狭く細く、長く続く石畳の坂を、少女が全力で駆けていく。
天気は気持ちいいくらいの快晴で、飛ばせば飛ばすほど、さわやかで乾いた風が頬をかすめていった。遠めに見える市場では、人がたくさんいるのがわかる。
今日は、年に一度のお祭りの日。
こんな日ばかりは、街並みに干された洗濯物が色とりどりのフラッグに見え、家角に飾られる植木鉢はみんな太鼓に見えてしまう。
少女が軽快に走るその後ろから、橙髪の少年が息を切らしながら追いかけて叫んだ。
「ちょっと、ぜえ、待ってよミチカー!」
ミチカと呼ばれた少女は走りざまに振り向きながら、眉を上げて文句を言った。
「もーうっ! レグルスおっそーい! 早くしないと闘技大会の試合、はじまっちゃうじゃない! 王子様のくせに、鍛え方が足りないんじゃない!?」
「僕が遅いんじゃなくて、君がめちゃくちゃ早いから追いつけないんだろ! だいたい、足が遅いのはお父様からの遺伝なんだから、しょうがないよ!」
二人が進む道の途中、近所に住む親子が同じ方向に向かって歩いている様子が見えて、思わずミチカは速度をゆるめた。
「おーい、イリーナさーん! マリー!」
ミチカの声に気づいた女性は、振り向いてにっこりとおじぎをすると、手をつないでいた小さな少女に声をかける様が見える。マリーと呼ばれた女の子もミチカに気づくと、手を高く上げて振り返した。
「こんにちは、ミチカ様。あなたも今からお祭りへ?」
「ええ、そうよ。後ろからへろへろになって来ている誰かさんと一緒に、ね」
そう言って、親指を後ろにぴっと向けてレグルスを差すと、石畳の坂の終わりで限界な様子のレグルス少年が来ているのが見えた。
イリーナは苦笑すると、あなたも大変ですねとレグルスに声をかけた。しかし、ミチカは自分に向けて言われた言葉だと勘違いし、
「ほんっと! レグルスのお世話はとっても大変。きっとメイドや執事たちは毎日手を焼いているのでしょうね」
と言った。一瞬、言葉をなくしたイリーナだったが、気を取り直して話題を変える。
「あはは……あ。そうですわ。たしか、今年もミチカ様のお兄様は闘技大会に出場されるのですよね?」
兄と聞いて、ミチカの顔が花が咲くようにぱっと変わった。その表情で、彼女が兄をどのように思っているか一目瞭然だった。
「そうなの! 最近はお兄様より強い方がいらっしゃらないみたいだから、今年はお兄様への挑戦者を募る形で参加募集があったそうよ」
ミチカにとって兄は尊敬の対象で、憧れであり、自慢の家族だった。兄は歳の離れた自分を生まれたときから可愛がってくれた。
それだけではない。彼はミチカが間違いを犯したときも、頭ごなしに叱ることなく、端的に何が大事なことなのかを伝えてくれた。
父や母とはすこし違う、生きる手本のような人なのだ。
イリーナははしゃぐミチカに目を細めて、上品に笑った。
「まあ、それはすごいですわね。私も今から楽しみですわ……ところで、ミチカ様。お付きの方は今日いらっしゃらないのですか? それと、レグルス殿下はこちらにいらして大丈夫なのでしょうか? 王族の方は陛下たちと一緒に拝見されるのでは」
その言葉に、ミチカはぎくりと肩を跳ね上がらせる。そして突然「あーっ」と大きな声を出すと、
「いけない! いいかげん、闘技場に入場していないと券が買えなくなっちゃう。それじゃイリーナ、マリー。またあとでね。……いくわよレグルスっ!」
と、早口でその場でまくし立てると逃げるように市場を通り過ぎていった。疲れきり、ミチカとイリーナが話しているあいだは全く喋らなかったレグルスが、「もう無理……」と後ろで泣いているのが見えた。
「……ミチカ様のメイドさんや執事さんも大変そうね」
きっと、内緒で出てきたに違いない。イリーナはふっと笑みを零して、ふたりの行く末に幸あれと心で祈った。
ミチカは闘技場まで駆けてゆく。
彼女の笑顔は、仰ぐ青空のように憂いなく、爽やかに澄み渡っていた。