episode 15
病変



 杏寿郎さんは、お勧めだと言う街の甘味処に私を連れてきてくれた。自分の父親がしたことへの罪滅ぼしだったのだろうが、先生以外の男性と二人で出かける日が来ることなど考えたこともなかったため、最初は、杏寿郎さんの隣で終始緊張していたように思う。
 しかし、彼の逞しい食べっぷりを目の当たりにして、そんな緊張は遥か彼方に飛んでいってしまった。「美味い、美味い」と食べる杏寿郎さんは、初めて私が目にした彼の一面で、いつもの大人びた雰囲気とは違い、なんだか可愛らしく見えた。
 煉獄家を訪問するようになって一月ほどしか経過しておらず、当然知らないことの方が多いに決まっているのだが、杏寿郎さんのことをまた一つ知ることが出来たと思うと心が甘酸っぱく喜んでいる気がした。
 甘い物で腹が満たされ店を出た時には、陽が西の方に傾き始めていた。それでもまだ頭上に広がる空は目を眇めるほど明るくて、このまま診療所に戻ってしまうのも勿体ないような好天だった。今日は、与えられた仕事も終わっているから尚更だ。
「こんなに天気が良い日に、お出かけしないのは勿体ないですね」と、端の方が僅かに茜色に染まる空を仰ぎながら無意識に言葉を漏らした私に、杏寿郎さんはそれならばと、自分に付いてくるよう誘導した。まだもう少しだけ、彼と一緒に居ることが出来るのだろうか。そう考えると一気に心が弾んだ。
 そして今私目の前には、絵の具を溶かしたように青い海が果てしなく広がっていた。鏡のように凪いだ海面が、陽の光をあびてガラスの破片を撒き散らしたみたいにキラキラと光っている。
「凄い…綺麗」
 砂の上に立って、私は一人感嘆の言葉を漏らす。杏寿郎さんが連れて来てくれたのは、海の波打ち際と言ってもいいくらい、海に近い海岸だった。
「今の時間は丁度引き潮で、唯一海岸に降りて来られる時間帯なのだ」
「そうなんですか…海がこんなに近いなんて。…本当に、本当に綺麗です」
「それならば良かった」
 海から杏寿郎さんへと視線を移せば、彼は目を細めて私を見た。時折、小さい波が私達の足を洗うように撫でていく。履物が濡れてしまったが、今はそんなことは全く気にならない。それよりも、胸がぎゅうっと痛むことの方が心配だった。今までは、こんなことは無かったはずなのに。
「少しは気が紛れただろうか」
「え?」
「…先ほども言ったが、名前は立派だし、尊敬に値する。だが、君は少し真面目すぎだな。…俺の勘違いだったらすまないが、きっとどんなに辛いことがあっても、一人で抱え込んでしまいそうだ。いつもそんな風に肩に力を入れていたら、疲れてしまうぞ」
 杏寿郎さんの言葉に目を見開く。彼の目に、私はそんな風に映っていたのだろうか。しかし彼の言葉は間違ってはいなかった。同じようなことを先生からも注意されたことがある。
「すみません…。仰る通りそういう面はあると思います。でも、私は患者様に出来ることをしたいんです。先生のように診察をしたり、薬を出すことは出来ないですけど…それ以外で患者様やその家族に何かしてあげられたらって思うんです……その、私も父親を早くに亡くしているので」
「…そうだったのか、君は御尊父を…。それが、先生の助手をしていることと関係しているのだな」
「はい。…実は、私の父も結核で亡くなりました。杏寿郎さんのお母様と一緒ですね」
 私の告白に、杏寿郎さんが大きな目をさらに見開く。私は小さく頷いて言葉を続けた。
「それもあって、結核の研究をされていた先生に頼み込んで、診療所とその研究のお手伝いをさせてもらうことにしたんです。結核という不治の病は、近い未来必ず救える日が来ると、先生は常々仰っていますから」
「……結核は近い未来必ず救える病になる…か。それは頼もしいな。もしそれが現実になれば、多くの尊い命が救われるのだろうな」
「はい。杏寿郎さんや私が年を取ってお爺さんお婆さんになる頃には、医療はもっとずっと進歩しているかもしれないですね」
「ああ…そうだな。そんな未来を、俺も見てみたいものだ」
「きっと見られます。先生は、優秀な人ですから」
「先生だけでなく、名前、君も十分優秀だ」
 笑みを深めた杏寿郎さんが、腕の前で組んでいた手を解いて私の頭を再び撫でた。彼にとっては、手伝いを頑張った子供を褒めているような感覚なのだろうが、心臓の鼓動が増して頭の中にこだまする。私、やっぱり、何か変。
「あ、あの!杏寿郎さんは…その、どうして今のお仕事を」
 動きを早める自分の鼓動を誤魔化すように杏寿郎さんに問えば、彼は虚を衝かれたような顔をした。初めて煉獄家を訪れた時「今度ゆっくり話そう」なんて言ってくれてはいたが、やはりあれは社交辞令で、踏み込んではいけなかったのかもしれない。
「…すみません、出過ぎたこと聞きました。あの、忘れてください」
「いや、構わない。説明すると言っておきながら、何も話すことが出来ていなかったな。煉獄家は、代々鬼狩りの家系だ。俺は、鬼の討伐を目的とする鬼殺隊という組織に属して、日々任務にあたっている」
「…鬼狩り?鬼殺隊」
 鬼なんて作り話に登場する悪役だと思っていたが、どうやらそうではないようだ。そして、恐らく杏寿郎さんの腰に差された刀は、鬼狩りとやらに使われる物なのだろう。
「ああ。俺達は国の軍隊とは違って政府非公認の組織だから、その存在を民間人に知られていることはあまりないのだ。…鬼は人を喰う。だから俺達は、人々に危険が及ばないよう鬼を狩る」
「……そうだったんですか。私は鬼なんて架空の話かと思っていましたが、杏寿郎さん達のような方が守って下さっていたから、こうして平和に暮らすことが出来ているのですね。本当にありがとうございます」
 杏寿郎さん以外の人の口からこの事実を聞いたとしたら、きっとこんな風にすんなりと聞き入れ信じることは出来なかったかもしれない。この人が嘘を言うなんて、露ほども考えられなかった。
「む…そんな風に面と向かって礼を言われることはないから、なんだかこそばゆい気持ちだな」
 そう言うと、杏寿郎さんは恥ずかしそうに眉間をかいた。そんな彼もまた、私が見る初めての彼で、心臓が嬉しそうな音を立てる。
「そういえば、杏寿郎さんは食べるのがお好きなんですね。他に何か好きな物が——」
 もっと杏寿郎さんのことを知りたい。そう思って口を開きかけた時、大きな潮鳴りの音が響く。慌てて海の方に視線を移せば一際大きな波が押し寄せてくる。まずい、この位置では全身がずぶ濡れになってしまう。咄嗟に後ずされば、湿った砂に足をとられて均衡が保てなくなってしまう。
 しかし、転ぶと思った次の瞬間には、私は腕を勢いよく後ろに引かれていた。背中から人の温もりが伝わってくる。押し寄せた波は、着物の裾ぎりぎりを掠めて引いていった。
 今私をこんな風に助けてくれる人は一人しかいない。逆上せてしまったように瞬時に熱くなった顔で後ろを振り返ろうとしたとほぼ同時に、低く優しい声が耳に滲んだ。
「俺は、歌舞伎を観るのが好きだな」
「え?」
「君は歌舞伎を観たことがあるか?」
 杏寿郎さんが、先刻の私の質問に答えてくれていることが分かるのに、十秒程かかってしまう。当然歌舞伎など観たことがない私は、頭を勢いよく左右に振る。
「いえ、お恥ずかしながら、一度も…」
「別に恥ずかしがることはない。では、次は歌舞伎を観に行こうか」
「えっ!い、一緒にですか?」
 耳を疑うようなお誘いに、ひとまわり大きな声を出してしまう。動揺しながら身体の向きを変え杏寿郎さんを見れば、狼狽する私に気遣うような表情が向けられる。
「いや、気が進まなければ無理強いはしない。ただの思いつきだから勿論断ってくれて構わな——」
「行きたいです!あ、その…歌舞伎見たことないので、行ってみたいです」
 波の音にも負けないくらいの大きな声で言えば、杏寿郎さんは鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をして、次の瞬間には豪快に笑った。
「そうか!ありがとう」
「こちらこそ…ありがとうございます」
「それにしても、名前は、案外粗忽者だな」
「粗忽者…」
 確かに私は杏寿郎さんに助けられてばかりだ。初めって出会った時も、初めて煉獄家に行った時も、今も。
「危なっかしいから、目を離さぬほうが良さそうだ」
 太陽よりも眩しくて包み込んでくれるような優しい笑顔に、心臓が大げさに鳴っている。動悸がして、苦しくて息が出来なくなってしまいそう。でも、今すぐ死ぬような痛みにも思えない。やはり私の身体の中で何かが起きてしまっているのだろう。
 今日自宅に帰ったら、先生に診察をしてもらわなければいけない。


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