夫婦の在り方
人の気配がし、まだ微睡の中だった私ははっと目を覚ました。
「すまない。…起こしてしまったな」
どろりと歪んだ視界が徐々にはっきりとしてきて、申し訳なさそうに私を見つめる杏寿郎様の姿を捉えた時、慌てて布団から身を起こす。杏寿郎様の帰りを待ちながら読書をしていたはずなのに、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「申し訳ございません。お帰りを待っていたのですが、眠ってしまって」
「君が謝る必要はない。俺の方こそ、もう少し早く戻って来られると思ったのだが、申し訳なかった。台所の食事も見た。…随分色々と準備をして待っていてくれたのだろう」
心苦しそうに言う杏寿郎様に、私は小さく首を左右に振る。ふと枕元の時計に目を遣れば、既に日を跨いでから数時間が経過している。
「こんなに遅い時間まで、本当にお疲れ様です。今、食事に火を入れ直し直します」
「いや、麗華はこのまま眠ってくれ。そのくらいのこと自分で出来なくてどうするのだ」
「でも」
「本当に気にしないでくれ」
「…えっ…杏寿郎様…腕が」
目を細め、優しく私の髪を撫でる杏寿郎様の腕を見て目を見開く。隊服に仄暗い部屋でも分かるほど血が滲んでいただから。よくよく見れば、刃物で切り裂かれたように破れた隊服から、生々しい傷が顔を出している。
「大変っ…すぐに手当しないと!私、お湯と救急箱を準備してきます」
「麗華、そんなに慌てなくとも、もう止血は済んでいて——」
「だめです!小さな傷でも甘くみると痛い目を見ます。杏寿郎様はここで待っていて下さい」
すぐさま布団の中から抜け出すと、私は急いで手当の準備を整え、閨へと舞い戻る。すると杏寿郎様は、羽織と上着を脱いで私を待ってくれていた。
「結局こんな時間に麗華に迷惑をかけることになってしまったな」
「迷惑だなんて…。当然のことです」
湯をたっぷり張った洗面器と救急箱を畳に置いてから、私は杏寿郎様の前に腰を降ろす。そして、血が滲んだシャツの袖を捲り上げていく。しかし伸縮性の無いシャツは、鍛え上げられた杏寿郎様の腕の中腹辺りで止まってしまい、それ以上たくりあげることは難しかった。
「杏寿郎様。すみません、シャツも脱いでいただくことは出来ますか」
「それは構わないが…」
杏寿郎様はどこか決まりが悪そうに言って、ボタンを外していく。ばさりとシャツを脱ぐと、鍛え上げられた肉体が披露され、私は咄嗟に目を逸らしてしまう。数秒遅れて、頬が燃えるように熱くなる。杏寿郎様の気まずそうな表情の意に合点がいって、何と無しに「脱いでほしい」とお願いした自分の発言を後悔する。男性の裸体を初めて見る私には、些か刺激が強すぎる光景だった。
しかし、痛々しい傷の方が心配だ。私はごくりと唾を呑んで視線を戻し、杏寿郎様の太い腕をそっと持ち上げた。
「麗華…」
「杏寿郎様。少し染みるかもしれません。痛かったら仰ってください」
傷の手当など初めてのことではないのに、笑ってしまうくらい手が震えた。ぎこちない手つきで処置を施していく私を、杏寿郎様は優しい眼差しでずっと見守ってくれていた。
「はい。これでお終いです」
包帯をきゅっと結んで、うっすらと額に滲んだ汗を拭いながら言う。
「ああ、ありがとう。助かった」
「傷自体はそこまで大きなものでなくて良かったです。…でも、やはりこうした怪我は任務にはつきものなのですね」
杏寿郎様の大きな身体にいくつも刻まれた傷跡を見れば、彼が戦う鬼という存在がどれほどのものなのかということは容易に想像がついた。祝言の夜に彼が話していた「明日の命の保障がない」という現実を目の当たりにしたような気がして、背中が水をかけられたみたいにひやりとした。
「怪我ですめばいい方だろうな。昨日まで一緒に鬼の討伐にあたっていた仲間が死ぬのは…よくあることだ」
「っ…」
まるで記憶を辿るようにぽつりぽつりと言葉を紡いだ杏寿郎様は、手当が終わったばかりの腕をじっと見つめていた。普段の明朗闊達な杏寿郎様からは想像も出来ない孤独な寂しさを抱えているようなその表情に、私は昼間のハナさんの言葉を思い出す。
——多くのことを一人で背負ってこられたんです。
——決して弱みを見せてくれることも、甘えてくれることもなかった
気づいた時には膝立ちになり、私は杏寿郎様を頭からすっぽりと胸の中に包み込んでいた。私の手にはなんの力もないだろうけど、包み込んであげたかった。
「…麗華?」
少し動揺した様子の声が胸の中から聞こえるも、私は抱き締める腕の力を強めて杏寿郎様に語りかける。
「杏寿郎様…そんなに寂しそうな顔をしないで下さい。杏寿郎様には、私がおります。何でも一人で抱え込もうとしないでください。私では頼りないかもしれないですが…もっと他人を頼ることも必要ですよ」
替玉の分際で偉そうなことを言う自分を鼻で笑いたくなる。でも、私は今、杏寿郎様の妻の麗華なのだ。例え偽物の配偶者であったとしても、彼の孤独を少しでも受け止めて分かち合いたいという気持ちに嘘はなかった。きっとそれが、夫婦というものだろうから。
「麗華…」
低い声で私の名を呟いたかと思うと、杏寿郎様は胸から顔を上げ、大きな両手で私の頭を掴みあっという間に自身の顔に引き寄せた。そして、荒々しく唇が奪われる。先日交わした戯れるような口付けとは全く意味が違う、極上の甘さを帯びた接吻だ。薄く開いていた唇の隙間からにゅるりと熱いものが侵入してくる。それが杏寿郎様の肉厚な舌だと気づいた時には、口内を厭らしくかき混ぜられていた。
「んぅっ…ふ…ぁ」
初めて経験する行為に勝手が分からず、体が物凄く強張っているのが分かるのに、口からは柔らかくて甘い声が零れる。恥ずかしくて杏寿郎様の厚い胸を押すも、片方の手を後頭部に回されて、口付けを深められただけだった。
器用に息継ぎをする杏寿郎様とは対照的に、私はどう呼吸をしていいのかも分からず、酸素が少なくなった頭が徐々にぼーっとしてくる。
「きょ…じゅろ、さま。くるしっ…」
「麗華、鼻で息をするのだ。暫く解放してやる余裕がない」
口付けの合間に途切れ途切れの言葉で懇願した私に一瞬だけ唇を離すも、杏寿郎様は私に一つ助言をしただけで、またすぐに舌をねじ込んでくる。舌の先端を絡め取られると、擦れ合った舌先がくちゅくちゅとした水音を奏で始める。互いの唾液が混ざりあう淫猥な音色。
「ん…ぅ…はぁ…ぁ」
ぴたりと重なった唇の隙間から鼻にかかった吐息が漏れて止まらない。自分がこんなに色っぽい声を出せることに心底驚く。
先程の宣言通り、杏寿郎様は執拗に私の舌を艶めかしく擽っていく。口元に感じる熱い吐息と情欲を灯す瞳に見つめられ、下半身から力が抜けていく。節くれだった太い指に、厭らしく耳朶を撫でられたのが止めとなって、私はとうとう杏寿郎様の胸の中に雪崩れ込んだ。
いとも簡単に私を受け止めた杏寿郎様はそこで漸く唇を離すと、そのまま私の身体を褥に押し倒し、自分もその上に覆いかぶさる。祝言の夜とは違う、どこか獰猛さを孕んだ瞳が私を射抜いた。
「はぁっ…はぁ…きょうじゅろ…様」
胸を激しく上下させて酸素を取りこむ合間に杏寿郎様の名を口にすれば、しゅるりと浴衣の帯が解かれ、緩んだ襟元に甘い熱が落とされる。
「っぅ…ん」
首筋をじゅうと吸いながら器用に私の浴衣をはだけさせると、前胸部から臍に向かって長い指をつうっと滑らす。ただ肌を撫でられただけなのに、私の身体は熱病にかかったみたいに火照って仕方がない。
「麗華…今から君を抱く」
「杏寿郎様、あの」
「悪いが今日は…止めてやれない」
甘い吐息のような声が鼓膜を震わせて、子宮のあたりが切なく痛んだ。