杏寿郎さんの胸で思いきり泣かせてもらったことが良かったのか、あの日からの私はまるで憑き物がとれたみたいに活力を取り戻した。私に足りなかったのは、杏寿郎さんだったのかもしれない。そう思ってしまうほど、彼は私の中で大きな存在となっていた。
今日も息が詰まるほど蒸し暑い日だった。夏の色を帯びた太陽が放つ光が容赦なく地上に降り注ぐ中、私は煉獄家の門を叩く。今日の訪問に先生はいない。槇寿郎さんに拒否されたあの日以来、初めての単独での訪問だ。緊張していないと言えば嘘になり、前回の訪問の件も先生に話したが「もう大丈夫だよ」と笑顔を向けられただけだった。
火が付いたような蝉の鳴き声に背中を包まれながら家主を待っていると、少しして重量感のある門がみしみしと音を立てて開かれる。
「名前さん、お待ちしておりました」
「千寿郎さん。今日は私一人です。どうぞ宜しくお願いします」
笑顔で迎えてくれたのは千寿郎さんだった。ということは、今日も杏寿郎さんは任務で留守にしているのかもしれない。
「兄は今、裏庭の鍛錬場で隊士の方の稽古にあたっています。後ほど顔を出すと思います」
心中を察したのか、千寿郎さんが私を煉獄家へ招き入れながら、口元を柔らかく緩ませて言う。千寿郎さんは私よりも年下だが、鋭い観察眼を持っていた。私が杏寿郎さんを慕っていることなどとうに見通されているような気がして、恥しくなってしまう。
「お父様の様子はどうですか?」
「はい。暑い日が続いているせいか食欲が落ちていますが、大分落ち着いていると思います。最近は一人で散歩などにも出かける姿を見かけますし」
「そうですか。それは良かったです」
「父の部屋にタオルと新しい着物の着替えを置いてあります。…私も一緒に居た方がよろしいでしょうか?」
槇寿郎さんの自室の前に到着すると、千寿郎さんが心配そうに私に問う。前回の件を杏寿郎さんから聞いて知っているのかもしれない。私は笑みを作って首を左右に振る。
「大丈夫です。千寿郎さんもお家のことでお忙しいでしょうし、私に任せてください」
「そうですか。では、宜しくお願いします」
安堵の笑みを浮かべて来た廊下を戻っていく千寿郎さんの背中を見送った後、私は襖に向き直る。任せて、なんて偉そうなことを言ってしまったが、本当は緊張して仕方がない。自身を落ち着かせるように大きな呼吸を一つして「失礼します」と襖に向かって声をかければ「入れ」というぶっきらぼうな声が返ってきた。
部屋に入ると、槇寿郎さんは布団の上で胡坐をかいて、書物に目を通していた。横になっている姿をみる機会が圧倒的に多かったため、身体を起こしている姿は新鮮だった。それほど体調が回復しているということなのかもしれない。
「本日は私一人で参りました。今日は…あの、お身体を観察させてもらって、お胸の音を聞かせていただきます」
ごくりと唾を呑んで言葉を紡ぐと、大きな双眸が書物から私へと向けられる。まるで蛇に睨まれた蛙の状態で、びくびくしながら槇寿郎さんの反応を待っていると、私に背中を向けるよう体勢を変え、着物をばさりと脱いで広い背中を披露した。
分かりにくいが、皮膚を観察しても良いということなのだろう。一気に緊張が解けて体中の力が抜けていく。先生や杏寿郎さんが言うように、少しずつ受け入れられているのかもしれない。
「――これで本日は失礼いたします。次回は先生と参ります」
身体の負担にならないように素早く処置を済ますと、私は額に玉のように浮かんだ汗を拭って頭を下げる。すると、目の前に、枕元に畳んであった真新しいタオルが差し出される。
「え…あの」
「千寿郎に言って何か飲んでいけ。干からびるぞ」
槇寿郎さんは一言だけ素っ気なく呟くと、布団に身体を横たえこちらに背を向けてしまった。これ以上会話を続けるつもりはないようだったので、私はそっと部屋を後にする。やはり、少しずつだが認められているのだ。そう思うと、頬が緩まずにはいられなかった。
胸に淡い喜びを湛えて台所に立ち寄ると、千寿郎さんが茶菓子を準備しているところであった。私に気づいた彼は、数人分の麦茶と菓子が乗ったお盆を持ち上げて、丁度良かったと言わんばかりの笑みを向けてくれる。
「名前さん!今から兄達にお茶を持っていこうと思っていたんです。良ければお茶だけでも飲んでいかれませんか」
「実は…次の患者様の所と、先生のお使いで調べものがあって図書館に行かなければならないんです…でも、折角なので、杏寿郎さんに、ご挨拶だけして行ってもいいでしょうか」
「勿論です!兄も名前さんに会いたいと思いますし」
千寿郎さんが破顔する。本当に?本当に杏寿郎さんも私に会いたいと思ってくれているのだろうか。
千寿郎さんの後に続いて、一度玄関を出て煉獄家の裏手に位置する鍛錬場へと足を向ける。以前、杏寿郎さんと一緒に水を汲んだ井戸の隣にあった立派な建物が、どうやら鍛錬場のようだ。今更ながら、煉獄家の裕福さに腰が引けてしまう。代々鬼狩りの家系だと話していたし、ひょっとすると私が杏寿郎さんをお慕いすることなど、お門違いなのではないだろうか。
「兄上!蜜璃さん!少し休憩しませんか。それと兄上、名前さんがお見えになっています」
鍛錬場に入るなり千寿郎さんが声を張って言う。そこには、可愛らしい女性に真剣な表情で剣を指南する杏寿郎さんの姿があった。当たり前のように女性に触れる彼を目の当たりにして、ズキンと今までに経験したことのない鋭い痛みを胸に感じる。それはまるで刃物で心臓を一突きされたような。
「千寿郎!…それに、名前!来ていたのか?声をかけてくれれば良かったのに」
こちらに気づいた杏寿郎さんは、額に浮かんだ汗を拭って私達の元に歩み寄る。その向こう側には、桜色のおさげが特徴的な女性が、こちらを興味深そうに見つめていた。
私は、杏寿郎さんの属する鬼殺隊というものが、男性ばかりの組織だと勝手に思い込んでいた。しかし、実際はこんなに可愛らしい女性もいるのだ。そして、杏寿郎さんにとって女性に触れることは特別なことでは無かったのだ。
かぁっと、顔から火が出そうなほど熱くなる。もしかしたら、杏寿郎さんも私と同じ気持ちでいてくれるのではないかと、頭のどこかで考えていた自分を蹴り飛ばしてやりたい。恥ずかしくて、夏の日差しに溶けて無くなってしまいたかった。
「名前、父の所にはもう行ったのか?もしまだなら俺も一緒に――」
「もう終わりました。あの、私この後数件患者様を訪問しなければいけなくて、先生の使いで図書館にも行かなければならないので…じ、時間がないので、これで失礼します」
杏寿郎さんの視線を感じたが、私は目を伏せたまま捲し立てるように言って踵を返す。「名前」と名を呼ぶ声が聞こえたが、振り返りも立ち止まりもせずに、私は次の訪問先へと走った。
図書館で先生に頼まれた調べものを終える頃には、窓の向こうの景色は黒色に塗り潰されていた。閉館が近い図書館に人の姿は殆どなく、耳を塞がれたかと思うほどの静けさだった。昼間の件を思い出すと、どうしようもなく胸が苦しくなって、深い溜息が出た。
――いつでも俺の胸を貸すから…もう一人で泣かないでくれ。苦しまないでくれ
杏寿郎さんはそう言って私を抱きしめてくれた。でも、その理由が杏寿郎さんだった場合は、どうすればいいのだろうか。
調べ物のために集めた書物を、林のように並ぶ書架の元の位置に一冊一冊戻していると、ふと、「広辞苑」の文字が目に入る。普段、こんなに分厚い辞書を手にする機会は多くないが、私はどうしてもある言葉を調べてみたくて仕方がなかった。
『こい(恋)コヒ 一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ』
分厚い書物の一ページに、数行にわたって説明された「恋」の意味は、私が考えていたものよりもずっと淋しいものだった。でも、これは今の私にぴったりなのかもしれない。恋というのは、自分が想う人と結ばれないことを前提に作られた言葉なのかもしれない。
「…恋…か…」
「…えっ…」
幸せを逃がしてしまいそうな溜息を吐いて、分厚い広辞苑を閉じようとしたその刹那、恋い焦がれる人の声が鼓膜を震わす。不意打ちで声をかけられたものだから、肩が驚きで飛び上がり、気が動転して手中の書物を足元に落としてしまう。
運悪く「恋」のページを強調して床に落ちたそれを隠すように慌ててしゃがみ込めば、炎を基調とした脚絆が視界に飛び込んでくる。そして目の前の気配は、私に倣うように腰を落とした。
広辞苑のページを慌てて閉じようとしていた手を大きな手に掴まれてしまえば、私は伏せた目を上げるほかなかった。
「名前…」
「なんで…なんで…杏寿郎さん」
低い声が耳に滲む。杏寿郎さんの真剣な眼差しが射抜くように私を見る。時が止まって、周りの世界が透明になる。杏寿郎さんの美しいな瞳から目が離せなかった。広辞苑がぱたんと閉じる音がする。
「……名前…俺も…」
杏寿郎さんがそう呟いた時には、もう唇と唇が触れあってしまいそうだった。
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