episode 23
吼える親心




 いつの間に?と思わず目を疑ってしまうほど、槇寿郎さんの気配はなかった。流石、杏寿郎さんの父親だ。病を患ったとはいえ、元々は杏寿郎さんと肩を並べる、いや、それ以上の剣士だったのかもしれない。
「くだらん!」
「し…槇寿郎さん、貴方…なんですかいきなり!」
 呆気にとられていると、雷のような激しい怒号を響かせて、槇寿郎さんがどかどかと客間へ入っていく。その姿に呆然としたのは、私だけではなかった。襖の向こうの杏寿郎さんもまた、端正な顔に驚愕の表情を浮かべて父親を見つめていた。
「久々に顔を出したと思えば、そんなことを言いに来たのか。この娘の境遇などどうでもいい。この家の当主は俺だ。分家が余計な口を出すな!」
 有無を言わせぬ槇寿郎さんの圧に、机を挟んで杏寿郎さんの向かい側に座る中年女性は、整った瓜実顔に怯えたような表情を浮かべて絶句している。しかし、そんな女性の様子に一切遠慮することなく、槇寿郎さんは畳み掛けるように言葉を浴びせた。
「杏寿郎が決めたことだ、この娘と一緒になると。俺はこいつらのことなど心底どうでもいい。口を出すのも馬鹿らしい。だが、外野にとやかく言われる筋合いはない。分かったらさっさと出ていけ!」
 女性は悔しそうに眉根を窄め慌てて荷物を纏めると、「後悔しても知りませんよ」と捨て台詞を残して足早に部屋を後にした。部屋を出る際、廊下に座る私の存在に気付いた女性は、蔑むような視線を残していったが、そんなことは気にならなかった。
 槇寿郎さんのつっけんどんな言葉が、全てを帳消しにしてくれるだけでなく、私の心を救ってくれた。じわじわと温かい気持ちが込み上げて、それが熱い涙となって目から噴き零れる。
「名前!…聞いていたのか」
 私の存在に気がついた杏寿郎さんが、心苦しそうに眉根を寄せてこちらへ駆け寄ってくる。そして、そのまま広い胸に私を収め、「すまない」と何度も呟くものだから、私は勢いよく首を左右に振る。
「悲しいわけじゃないんです…っ…その…嬉しくて…」
「名前…」
「杏寿郎さんもお父様も…私の境遇なんて…気にしないんだって…分かって」
「…気にするわけがないだろう、そんな些末なことを」
「っ…杏寿郎さん」
 大きな掌が私の後頭部をゆっくりと撫でて、優しくて低い声が耳に滲む。止まらぬ涙が杏寿郎さんの隊服を濡らすのなんかお構いなしに泣きじゃくっていると、呆れたような声が頭上から降り注ぐ。
「迷惑だ。他所でやれ」
「…父上…」
「ふんっ」
 声に釣られるように顔を上げた時には、杏寿郎さんの肩越しに、自室に戻っていく槇寿郎さんの後ろ姿しか確認出来なかった。廊下の突き当りを曲がるまでその背中を見つめていると、杏寿郎さんの大きな手が私の頬を濡らす涙を拭う。
「っ…すみません…子供みたいに泣いて。…私、杏寿郎さんの前で泣いてばかりですね」
「俺が、君の涙を拭える唯一の男だと思うと嬉しくて堪らないな。…名前、落ち着いたら家まで送ろう」
「杏寿郎さん…」
 私だけに贈られる特別な台詞に、顔を殊更熱くして杏寿郎さんを見れば、熱を持った唇が額に押しつけられた。

  

「…あの、杏寿郎さん?」
「ん、どうした?」
「その…お聞きしたかったんです。お父様は…私達の関係をご存知だったのでしょうか?」
 先刻の言葉通り、杏寿郎さんは私を自宅まで送ってくれていた。黄金の葉をつけた銀杏の木々に囲まれた道を歩きながら、隣を歩く杏寿郎さんに問いかける。
——杏寿郎が決めたことだ、この娘と一緒になると。俺はこいつらのことなど心底どうでもいい。口を出すのも馬鹿らしい
 先程、槇寿郎さんは確かにそう言っていた。ということは、杏寿郎さんは私のことを話してくれていたということなのだろうか。
「いや…父に言う間合いは伺っていたが、俺の口からまだ話をしたことはなかった。…だから、俺も驚いた。今日の父には。俺の気持ちなどとっくに見通されているのだろうな」
 杏寿郎さんは決まりが悪そうに言ったが、どこか嬉しそうで幸せそうだった。その表情を目にした私も、自然と笑みが零れる。
「そうだったんですか。……よく、見てらっしゃるんですね。杏寿郎さんのこと。お父様は、杏寿郎さんのことが大好きなんですね」
「そうだったらいいのだが…少なくとも名前のことは可愛く思っているのだろうな」
「…私のこと、認めて下さったんでしょうか」
「父はもうとっくに君のことを認めているし信頼している。分かりにくいが…以前からそう言っているだろう」
 杏寿郎さんが足を止め、繋がっていない方の手で私の腰を引き寄せる。優しい瞳が愛おしそうにこちらを見つめていた。
「杏寿郎さん…」
「名前…」
 とくとくと拍動する音の間隔が短くなっていく。繋がっていた手が解かれ、杏寿郎さんの手が頬を包むように添えられて、熱い吐息が近くなる。杏寿郎さんの綺麗な顔が近づいてゆっくりと瞼を閉じた時、甘い空気を切り裂く「任務、任務」、という要さんの声が耳元で響いた。
「きゃっ」
「……また間が悪いな」
 要さんが、主ではなくゆっくりと私の肩に舞い降りて羽を畳む。何度も要さんにお願いして杏寿郎さんと文の遣り取りとしていたものだから、すっかり私にも懐いてくれたようだ。杏寿郎さんは嘆息して、私の頬に添えていた手で、今度は濡羽色の羽を撫でた。
「杏寿郎さん。どうぞ任務に向かってください。まだ昼間ですし、私はここで大丈夫ですから」
「しかし——」
「杏寿郎くん、では私が君の役目を変わろう」
 不服そうな表情を浮かべる杏寿郎さんに苦笑していると、穏やかな声が聞こえる。二人して声の方を見ると、すぐ隣に往診帰りの先生が破顔して立っているではないか。
「せっ、先生!」
「私が傍にいることに、名前ちゃんは兎も角、杏寿郎くんも気づかないなんてなぁ。よっぽど二人だけの世界に没頭していたのかな」
「…先生…貴方も人が悪い」
 狼狽する私の横で、杏寿郎さんも額に手をあて耳を赤く染め、決まりが悪そうに呟いた。
「はは、すまない。幸せそうな君達を見ているのが嬉しくてね。話で聞くのと実際に目で見るのは違うから。…それより、杏寿郎くん」
 先生の最後の言葉に、杏寿郎さんの瞳が鋭いそれに変わった。任務に赴く前の鬼殺隊士としての表情だ。不謹慎であると分かりつつも、凛々しい顔つきに胸がときめいて仕方がない。
「はい…では、先生。申し訳ありませんが、後は頼みます。名前、また文を送る」
「は、はい!杏寿郎さん、お気をつけて」
「ああ、行ってくる」
 杏寿郎さんは私の頬にもう一度手を滑らせたあと、先生に一礼して地面を蹴った。白い羽織が翻ったと思えば、その姿はもう見えなくなっていた。
「…じゃぁ、診療所に戻ろうか」
「はい!すみません、先生」
 杏寿郎さんの残した温もりに浸りながら、ぼーっと彼の消えた方角を見つめていると、先生の苦笑混じりの声が耳元で揺らいで、私は慌てて意識を引き戻す。
「杏寿郎くんと上手くいっているみたいで安心したよ」
「あの…ありがとうございます。先生のお陰です」
「私は何もしていないよ。二人は出会うべくして出会ったんじゃないかな。それこそ、運命の赤い糸で結ばれていたのかもしれない」
 先生は目元に微笑を湛えて頷いた。柔和な笑みは、頬を撫でる秋風のように心地よかった。
「出会うべくして…出会った。…運命の、赤い糸」
「そういえば、今日は槇寿郎さんは大丈夫だったかい?」
 独り言葉を復唱していると、思い出したように先生が問うたので、私は本日の出来事を事細かに説明する。すると、先生は一層笑みを深めた。
「槇寿郎さんも素直じゃないな。彼も根は悪い人ではない、寧ろとても優しい方だ。君の真っ直ぐな気持ちが伝わったんだろう」
「そうなのでしょうか…。でも、それなら良かったです」
「それにしても…結核という病気は、その単語だけで人々に恐怖を植え付けるのだろうね。確かに現時点で救える病ではないが…誤った捉え方をしている人々も多い。…名前ちゃん、君も辛い思いをしているだろう」
 先生が声を落として悲しそうに言うものだから、私は否定するように首をぶんぶんと左右に振る。
「先生が、杏寿郎さんが、煉獄家の皆さんがいてくれるので、私はちっとも辛くありません。それに…結核は未来では救える病になるっていう先生の言葉…信じています。先生みたいな凄い人がいるんですから。だから私も出来るだけ先生のお手伝いをしたいんです。少しでもお役に立ちたいんです」
「名前ちゃん…。はは、やっぱり君は凄いなぁ。杏寿郎くんも、君のそういうところを好きになったんだろうね」
 先生が大切そうに私の頭を撫でてくれる。そして、柔らかい表情を真剣なそれに変え、言葉を続けた。
「実は、結核療養所を訪ねたいと思ってる。名前ちゃんも、一緒に来てくれるかい?」


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