「名前ちゃん、今日もありがとう。うちは子供がいないから、おばあちゃん、名前ちゃんが来ると本当に孫みたいに喜んで、元気になるの。また次も宜しくね。先生にも宜しくお伝えして」
「私でお役にたてているなら嬉しいです。次は先生と参りますね」
人のよさそうな笑みを浮かべる患者の家族の見送りを受けながら、私は次の訪問先へと足を向ける。桜の花はすっかり散り萌え立つような新緑に包まれる木々を横目に二十分ほど歩くと、煉獄家の門戸が見えくる。緊張で身体中からじんわりと汗が滲んでくるのが分かった。
こんなに緊張しているのには理由があった。先生がいない訪問だからである。医者でない私が患者を往診することは出来ない。診察をして診断をつけて処方を出すことも出来ない。しかし、先生に代わって、患者の様子を観察したり、身体を清めたり、病床周りを整えることは出来た。
そのため、先生が忙しい時は一つ前に訪問した患者のように、私が一人で家を訪ねて看させてもらうこともあった。
「はぁ…」
煉獄家の立派な門戸の前に辿り着くと、小さく重たい息を吐いた。煉獄家の当主である槇寿郎さんは、亡くされた奥様の主治医が先生だったこともあり、信頼し治療を受けてくれていたが、私単独の訪問では、はたして大丈夫なのだろうか。槇寿郎さんは病気のせいもあるだろうが、難しい人だった。
患者は先程の家族のように優しい人達ばかりではない。「医者じゃないならさっさと帰れ」「女に何が分かる」。そんな罵声を浴びせられることも多くあり、槇寿郎さんは私を受けいれてくれるのか、不安がないと言えば嘘になった。
「名前。もう君が門の前に立ち止まって、五分以上は経過したぞ」
そんなことをうんうんと唸って考え逡巡しているうちに、少し時間が経ってしまったようだ。突然耳元で揺らいだ声に、吃驚して身体がびくんと大袈裟に跳ねてしまう。
背後を振り返れば杏寿郎さんが苦笑を口元に浮かべて立っていた。新緑の匂が混じる風に、今日も羽織が気持ち良さそうにはためいている。
「杏寿郎さん!」
「名前、一週間ぶりか。今日は、先生は一緒ではないのだな」
「はい。先週先生が出したお薬はまだあるでしょうし。今日は私の方でお身体や皮膚の状態を観察させてもらいます」
「うむ、宜しく頼む。君一人では大変だろうから、俺も手伝おう」
杏寿郎さんは微笑みながらゆっくり頷くと、煉獄家の大きな門を開けた。
まただ。また胸がきゅうっと痛む。杏寿郎さんの姿を見ると、太陽のような素敵な笑顔を見ると、心臓が軽く掴まれたような痛みが走る。これは、病気なのだろうか。一度先生に相談した方が良さそうだ。まだ心臓を患って死ぬような年齢でもないが、万が一ということもある。
それにしても、今も「任務」の帰りだったのだろうか。羽織の下で微かに見え隠れする腰に差した刀の理由を、私はまだ聞くことが出来ていなかった。
槇寿郎さんのお部屋に入れば、案の定不機嫌そうな背中が目に入る。口を開かなくとも、私では力不足だと大きな背中が語っているような気がした。再来した緊張感に、正座した足の上で握りしめた手がぐっしょりと汗ばむ。
「父上。今日は先生の代わりに助手の方が来てくださいました」
「皮膚の様子を見て、お胸の音を聞かせていただきます」
杏寿郎さんが助け舟を出してくれたので、私は正座のまま布団までにじり寄り、「失礼します」と口を開く。不機嫌さを醸し出しつつも槇寿郎さんの無言を肯定と捉えた私は、医療用具が詰まった鞄から聴診器を取り出して、二つに分かれた耳管を耳の穴に入れ、皮膚にあてる聴診器の先端を持つ。
しかし、槇寿郎さんの着物に触れようとした刹那、力強く腕を払われてしまう。
「っ…」
病人とは思えぬ力に防御する術もなかった私の身体は容易く畳に倒れ込む。受け身を取ろうと咄嗟に畳みに手をつけば、手首に捻ったような痛みが走る。
「父上!何をするのですか」
「うるさい!黙れ!こんな小娘に病気の何が分かるっ!」
槇寿郎さんは、父親の行動に声を張った杏寿郎さんを振り返って一瞥した後、顔を背けて
「出ていけ」と吐き捨てるように言い放った。
畳に放り出された私の腕を引いて助けてくれた杏寿郎さんは、心底すまなそうな表情を浮かべて私を見る。やはり、私では役不足だったようだ。分かっていたことだが、槇寿郎さんは先生だからこそ診察を許すのだ。
私はゆっくり頷いて、これ以上彼を刺激しないよう、杏寿郎さんと一緒に静かに部屋を後にする。先生が言っていた。病を患う者は誰しもが情緒不安定になる。槇寿郎さんの場合はお酒の影響でさらに感情が不安定になりやすいのだそうだ。
「すまなかったな」
「いえ、大丈夫です。それに、こういうことは馴れっこです。私はあくまでも先生の助手ですので、良く思わない人もおります。後ほど先生にご報告して、近日中にまたお伺い出来るように調整します」
槇寿郎さんの部屋を後にするなり、杏寿郎さんが腰を直角に折って頭を下げてくれるので、私はぶんぶんと首を左右に振る。すると、杏寿郎さんの大きな目が見開かれ、視線が私の手首に移される。彼の視線を辿るように自身のそれを見れば、先ほど槇寿郎さんに掴まれた部分が赤く腫れてしまっていた。
「…腫れてしまったな。本当に父が申し訳ないことをした。直ぐに冷やして手当をしたほうが良いな」
「え?あっ、あの」
そう言うが早いか、杏寿郎さんは私の手を優しく掴んで赤くなった箇所を観察するように見ると、労わるように私の手を引いた。
まただ。また胸がきゅうと苦しくなる。そして大きな掌に触れられている皮膚が驚くほど熱くて仕方がない。
客間に連れられた私は、来客用の座布団の上に促されるまま腰を下ろした。一度客間を出た杏寿郎さんが、救急箱と氷嚢を持って戻ってくると、私の眼前に腰を下ろし青々とした畳に膝をついて、再び腫れた手首を取った。
「あ、あの…」
「こうして暫く冷やそう。…痛むか?」
赤くなった手首に氷嚢を押し当てると、杏寿郎さんは窺うように私を見る。
「少しだけ…。…でも、これ、気持ちいいです」
「それなら良かった。…先刻、こういうことがよくあると言っていたが…父の様に、君に手を上げる患者も多いのだろうか?」
氷の冷たさが手首の腫れに心地よかった。小さく笑って言った私に、杏寿郎さんは一瞬だけ安堵したように頬を緩めると、すぐにその凛々しい眉根を寄せて問う。私は首肯した後、ゆっくりと言葉を続けた。
「患者様によっては手をあげる人もいらっしゃいます。でも、それは仕方のないことです。先ほども申し上げましたが、助手であり女である私が来ることを良く思わない人がいるのは当然です。それに、患者様は病と闘っているのです。それは多分…私が想像する以上に苦しいこと。本当は、手を上げたい訳じゃないと思うんです。気持ちのやり場がないだけ。だから私に出来ることは、苦しんでいる患者様の気持ちに寄り添って、粘り強く関わること。そうすればこちらの気持ちはきっと伝わるし、相手も心を開いてくれるって、そう思うんです……あ、す、すみません。なんか色々言ってしまって」
ついつい饒舌に語りすぎてしまった。目の前の、不意打ちに合ったような杏寿郎さんの表情を見て我に返った私は、慌てて謝罪の言葉を紡ぐ。恥ずかしさに唇を噛んで目を伏せると、頭頂部に滲む温かな感触。それが、杏寿郎さんに頭を撫でられているのだと気づいた時には、彼の大きな掌から体温がゆっくりと全身に流れ込んできて、身体中の血が沸き立つように熱くなる。
「…名前は立派だな。そして優しい。君の考え方…心から尊敬する」
「っ…あ、あのっ」
賞賛の声に釣られて視線を戻せば、ふわりと包み込むような優しい笑顔が向けられていた。
「名前、このあと少し時間はあるか?」
「え?」
「詫び…というのもなんだが、美味いものでも食べに行くのはどうかと思ったのだが」
「い、行きたいです!…あ、でも…ご迷惑なんじゃ」
頭で考えるよりも早く、私は二つ返事で杏寿郎さんの提案に飛びついた。しかし自分の声が思いのほか上擦っており、なんとなく気恥しくなって言葉尻を濁す。すると杏寿郎さんは小気味好く笑って、押し当てていた氷嚢を外し、手首に薬を塗ってぐるぐると包帯を巻いてくれた。
「俺が誘っているのに、迷惑なわけがないだろう。名前は、面白いな」
屈託ないお日様みたいな笑顔に、再び心臓が軽く掴まれたように痛くなる。やっぱりこれは何かの病気なのだろうか。
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