四面楚歌
ここ数日は、怒涛のような不安に怯えて過ごした。自分が麗華様でないことが、宇髄様には気づかれてしまっていたのだ。今この瞬間にも、誰かが私を咎めにくるのではないかと、縄をかけにくるのではないかと、杏寿郎様と引き離されるのではないかとそればかり考えて、生きた心地がしなかった。食も細くなり、家事すら出来ずに臥せってしまうこともあった。
そんな私を、ハナさんはとても心配した様子で気遣ってくれた。こんなに優しい人を騙しているのだという罪悪感も、宇髄さんと偶然会ったあの日以来、大きくなっていった。
杏寿郎様が長い任務に出ており、顔を合わせずにすんでいたことがせめてもの救いだった。しかし、彼が帰って来た時、私は冷静でいられるのだろうか。もとより、彼は私に今まで通り接して下さるのだろうか。
「麗華様。麗華様宛に文が届いておりましたよ。杏寿郎さんかと思ったのですが、どうやら違うみたいで。差出人が書かれていないのです」
霞がかかったようにぼーっとした頭で夕食の準備をしていると、首をひねりながらハナさんが一通の文を差し出した。心臓が不吉な脈動を打つ。宇髄様に正体を見破られたことが大河内家の耳に入ってしまったのだろうか。息を詰め微かに震える手で、私は文を受け取る。
「…麗華様?大丈夫ですか。真っ青なお顔をされておりますよ」
「だ、大丈夫です。ごめんなさい」
慌てて無理やり作った笑顔を頬に乗せ、「煉獄麗華様」と宛名が書かれた文を改めて見てはっとする。この筆跡には見覚えがあった。間違いない、母の字だ。身元がばれてしまう可能性を危惧して文のやりとりは禁止されていたはずなのに、一体どうして。
「…麗華様、最近、月のものは来ていますか?」
「え…」
文を凝視していた私に、ハナさんの憂慮に堪えないといった様子の声が滲み、私は顔を上げる。
「今日だけではありません。ここ数日とても体調が悪そうです。…もし私の勘違いでしたら大変申し訳ありませんが…ひょっとすると麗華様…ご懐妊されたのではないですか」
ハナさんの口から紡がれた言葉に、背筋が凍る。妊娠?そんなことはあり得ない。だって私は、大河内家からの指示で、避妊薬を飲んでいるのだから。しかし彼女の言うように、確かに月のものは思い出せる範囲で、最近きた記憶がなかった。
「…麗華様、念のためお医者様をお呼びしましょう。ここはいいので、床の準備をしますから、お部屋でお休みになってください」
「でも!」
「麗華様のお身体に何かあれば、私が杏寿郎さんに顔向け出来ません。どうか、お願いいたします」
「…はい。…分かりました」
心配そうに私の背中をさすってくれるハナさんを見れば、言う通りにする他なかった。手中の文を握り締め、私はハナさんに連れられ自室へ戻った。
医者の診察の結果、私の腹には新しい命が宿っていた。誰の子か。そんなことは確認するまでもない。杏寿郎様の子だ。
ハナさんは、まるで自分の孫ができたように喜んでくれた。それなのに私は体調が悪いのを免罪符にして、少しも笑顔を作ることができなかった。本当に妊娠してしまったのだ。どうして?宿るはずのなかった命に動揺を隠せない。
今日にでも任務から帰還すると連絡があった杏寿郎様に早速報告しましょうと意気込むハナさんに、万が一のことがあっては困るからもう少し時間が欲しいと懇願した。私は名前であり、麗華ではないのだ。私が麗華様と入れ替わった時、彼女が妊娠していなければ困ったことになる。
でも、時間を稼いだところで真実が明るみに出るのは時間の問題だ。いや、もう私の正体を見破っている人物もいる。
絶望というものは、こういう状況を言うのではないか。誰にも助けを求めることが出来ない。誰も私を助けてくれない。どうしよう。私はこれからどうしたらいいの?
冷たい布団の中で、縋るような気持ちで母の手紙を開封する。そこに綴られていた文字に、堤防が決壊したように瞼から涙が零れ、嗚咽が漏れた。
『名前。
元気にしていますか。このような文を送ることを禁止されていることは理解しています。でも、名前のことが心配で、居ても立ってもいられず筆を執りました。
名前が大河内家の御息女の替玉になると家を出てから、もう数か月が経ちました。食事はしっかり食べていますか?生活は苦しくありませんか?貴方に意地悪をするような人はいませんか?
母は、貴女を行かせたことをとても後悔しています。突然大河内家の世話人が訪ねてきて、行方不明になってしまったご息女の代わりをするなんて、最初は信じられないお話でした。貴方は、私の病気の治療費や幼い兄弟達のことを心配して、このお話を受けてくれましたね。でも、やはり考えれば考えるほど名前を行かせたことは間違いだったと思うのです。私達家族は、優しい貴方に甘えすぎていました。本当にごめんなさい。
名前。もし今貴方が困っているなら、直ぐに戻って来なさい。お母さんの病気のことは気にしないで。お母さんは名前が一人心細くいる方が心配です。
あの日、母親として貴方を止めなかった私をどうか許してね。名前が帰ってくる日を、心待ちにしています
母より』
何もかも放りだして、家に帰りたかった。母の温かな胸の中で思いきり泣きなかった。でも、そんな無責任なことは出来るはずがない。そんなことをすれば、今までの努力も無駄になり母の治療費だって手に入らなくなる。何より、杏寿郎様を酷く傷つけることになる。
あの太陽のような、人々の心を温かくしてくれる杏寿郎様の笑顔を奪うことだけはしたくなかった。
和紙に綴られた文字が、涙で滲んでいく。結局私はそのまま泣き疲れ、深い眠りに落ちてしまっていた。
眠りから覚めると、行燈の明かりだけが灯された薄暗い部屋の天井が視界に入った。すっかり眠ってしまった。枕元の時計を確認すると針は午後八時を示しており、私はのそのそと布団から起き上がり、文机の前に腰を降ろす。
鍵を開け机の抽斗を引くと、毎日欠かさずつけている日記を取り出す。今日起きた出来事も、一つの事柄も漏らさず書き残しておかなければならない。どんなに苦しくても、文字にしなければならない。それは私が滞りなく、戻ってきた麗華様と入れ替わるため。
重い息を吐いて筆を執った刹那、途端に喉の奥がぎゅっとつまり嘔気が込み上げてくる。口を押えた私は、慌てて立ち上がり部屋を出て洗面所に直行し、流し台に嘔吐した。食事は殆ど摂れていなかったため、胃から逆流した僅かな食残と酸っぱい液が出てきただけだった。
このような悪阻の症状が暫く続くと医者は言っていた。いくら杏寿郎様が任務で家に不在がちと言っても、妊娠を隠し通すことなど出来るのだろうか。いや、そんな悠長なことを言っている時間など残されてはいない。宇髄様にも気づかれてしまっているのだ。
大河内家の世話人は、もう麗華様が戻られるのも時間の問題だと言っていた。彼女が戻ったら一刻も早く煉獄家を去らなければ。元の生活に、私は苗字名前に戻るのだ。杏寿郎様と生涯を共に出来ないことなど、最初から分かっていたのだから。私は気づいてしまった自分の気持ちに蓋をして、二度と顔を出さないよう鉄の鎖で縛りつけてしまわねばならない。
流水で口を濯ぎ、重たい身体を引き摺るように自室に戻る。そして、部屋に足を踏み入れた瞬間、心臓が止まりそうになった。身体を巡る血がどくんと不吉な音を立て、全身の毛穴から汗が噴き出すような感覚があった。
部屋には、隊服を纏った杏寿郎様の姿があったから。しかも、彼はただ私の部屋にいた訳ではなかった。彼の手には、私が麗華様ではなく、名前であることを告白する日記が握られていた。
「…麗華。これはどういうことだ」
「あっ…あの」
「君は…一体何者なのだ?」
声だけで人を殺してしまえそうなほど低い声が、薄暗い部屋の空気を重く震わせた。
恐れていたことが、起きてしまった。