「おやすみ、名前。…さぁ、家へ入ってくれ」
「いつも私が見送られてばかりです…。今日は私にも――」
言いかけた私の唇を、杏寿郎さんが自身のそれでやんわりと塞いだ。
「…君が無事に家に帰ったことを確認しないと、安心出来ないのだ。…分かってくれ」
一瞬の口付けが終わると、杏寿郎さんは私の腰のあたりに回していた両腕に少しだけ力を入れて、苦笑しながら呟いた。
杏寿郎さんと想いを通じ合わせ恋仲となってから、ひと月ほど経過した。少しずつ夏は遠ざかり、頬を撫でる風はいつのまにか秋の温度に変わって、涼しさが混じり始めていた。
任務で忙しい恋人と頻回に逢引することは難しかったけれども、杏寿郎さんは鎹烏の要さんを使って任務で赴いた地からも文を送ってくれたし、時間が出来れば、たとえそれがほんの少しの暇でも、こうして診療所に足を運び私に会いに来てくれた。
慈しむような目に見つめられ、嬉しくて、幸せで、胸がどきどきして仕方がないのに、それでもこうして別れる時はいつも寂しくて堪らなくなる。それは、この日常がいつ失われるか分からないことを、私達が知っているからかもしれない。
「…分かりました…」
「…ふっ…そんな悲しそうな顔をするな。…名前…君を離せなくなってしまうぞ」
毎度のことながら、後ろ髪を引かれる思いで温もりを手放そうとすると、杏寿郎さんが私の鼓膜に這わせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。熱い吐息が耳朶にかかって、心拍数が跳ね上がる。
「っ…離してほしくない…です」
漸く絞り出した声は緊張で震えていた。杏寿郎さんが私の両肩をそっと掴んで、目鼻立ちが良い顔を、もう一度私に接近させる。
「…名前、口を…開けてくれないか」
「え、口?こう、ですか…ぅ…んっつ」
口を開ける?頭の上に疑問符を浮かべつつも言われるがまま口を少しだけ開けば、杏寿郎さんの唇がもう一度重なった。しかし、それは私が経験したことのない初めての口付けだった。
肩を掴まれていた手が背中に回され口付けを深められると、口内へ生ぬるい何かが侵入してくる。それが杏寿郎さんの舌だと気づいた時には、私は舌先を絡め取られていた。
なに、これ?杏寿郎さんと恋仲になってからというもの、別れ際には毎回交わしてきた、唇と唇が触れるだけの胸がきゅっとするような口付けとは、何もかもが違う。杏寿郎さんの雄々しい瞳がいつもよりずっと熱っぽく私を見つめており、頭がどうにかなりそうだった。心臓が激しく脈打って、今にも顔から火が噴いてしまいそう。
飴玉を転がすみたいな巧みな舌遣いが私の舌を弄ぶ。なんだか身体がおかしくなってきた。唇に感じる杏寿郎さんの色っぽくて熱い吐息と、官能的な舌の動きのせいで、お腹の奥がきゅっと締まった。
「はっ…ん…っ…はぁ」
口付けをされている間、どう呼吸をしたら良いか分からない。いつまでも終わる気配のない接吻に息が乱れて、足の力が抜けていく。苦しさに涙が滲んで、目の前の端正な眉目が少しぼやけた。そこで、杏寿郎さんが漸く口を離した。
「はっ…はぁっ…はぁ」
息一つ乱していない杏寿郎さんとは対照的に私の息は絶え絶えで、唾液でしっとりと濡れた唇を半開きにしながら空気を求める。頭の中は、足りない酸素を吸収することに必死なのか何も考えることが出来ない。杏寿郎さんが愛しくて堪らないという気持ちを除いては。
「…これでも、離して欲しくないと言えるだろうか?」
囁くように投げかけられた問いに、また下半身がぎゅっと切なく痛んだ。杏寿郎さんの胸の中でやっとの思いで呼吸を整えた私は、自分でもびっくりするほど湿った声で絞り出すように告げる。
「…これでも、離して欲しくない…杏寿郎さん…っ」
杏寿郎さんは意表を衝かれたように大きな目を見開くも、すぐに幸せをかき集めたみたいに微笑んだ。そして私達は、暫く唇を合わせ続けていた。
開け放たれた障子窓から見える煉獄家の大きな庭が、立派な銀杏の木に彩られる季節になった。真っ青な秋空と暖色の葉の対比が、目を瞠るほど鮮やかだった。
涼風が吹くと木々の枝が揺れ、色付いた葉がはらはらと舞い落ちてくる。黄金の雨が、砂利の敷かれた庭の地面に降り注ぐ。
「おい、終わったのか?」
「あ…ごめんなさい。あまりにもお庭が綺麗だったので、つい」
「ふん…さっさとしろ」
槇寿郎さんの不機嫌そうな声に意識が引き戻される。身体を清めるためのタオルを握り締めながら、ぼおっとしてしまっていたようだ。慌てて謝罪の言葉を口にして、私は千寿郎さんが用意してくれていた新しい浴衣を、拭いたばかりの大きな背中に掛けた。
煉獄家を初めて訪れた時の状態が幻であったみたいに、槇寿郎さんの体調は快方に向かっていた。後はお酒を完全に止めることが出来れば、回数の減った先生の往診も不要になる日が来るだろう。
槇寿郎さんの態度は相変わらずだったが、私を拒絶しているわけではなかった。杏寿郎さんの話では昔はもう少し物腰が柔らかだったようだが、これまでの経験や年齢を重ねたことで素直になるのが照れ臭いのだろう、という先生の分析に笑ってしまった。
「では、次はひと月後に参ります。何か体調の変化や困ったことがあれば、直ぐに連絡をくださいね」
「おい…お前…」
「はい?なんでしょうか」
畳に額を擦り付けるように頭を下げると、槇寿郎さんが何かを言いかける。慌てて面を上げて聞き返すも、直ぐに、なんでもない、とぶっきらぼうな言葉が飛んできたため、私はそのまま部屋を後にする。槇寿郎さんは何を言おうとしたのだろうか。
本日は、杏寿郎さんも在宅していた。処置を終えたら声をかけるよう言われていた私は、長い廊下を歩いて居間に向かう。しかし、その手前にある部屋の前で私は思わず足を止めた。杏寿郎さんと女性の声が聞こえてきたからだ。
なんだろう。気になって仕方がなかったが人の話を立ち聞きするのも気が引ける。私は左右に頭を振って、再び足を踏み出す。しかし、突然聞こえてきた「名字さん」という単語に、全身が金縛りにあったみたいに硬直した。どうして、私の名前が。
「杏寿郎さん。悪いことは言わないから、あの子だけは止めておきなさい。恋仲なのでしょう?街で貴方達が歩いている姿を何度か見かけたわ」
「何故貴女にそんなことを言われなければならないのか、理解出来ない」
「杏寿郎さんのことが心配だからに決まっているでしょう。…先日ね、近所の奥様から教えていただいたの。あの子、片親を結核で亡くしているのよ。結核ですよ?ああ、怖い」
杏寿郎さんの冷たい声と、悍ましいと言わんばかりの女性の声が、今度ははっきりと聞こえた。
どくどくと激しく鼓動が脈打ち始める。煉獄家が由緒ある家系であるが故に、いつかこんなことが起きるのではないかと漠然とした予感があった。けれども、杏寿郎さんと一緒にいられることが幸せで、見て見ぬ振りをしていた。私の境遇が、杏寿郎さんだけでなく、煉獄家にまで迷惑をかけてしまう。
「貴方は煉獄家の跡継ぎなのですよ。あんな子を娶って、大切な血が途絶えたらどうするんです。槇寿郎さんはあんな状態だし、煉獄家は杏寿郎さんにかかっているのですから」
きっと女性は、煉獄家の親族の女性なのかもしれない。この辺りで先生が往診している家は少なくないから、どこかから私の噂が広がってしまったのだろう。やはり私が杏寿郎さんの傍にいることなど、許されないのか。
「自分のことは自分で決めさせてもらいます。貴女にとやかく言われる筋合いはないし、それに、結核が流行り病だというのなら俺はとうに結核にかかって死んでいます。…貴女だってご存知だろう。母の瑠火は結核で亡くなったのだ」
「その話はしない約束でしょう!それは、煉獄家の中だけの話にして他言無用だと言い聞かせたはずです。煉獄家の沽券に関わります。いいですか。杏寿郎さんにはこちらで相応しい縁談相手を見つけて――」
様々な気持ちが混ざり合って私を襲ってくる。もうこれ以上聞きたくないと思うのに、身体がそこから動かなかった。いつの間にか小刻みに震えていた身体を両手で抱きしめ、廊下に縫い付けられたように動かない足を見つめる。
刹那、襖を勢いよく開ける小気味良い音が鼓膜を震わす。反射的に顔を上げれば、大きな瞳を怒りに染めた槇寿郎さんの姿を視界の端に捉えた。
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