初めての贈り物
「はい、麗華様。これで完成です。ふふ、とってもお綺麗です」
鏡台越しに、ハナさんがにっこりと笑いながら私を見る。たった今、彼女が外出用にと髪を結ってくれたのだ。巷で若い女性に流行りの結い方なのだそうで、私よりずっと年上であるハナさんの方がそういった情報に精通していることに関心する。
「凄い…素敵。ハナさん、ありがとうございます」
首を左右に捻り、鏡で完成した姿を確認しながらハナさんに礼を述べる。すると彼女は小首を傾げて少しだけ残念そうな顔をした。
「本当は素敵な髪飾りでも付けて差し上げたいですけど。麗華様、ご実家から持ってきた髪飾りは本当に祝言の時に付けていたものだけなのですか?」
「そ、そうなんです。あまりこちらのお屋敷に荷物を増やしたくなかったので。あの、こんなに素敵に髪を結っていただけただけで十分です。逆に髪飾りを付けてしまうのが勿体ないくらいですから」
慌ててハナさんを振り返りながら咄嗟に嘘を言う。替玉となっている私に持たされた小物や着物は全て麗華様のものである。不必要に他人の物を使用したくないというのが本音だった。きっと高価な物だろうし、壊したり無くしたりしたら大変だ。
「麗華様がそう仰るなら良いのですけど」
「はい、もう十分素敵に仕上げていただきました。杏寿郎様が待ちくたびれているかもしれないので、そろそろ行きますね」
不承不承頷いたハナさんに苦笑いを浮かべながら、鏡台の椅子から立ち上がる。すると、ハナさんが「待ってください!」と少し声を張り、私の肩を押して再び椅子へと座らせた。
「あの、ハナさん?」
「もう、杏寿郎さんにも困ったものです」
「え?」
「お出かけになる前に気がついて良かったです。こんな所にまで…これでは今日のように髪を結い上げた時に見えてしまいますね」
ハナさんは呆れたように言って、鏡台に置いてあった白粉を手に取り、襟首に少し濃い目に塗ってくれた。首を少しだけ動かして確認してみると、項にはいくつかの赤い印が散らされていた。それが何なのかは直ぐに分かって、鏡に映った顔が林檎のように真っ赤に染まる。
「ご…ごめんなさい」
決まりが悪く、俯いて蚊の鳴くように呟けば、苦笑したハナさんが私の顔を持ちあげ、もう一度鏡の方を向かせてくれる。
「麗華様が謝る必要なんてないですよ。私もお二人の仲睦まじい様子を見られて幸せです。…それにしても、麗華様とご夫婦になられてからの杏寿郎さんは、本当に私達女中が知らない一面を沢山見せてくれますね。彼は昔から我儘の一つも言わない子だったから。でも、麗華様だけは譲れないのでしょうね。こんな印まで付けて」
眦を下げ悪戯っぽく言う彼女に、私の顔がさらに赤味を帯びていく。額からはじわりと汗が染み出してきて、これでは出かける前から白粉が剥げてしまいそうだ。
「麗華、ハナさん。そろそろ準備は出来たか?」
「はいはい杏寿郎さん。もう間もなくですから、お入りください」
襖の向こうから杏寿郎様の声がして、ハナさんが入室を許可すると、「失礼する」と律儀に断りを入れた後、襖がゆっくりと開かれた。
灰茶のかすれ縞の夏用着物に身を包んだ杏寿郎様が、ゆっくりこちらに近づいてくる。蒸し暑しせいか、肩まである綺麗な金糸は後頭部で一つに纏められており、私は思わず目を奪われる。露わになった首筋が妙な色っぽさを放っていた。
「見てください、杏寿郎さん。麗華様、とても素敵でしょう?」
「…ああ。他人の目に晒すのが惜しいくらいだな」
大きな瞳で私をじっと見つめた後、杏寿郎様は視線を逸らしてぽつりと言った。耳朶が少しだけ赤くなっており、こちらも恥ずかしさに言葉を失ってしまう。
「仲の良いことで。さ、お気を付けて行ってきてください」
ハナさんが私を立たせ、背中をぽんぽんと叩いてくれる。同時に、杏寿郎様の大きな手がすっと差し出された。
「では、行こうか。麗華」
「は、はいっ!ハナさん、行って参ります」
杏寿郎様に手を引かれ、私達は肩を寄せ合いながら屋敷を出た。玄関ではハナさんが、私達の姿が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれていた。
八月も半ばに入ると、夕方になれば些か涼しくなってくる。心地良さを感じる風が首筋を撫でると、白粉の匂いが鼻先を掠めた。杏寿郎様と肩を揃えて橙色に染まった雲の下を一刻ほど歩くと、蜩の鳴き声を人々の喧騒が塗り替えていく。今日はこの辺りでも大きな夏祭りが開かれることになっており、夜になれば花火も打ちあがるということで、周囲は見物客でごった返していた。
「麗華、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
人々とすれ違う度に、杏寿郎様が私の肩を自身にぐっと引き寄せぶつからないよう守ってくれた。まるでガラス細工でも扱っているような優しさに、先ほどから心臓が煩いくらいに音を立てている。
杏寿郎様と夫婦になって丸三ヵ月を迎えようとしていた。相変わらずお嬢様の居場所は特定出来ていると言われたきり、大河内家に大きな動きはなかった。大きく変わったことと言えば、私自身ではないか。
林檎のように真っ赤になってしまう頬、火照る身体、早鐘を打つ心臓。杏寿郎様に触れられるだけで、一緒の時間を過ごすだけで、否、彼のことを考えるだけで、私の身体はそんな不可解な反応をする。そして、杏寿郎様の近くに居れば居るほど、彼を騙しているという罪悪感が膨れ上がって、同時に、この偽の夫婦生活の終わりがまるで人生の終わりのように思えて怖くなってしまうのだ。
「麗華…」
「はい、杏寿郎様?」
少し人の波が捌けた所で、低い声が鼓膜を撫でた。慌てて杏寿郎様の方に首を捻れば、首筋に唇の熱を押し付けられた。項を吸われたのだと気づくのに数秒かかり、気づいた時にはその唇が耳元に寄せられていた。
「今日の君は、どうも婀娜っぽくて困ったものだな」
「っ…」
耳朶に吹きかけられるように言われ、床を共にしている時みたいに全身が粟立った。硬直してしまった私を見て口許を綻ばすと、杏寿郎様は繋いでいた手を絡め直して、私の手を引いた。
「花火が始まる前に、麗華を連れて行きたい場所があるのだ。一緒に来てくれるか?」
「も、勿論です」
二つ返事で快諾すると、杏寿郎様は、人の多さが日本では随一だと有名な仲見世通りに連れて来てくれた。花火が打ち上がる河川から少し歩いた所にあるこの場所も、夜を待つ人々で混雑している。
「この辺りは雑踏に紛れた掏摸や柄の悪い無頼漢も多い。しっかり掴まっていてくれ」
杏寿郎様はさり気なく私と周囲に気を配りながら言って、中心の仲見世通りから少し横道に入った所にある店に私を案内した。尻込みしてしまうような立派な外観の店に入るなり、恵比須顔の女性店主が私達に駆け寄ってくる。
「まぁまぁ、煉獄家のお坊ちゃま。ご無沙汰しております。身を固められたとお噂は聞いておりましたが、こちらの可愛らしいお嬢様が?」
「ご無沙汰しております。はい。こちらが妻の麗華です。麗華、ここは煉獄家が昔から贔屓にしている店なのだ」
「初めまして。妻の麗華と申します。主人がいつもお世話になっております」
襟を正して女性店主に頭を下げる。最近は杏寿郎様やハナさん以外と会話をすることなど無かったものだから、身が引き締まるようなお辞儀をするのは久方ぶりだった。しかし店主は感心したように嘆息し、「今日はいかがされました?」と慇懃な態度で問うてくる。
「はい。今日は妻に合う簪を選びに来ました」
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げ、隣に立つ杏寿郎様を見上げる。格式高そうな店内の内装ばかりに気を取られて気づかなかったが、確かにこの店には、私のような庶民ではとても手が出そうにない高級そうな反物や、それに合わせる小物や髪飾りなどが並べられていた。
「煉獄家のお坊ちゃんも、そんなご年齢になられたのですね。初めてお会いした時は、まだお母上と手を繋いでいらしたのに」
店主は相好を崩して懐かしそうに言いながら、私達を店の奥へ案内する。決まりが悪そうに頭を掻いた杏寿郎様の手を引き、私は必死に首を左右に振る。
「杏寿郎様!そのような物、頂くわけにはいきません。どうぞそのお気持ちだけで」
「俺が贈りたいのだ。…今日の君に、とても似合うと思うのだが」
優しい声音なのに、どこか有無を言わせぬような物言いに、私は言葉に詰まってしまう。私は麗華様ではないのだから、本来ならば杏寿郎様に贈り物をして貰えるような立場でもないというのに。
「お二人様、こちらの簪などはいかがですか?」
私達の遣り取りを微笑ましそうに見ていた店主が、ケースから一つの簪を取り出した。杏寿郎様の毛髪のように金色にキラキラと輝くそれに、私は一瞬にして目を奪われてしまう。
「これは…」
「伝統的な平打ちの二又簪です。天辺は百合の花を象っているんですよ。簪全体に金箔が施されているので、軽やかなのに上品で高級感もあります。麗華様にぴったりではないでしょうか」
「百合の花……綺麗」
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。百合は、美しい女性の象徴のような花ですよ」
「そ、そんなことないです。私なんて…全然」
客商売なのだから、店主がお世辞を言っていることなど百も承知だ。それでも、これまで自分の容姿を褒められてきたことのない私は、必要以上に慌てふためいてしまう。
「そういえば…君と初めて会った時も、百合があしらわれた着物を着ていたな」
「え?」
簪を手に取った杏寿郎様が、独り言のようにぽつりと呟いた。声に釣られるように杏寿郎様を見れば、頭を優しく掴んで引き寄せられて、すっと簪が差し込まれた。
「君に相応しい花だな。美しさの中に力強さもある。そして…甘い」
「っ…あのっ…」
一瞬、杏寿郎様が夜の雰囲気を纏った気がした。しかし本当にそれは一瞬のことで、直ぐにいつもの太陽の様な笑顔を浮かべると、店主に向き直る。
「こちらの簪をいただけますか」
「勿論でございます。ありがとうございます。麗華様、とてもお似合いでいらっしゃいますよ」
店主は笑みを深め、私に手鏡を差し出してくれる。そこに映った自分の頭には、杏寿郎様が挿してくれた簪が、キラキラとした光を放っていた。
「受け取ってくれるな、麗華」
杏寿郎様が、大切そうに私の頭を撫でる。私は、彼のこんなに真っ直ぐな気持ちを受け取れるような人間ではない。それなのに、杏寿郎様からの贈り物が嬉しくて仕方なくて、目尻にはうっすらと涙が浮かんだ。たとえこの簪が、名前ではなく、麗華に贈られた物だとしても。