ひと夏の幻


 混雑する大通りを眺めながら私は途方に暮れていた。隣に杏寿郎様の姿はない。彼が私の手をしっかり握ってくれていたため、どんな人混みでも逸れるはずなどなかったのだ。迷子になってしまったのは自分のせいだ。
 夏の夜の蒸し暑さに加え、人々の熱気によって酷く汗をかいてしまった。首筋を伝う大粒の汗を拭えば手には白粉が付き、杏寿郎様が付けた印が見えてしまうのではないかと不安になったのだ。嫌なわけではない。ただ、恥ずかしかった。
 ハナさんが念のためにと持たせてくれた白粉を塗り直すため、杏寿郎様にお願いして少し離れてしまったのがまずかった。
「どうしよう…杏寿郎様…」
 杏寿郎様は上背もあるし、見目も華やかだから何処に居ても見つけられそうなものなのに、夥しい数の人がそれを邪魔する。迷子になった時は、あまり動かない方が良いと以前母が言っていたことを思い出し、私はきょろきょろと周囲に視線を走らせる。杏寿郎様のことだから、きっと心配して必死に探してくれていることだろう。申し訳なさに重い溜息を吐くと、背筋が凍るような言葉が鼓膜に流れ込んでくる。
「なぁ、お前知ってるか?大河内家の御令嬢の話」
「あ?大河内家っていやぁ、この辺りでも有名な華族だろ。最近嫁に行ったって話は聞いたが…」
「ああ、それが、実は妙な噂を聞いたんだよ」
「妙な噂?」
「大河内家のお嬢様は駆け落ち中だっていうんだ」
「はぁ?そんなことあるわけないだろ。だってよ、現に嫁に行ってるんじゃないのか」
「一部では、大河内家が体裁を守るために、娘の替玉を使ってるって噂もあってな」
「ははっ!それが本当だったら大事件だな」
 少し酔っている様子の男達は、豪快に笑いながら人込みに紛れて見えなくなった。
 手足から血の気が引いていく心地がした。きっと気味が悪いくらい蒼ざめた顔をしていることだろう。まさか、麗華様の替玉となっていることがばれている?いや、男達に確証はなさそうだった。しかし、巷でもそんな噂が流れているということは、杏寿郎様の耳に入る可能性も容易にあるということだ。
 身体が小刻みに震えだす。もし、杏寿郎様が真実を知ってしまったら。考えただけで怖くなる。あんなに優しい杏寿郎様を、きっと凄く傷つける。
 心が酷く波立ち、胸が焼けるように熱くなる。この場でじっとしていることも難しいほど不安と焦燥が掻き立てられて、私は強く地面を蹴る。するとその直後、体躯の大きな男性とぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい」
 咄嗟に謝罪の言葉を口にして男の顔を見上げると、いかにも無頼漢といった出で立ちの男がぎろりと私を睨んでいた。襟が大きく開かれた着流しから覗く肌には、いくつもの傷跡が刻み込まれており、濃い髭に覆われた強面は息が詰まるほどの迫力があった。
——この辺りは雑踏に紛れた掏摸や柄の悪い無頼漢も多い
 先程の杏寿郎様の言葉を思い出し、ただでさえ落ち着かない気持ちに拍車がかかる。
「おい、嬢ちゃん。どこ見て歩いてるんだよ?その目は飾りか?」
「申し訳ございませんでした…。連れと逸れてしまって、少し慌てていたものですから」
 もう一度深々とお辞儀をし、その場を足早に去ろうとするも、大きな身体が行く手を阻んだ。強面が唐突に下卑た笑みを浮かべ、舐め回すように私を見る。
「そうだったのか。そりゃあ可哀想だ。こっちも酷い言い方して悪かったよ。怖がらせちまったお詫びだ。俺も一緒に探してやる」
「け、結構です。逸れてしまった時に落ち合う場所をあらかじめ決めておりますので」
 咄嗟に口から出まかせを言う。しかし男は引き下がる様子はなく、私の手首を強い力で掴んだ。近くを大勢の人が行き来しているにも関わらず、こうした街中でのいざこざは日常茶飯事なのか、それとも私達が痴話げんかでもしているように見えているのか、こちらに気を留める者はいない。
「じゃあその場所まで連れてってやるから。こんな所で女が一人で歩くのは危ねぇぜ。掏摸や悪い輩も多いからな」
 どの口が言うのだろう、と眉根を寄せて男を見る。しかしそんな態度も男を調子に乗せるだけだったようで、掴まれていた腕に力が込められる。振り払おうとしても、男の力に敵うはずがなかった。
 同じ男性でも、杏寿郎様がこんな風に強引に私に触れたことなど一度もなかった。優しく出来ないかもしれない、なんて言っても、彼はいつも壊れ物を扱うように私を大切にしてくれたし、傷つけることなどなかった。どれだけ杏寿郎様が女の自分を気遣ってくれていたのかが分かって、目頭が熱くなる。
「お願いです、離してください。私、夫がいるんです。いやっ、杏寿郎様っ!」
 声を張り上げ縋るような思いで杏寿郎様の名を呼んだとほぼ同時くらいに、身体を強い力で後ろに引かれた。背中が知った温もりを感じたのは一瞬で、直ぐに私の視界を灰茶のかすれ縞が覆った。束ねられた金の髪の毛先が、首元で微かに揺れている。
「麗華、大丈夫か?」
 杏寿郎様は、私を振り返らずに言った。地を這うような低い声に、こちらまで身を硬くしてしまいそうだ。
「あぁ?誰だてめぇは?今こっちはいい所なんだよ、邪魔するな——」
「俺の妻に、何か用か?」
「は?」
「聞こえなかったのか?俺の妻に何か用かと聞いている?」
 声音は落ち着いているのに、相手を一瞬にして黙らせるような迫力があった。案の定、男は怯んだ様子で数歩後ずさった。
「お、おいおい、随分な言い方だな。俺は連れと逸れたっていうお嬢ちゃんに親切で声かけてやったんだぜ」
「女性を怖がらせるような言動は感心しないな」
「っ…ち」
 けんもほろろに言った杏寿郎様に敵わないことを悟ったのか、男は苦虫を噛み潰したような顔をし、私達の元から脱兎の如く立ち去った。
「麗華、怪我はなかったか?」
 無頼漢が人混みに紛れて見えなくなると、杏寿郎様はすぐに私を振り返って、男に乱暴に掴まれていた手をそっと取った。肌に喰い込むくらい強い力で握られたせいか、鬱血痕ができてしまった手首を見るや否や、杏寿郎様はゆっくりとそこに唇を寄せ、慰撫するように舌を這わせた。
「き、杏寿郎様っ…!」
「すまない。怖い思いをさせたな」
 いくら道行く人々が私達に興味がないからといっても、こんな人前で堂々と触れられてしまうと、気恥しくて堪らなくなる。しかし、頬を熱くして狼狽する私とは対照的に、杏寿郎様は私の腰を自身に引き寄せさらに身体を密着させると、眉尻を下げて切なそうに呟く。
「…あまり心配させないでくれ。君と逸れてしまった時は、肝が冷えた」
「ごめんなさい。どうしても…その、白粉を塗り直したくて。凄く汗をかいてしまったので」
 伏し目がちに言えば、杏寿郎様はまるで私の本心を見透かしているかのように、首筋を節くれだった指でつぅっとなぞって耳朶に唇を寄せた。
「これを、隠したかったのか?」
 夜の雰囲気を纏った声が鼓膜を撫でたかと思えば、首筋に刻まれるような熱を感じる。汗で白粉が剥げて露わになった鬱血痕を、彼が再び上書きしたのだ。
「っん…杏寿郎様っ」
「嫌か、麗華?」
「っ…嫌じゃないですけど、でも、恥ずかしかったから」
 花火大会の雰囲気に呑まれて開放的になっている人々の中には、周囲の目を憚らずに乳繰り合っている男女もいる。つまり、私達だけが好奇な目で見られることはなく、そのことに疾うに気がついている杏寿郎様は、これ見よがしに私の首筋を吸った。
 厭らしい感情の濁流が押し寄せてきて、雑踏に似つかわしくない甘い声に反応するように、杏寿郎様の熱い息を感じる。
「花火どころでは、なくなってしまうな」
 腰が砕けてしまいそうなほどの甘美な声で囁かれた間合いで、乾いた音が河川の方向から聞こえた。おそらくそれは花火大会開始を告げる音で、数秒後にはすっかり藍色に染まった空に途方もなく大きな傘が開いた。わっという歓声が聞こえたかと思えば、人々は頭上を見上げて夜空に咲く花々に夢中になっていた。
 追随するように夜空に視線を向けようとするも、視界は杏寿郎様の端正な顔に覆われて、微かに開いた口が塞がれる。
「杏寿郎様っ…人が、見てますからっ」
 人目も憚らず杏寿郎様が舌を遠慮なく差し込んでくるので、息継ぎの際に縋るように言えば、彼は目を細めて私の頬に手を滑らせた。
「…皆、花火に夢中だ。誰も見ていない」
 杏寿郎様の甘い接吻を拒むことが出来ず、再び重なった唇を受け入れる。私はもう本能的に杏寿郎様を求めているのかもしれない。だからこそ、この熱を拒否できない。だからこそ、先ほど偶然耳にした男達の会話を脳内から無理やり排除する。今は、何も考えたくなかった。
——大河内家が体裁を守るために、娘の替玉を使ってるって噂もあってな
 儚く消えてしまう花火の残滓は、まるで蜃気楼のようだ。先ほどの言葉も幻であって欲しい。そう願わずにはいられなかった。

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