか迷ったが、一番大きい果実を掬い口に入れた。糖度の高い、爽やかでジューシーな葡萄で口の中がいっぱいになる。タルトには甘すぎないミルクムースと、香ばしいビスケット生地。一緒に掬って食べると、
「……ふふ」
 笑みも零れる。ミルクムースには、白ワインとマスカットの果肉がいくつか混ざっていた。これは、美味しい。
「お気に召して頂いたようで、何よりです。この後もゆっくりしていってくださいね」
 まだ口の中でケーキが踊っていたせいで、瞳子は返事ができなかったが会釈してそれに応えた。このタルトケーキは、百点満点だ。
 誉はそんな瞳子の様子にくすりと微笑むと、他の客の対応をすべくその場を離れていった。すでにタルトの半分を食べてしまった瞳子は、今月のジョギングは距離を伸ばそう……と、一人心の中で決意するのだった。

「あ、雨」
 瞳子がタルトケーキをたいらげ、コーヒーでほっと一息をついた時。店にいる客が一人呟いた。その声に導かれて窓の外を見遣ると、晴れていた空は暗くなりアスファルトが黒く染まっていく。
(……降水確率、二十パーセントって言ってたじゃない)
 朝のニュースに出た天気予報の若い女性を思い出し、心の中で悪態をついた。今日は晴れると聞いていたからジョギングついでに、アマリリスに寄ったっていうのに。傘を持って来ていない瞳子はとりあえず、コーヒーが無くなるまではアマリリスで雨宿りさせて貰おう、と思った。小雨になれば、走って帰ればいい。瞳子は合理的だったが、マイペースでもあった。
 外に植えられたユーカリの木が、雨風に煽られてざあざあと揺らめく。

「しばらくは止みそうにないですね」
 手の空いた誉が、瞳子に話しかけに来た。その時、一人の怒号が瞳子の耳を突き刺した。
「おい! なんだこのコーヒーは!」
 瞳子も誉も、驚いてその声の方に顔を上げた。見ると、やや太った中年の男がテーブルに出されたコーヒーに対して文句を言っているようだった。対応したのが都花だったのか、レジに戻っていた彼女が飛ぶように男の元に走り寄ってくる。男は自分の元に来た都花に、これ見よがしにカップを見せながら大声で喚き散らした。
「水っぽいし、虫が浮かんでるし……ここの店は、こんなもんを客に出すのかよ。信じらんねえな」
 アマリリスの衛生管理は、店長を始めとても厳しくなっている。ましてや、新人ならともかく、誉より三年も先輩の都花が虫が入っている事に気づかない事などありえない。また、分量通りに作られるアマリリスのコーヒーが、水っぽいということは絶対にない。
 都花はそんなはずは、と不思議そうな顔をして男に何か言おうと口を開きかけた。すると、
「何だ? 悪いのはそっちなのに、俺に文句言おうってのか? ほお、大した店だなあ。お客様は神様だってこと、上司からちゃんと教わってないのか?」
「いえ、そうではなく」
「つーか、お前に用はないんだよ。お前と話してたって無駄だろうしな。店長出せ、店長。この店で一番偉いやつ呼んでこい!」
 その言葉に、都花の顔が歪む。何で自分が他の客の前でこんなに罵倒されなければいけないのか。何でこの男に、これほどまでに言われなければいけないのか。その事に対して怒りが込み上げて来るものの、客である以上こちらから反論する事はできない。そして今、この店に店長はいない。もし居たとしてもクレームに対してすぐに上司を出すのは良くないが、出せる人がいないのだ。
 周りにいた客が困った様子でその行方を見ていた。他の客も不安にさせている。誉は唇を噛んで男と都花の前に立ちはだかった。
「何だ、お前」
 男が急に現れた誉をじろりと目で舐め回す。
「申し訳ありません。店長である吉川は本日、店外に出ており不在です。自分は待崎といいます。店長ではありませんが、店長代理の自分が対応させて頂いても宜しいでしょうか」
 緊張していた待崎は、早口で捲し立てた。背の高い誉が目の前に立ったことで少し引いたように見えた男だったが、上から下まで待崎を見遣った後、男は吐き捨てるように誉に言った。
「何だ、お前……女かよ」
 その場にいる誰もが凍りつく一言だった。
「男か女かわからんような格好しやがって、気持ち悪ぃ」
 誉の心臓が跳ね、ヒュッと喉が鳴ったのがわかる。言われ慣れている言葉だけれど、悪意があるのとはまた違う。
「そんっ……!」
「みゃー先輩」
 都花がはち切れんばかりに何か言おうとしたが、誉に手で制止され押し黙った。唇を噛んで、怒りを沈めるために。
(この、このクソジジイ……!)
 都花は客でなければ、足で蹴るか平手打ちを食らわしているところだと思った。それと同時に頭に血が上るとはこういう事なんだな、とどこか冷静な自分も心のどこかにいた。誉の瞳に暗い影が映る。瞳子の様子は自分の背中より向こうにいるため確認できない。だが、できれば、この場に瞳子はいて欲しくなかった。
 こんな風に嘲笑される自分、悪意ある偏見の目を向けられる自分を、見せたくなかった。
(落ち込むなぁ……)
 誉は握っていた拳に力を込めて、眉を下げた。男は苛立つように貧乏揺すりをし始めて二人を怒鳴り散らし始めた。
「それより。店長、出勤してんだろ? 外に出てんだったら、連絡先くらいわかってるだろ。はよ連絡して呼び戻せや!」
「それは……」
 できません、とは言えない。言えばまたこの男は逆上し、更に暴れるか暴言を繰り返すのだろう。接客は怒らせたら、負け。吉川から重々に言われた言葉だ。誉は迷った。
「できねえのか? やるか、やられねぇのか、どっちだ! このあほんだら!」
 ついに客の子供が怖がって、うわあんと泣き始めた。その泣き声にうるせえなと悪態をつく男。店の中は最悪だった。
(どうする、どうしたらいい?)
「俺が悪者みたいじゃねえか、さっさと店長を呼べよ。それで解決すんだから! おい、オカマ」
 一瞬、誰のことを言っているのか分からなかったので反応が送れたが、どうやら誉の事らしい。男はニヤリと笑って、誉に手を伸ばした。
「お前、店長代理なんだろ。代理なら、店長呼ぶか何かしといて、そいつが来るまで俺の相手してろよ。男っぽい格好してても、ちゃんとついてんだろ? 胸が――」
 男の手が誉の胸へと伸びる。払い除けるか、突き飛ばすか。誉が躊躇し怯んだ瞬間、細い手首が汚らしい男の手を掴んだ。

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