欺瞞の序開き
木々や草が青い炎のように生い茂り、大気が春の甘い匂いに満ちたある日、立派な車に乗り、上質な衣類を身に着け我が家を訪ねて来たのは、大河内家の世話人を名乗る男性だった。
大河内家、と言えば、一般家庭に生まれた私ですらその名を知っている。一体、華族のお偉い様が私の家に何の用だろうと不思議に思いながら家にその男性を招き入れた所、彼の口から紡がれた言葉に私は耳を疑った。
「単刀直入に申し上げます。苗字名前様、貴方に、大河内家のご息女であられる、大河内麗華様の替玉になっていただきたい」
私と、隣で話を聞いていた母は言葉を失う。一般家庭で育った私が、大河内家の御令嬢の替玉?あまりにも唐突な話で事情が全く飲み込めない。
「突然こんなことを申し上げ、驚かせてしまい誠に申し訳ございません」
頭の中が霧で覆われたように混乱し茫然とする私と母に、男性は深々と丁寧にお辞儀をし、言葉を続けた。
「実は、ひと月後に結納を控えたお嬢様の行方が分からなくなっています」
「えっ…それって」
「あまり驚かれませぬよう。大河内家の当主であられるお父上から縁談の話を持ち掛けられて、お嬢様と好い関係にあった男と二人で駆け落ちしたのです」
「駆け落ち…」
華族とは、その名の通り華やかなものだと思っていた。勿論、そういう部分があることは確かだけれど、良家のお嬢様はお嬢様で、大変なのかもしれない。
「状況は理解しましたが、どうしてうちの娘が?」
それまで黙っていた母が、漸く口を開く。
「はい。実は、名前様は、お嬢様と良く似ていらっしゃる」
「え?…私が、ですか?」
目を見開いて男性に問えば、彼はゆっくりと首肯して、洋服の胸ポケットから一枚の写真を取り出した。それを受けとり、母と顔をくっつけるように写真を覗き込めば、なるほど、言われてみれば確かに似ている。けれども、私はこんなに可愛くはない、と思う。
「確かに顔は似ているのかもしれませんが、うちは見ての通り一般の家庭でございます。娘の名前は最低限の礼儀作法だってままなりません。とてもこの子ではそんな大役が務まるとは思えません。それに、娘には同じような身の程の男性と一緒になって欲しいと思っておりまして」
母が申し訳なさそうに眉根を寄せてから、ね、とこちらに同意を求めてくるので、私も首を縦に振り、男性に写真を返して襟を正す。
「申し訳ございません。母の言うように、私ではとてもそんな大役は務まりません」
「勿論、一生、というわけではございません」
「え?」
「お嬢様が見つかるまでの間でいいのです。今、大河内家の関係者総出で探しております」
「でも…」
「謝礼もお支払いいたします。無論、金額はそちらの言い値で構いません。失礼ですが、お宅のことを少し調べさせていただきました。一家の主が数年前にお亡くなりになり、かなり経済的に困窮していらっしゃる。お母様も…最近床に臥せがちであるにも関わらず、満足に医者にも診てもらえないとか」
男性の目が鋭くなる。なんとしてもこの提案を私達に呑ませようとしているのが分かった。痛い所を突かれた私と母は言葉に詰まり、顔を見合わせる。家のことを勝手に調べあげられとても不快な気持ちになったが、事実であるから何も言い返すことが出来ない。
目の前の男性の言う通り、数年前に病気がちだった父が他界した。もともと裕福な家庭ではなかったが、父が亡くなったことで私達の生活は一層貧しくなった。そこにきて、今度は母が病に臥せた。全く動けないわけではないが、筋力が落ち細くなった姿をみれば、日に日に衰弱しているのは火を見るより明らかだった。
正直、金が入れば母を良い医者に診せることが出きる。幼い兄弟にも貧しい思いをさせなくてすむし、まだ小さい彼らには母の存在が必要だ。
しかし、嫁ぐ女性の替玉になるということは、好きでもなければ顔すら見たこともないその男性と、夫婦生活を共にしなければならないということだ。そんなことが本当に出来るのだろうか。
「……あの、私はどうしたらいいですか?」
逡巡の末、私はゆっくり口を開いた。
「名前、貴方、なんてこと!」
「いいの、お母さん。…お母さんのことが心配だから。私一人が働きに出ても大したお金にはならない。でも、限られた期間、大河内家のお嬢様のふりをするだけで、お母さんを診てくれるお医者様をお呼びすることが出来る。私はまだお母さんに、元気でいてほしい」
「名前」
「…では、名前様。私達のお願いを引き受けて下さるのですね」
男性は言質を取るように、もう一度私に問いかける。
「はい。宜しくお願いします」
私は改めて居住まいを正し、頭を下げた。