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 ランサーが帰宅すると、同居人が恋人と熱い抱擁を交わしているところだった。
 おいおいまたかよ……と思いながら、ランサーは玄関で靴を脱いだ。トイレで便器を抱えて、哀れなうめき声をあげている男にそっと声をかける。

「大丈夫か?」
「うっ……おかえり、ランサー……だいじょ、おぇえ」
 そこでまた男の言葉が呻き声に戻ったので、ああ大丈夫じゃないんだなとランサーは悟ると、黙ってリビングに行き、いつものように冷たい水と口を吹くタオルを用意してやった。それからソファーに座って時が過ぎるのを待った。
 数分後、トイレの水を流す音と、洗面所でうがいをする音が聞こえた。どうやら落ち着きを取り戻したらしい男が、青白い顔でリビングにやってくる。テーブルの上に置いておいた水を飲むと、口を拭って大きくため息をついた。
「ありがとう……」
「構わねえよ。もう慣れた」
「それを言われると返す言葉もない……」
 うなだれる同居人を見て、改めてランサーはもったいねえなあと他人事のように思った。同居人セイバー――本名アーサー・ペンドラゴンは、大学時代からの友人で、当時のランサーのルームメイトでもあった。卒業後してお互い別の会社に勤めるようになってからも、そのまま学生時代を引きずるようにルームシェアをしているのにはわけがある。
 セイバーは、一言でいうなら素晴らしく美しい男だった。髪は夏の麦畑のようなやさしい金色で、瞳はエメラルド。気品のある整った顔立ちにこれだけの素材が嵌っていれば、大抵の者は見惚れてしまう。容姿端麗なばかりか、彼は成績優秀でスポーツ万能だった。おまけに、その王子様めいた外見を裏切らず性格までよかった。才能に奢らず、誰にでも分け隔てなく接し、努力を怠らない。ここまで完璧超人ともいえる人間をランサーは他に知らなかった。
 しかし白馬の王子様にも一つだけ、欠点があった。欠点と言うほどのものでもないが、物足りないところはあった。恐ろしいほどモテるセイバーだったが、そのわりには学生生活で、浮ついた話が一つも流れてこなかったのである。いや、そういう話は何度もあった。ゼミで一緒の知的な才女とか、テニス部のマドンナとか、はたまた事務員のお姉様だとか。しかしどれもこれも中身の伴わない話ばかりで、すぐに流れては消えていく。噂が流れるたびに、ランサーは口々に真相を聞かれたが、すべてノーと答えざるを得なかった。そのころにはランサーも、セイバーの恋人が誰かを知っていたからだ。
 陶器のような白い肌を持つ愛しの女のイニシャルは「W・C」。本名Water Closet――すなわち便所である。
 完璧な王子様の意外な弱点はやがてルームメイトの知るところとなった。セイバーは、女性という生物が大層苦手だったのだ。
「それで? 今回はなんだったんだ」
「打ち合わせでの相手が……女の人で」
「なるほど」
「しかも胸を押し付けてきたり……ことあるごとにさりげなく体に触れ……」
「わかったもういい、それ以上傷口を抉るんじゃねえ」
 だんだん顔色が悪化してきたのを見てとって、すばやくランサーは遮った。またトイレに逆戻りされては困る。顔よし頭よし性格よし家柄よしのセイバーは、当然のことながら社内でも優秀で、いまや三十路前にして大手企業の出世頭である。当然ながらそのモテっぷりは加速するばかりだったが、しかしセイバーの病気は相当根深いのだった。単なる女嫌いとかではなく、もうそれは一種のトラウマ、PTSDと言ったものに近い。長い付き合いの中でランサーがそれとなく聞かされたところによると、原因は彼の姉らしかった。早くに両親を亡くしたセイバーは、唯一の身内である姉と長らく共に生活したのだが、一言で言えば、彼らは仲が良くなかった。もう少し付け加えるなら、姉の性格は控えめに言ってもかなり問題があるもので、弟に対する仕打ちはいじめの一言では収まらない。そして決定打は――実をいうとランサーはこれを聞いたとき絶句したのだが――このような状況下にあっても、しかしセイバーは女の体を知らぬ身というわけではないのだった。それらが意味するところを考えると彼が受けた仕打ちは筆舌に尽くしがたい。

 普通ならとっくに折れてるところだ。しかしながらセイバーの尋常でないところは、そこから見事に這い上がった点である。
 天敵である女性を拒絶し、背を向けるのは簡単だ。しかしセイバーはそれをしなかった。それどころか、彼は女性に対してことさら優しくふるまったのだ。敬意を払い、礼節を尽くし、慈愛をもって接する。攻撃は最大の防御という言葉の通り、セイバーはそれを実行した。女という生き物がすべからく苦手であるという弱点を、彼は許せなかった。全員ダメなら、いっそのこと全員平等に大事にすればよい。そうすることで一定の距離を保ち続ける。なるほど古来の騎士道を地で行く戦法だったが、ランサーに言わせれば馬鹿の一言に尽きる。ただでさえ惹きつける見目の男がそんな振る舞いをすれば、誘蛾灯になるのは目に見えている。実際その通りで、こうしてセイバーは時折便器と抱擁する羽目になるのだ。
 ミネラルウォーターを注いでやると、セイバーが力なく微笑んだ。
「助かるよ……女性が全員、君みたいなのだったら楽だろうに」
「おいゾッとするようなこと言うな。だいたい女体の時点でゲロ確定だろうが」
「まあ……そうなんだけど」
 全く、この世はとかくセイバーにとっては住みにくいようにできているのだ。少しの沈黙の後、セイバーがぼそぼそと言った。
「――そういう君は? いい人はいないのか」
「残念ながら無沙汰だな。だいたいもうこの年だぜ? いたらそっちと暮らしてる」
 ランサーは最後に付き合った女のことを思い出す。大学を卒業して間もないころに付き合い始めた、色白の、ほっそりとした綺麗な女だった。長く伸ばした黒髪が大層艶やかで、最初に目を引いたのもその髪だった。ランサーの女性の好みは、気が強くてプライドの高い美人だったが、彼女は違った。むしろ正反対の部類だ。気性は穏やかでおとなしく、そして優しい女だった。さっぱりとした付き合いを好むランサーは、セイバーに言わせれば「遊び人」だったが、彼女とは長く続いた。というよりも、本気で籍を入れることを考えるほどに真剣だったのだ。彼女もそうだったのだと思う。けれど、結局それは叶わなかった。
 ある日、話があると呼び出された先で、ランサーは生まれて初めて女から振られる破局を経験した。目を丸くして理由を問うランサーに、彼女は薄く笑って言った。わたしがそれを今、ここで口に出して言ってもいいの。ランサーは答えられなかった。とっさに脳裏を過ったのは、二日前に便器と抱き合うセイバーの世話をしたことだった。黙り込むランサーに女は哀をたたえた眼差しを向けて静かに告げた。それじゃあ、さようなら。
 それが今から二年前の話だ。以来、ランサーはいわゆる「お付き合い」とは縁が切れている。一夜限りの出会いはあっても、一夜限りとお互いに割り切った関係だ。学生時代に戻ったように見えて、けれどそうじゃないことはランサー自身が一番よく知っている。口うるさくて、料理が大味で、大食いで、姉の幻影に苦しみながらも騎士道精神を発揮し続ける馬鹿な男と一緒に暮らしながら、ランサーは二年前のあの日、女が口にしなかった言葉から目を背け続けているのだ。