episode 24
愛を彩る秋桜


 

 コンコン、と診療所の窓ガラスを叩く音がする。時刻は丁度十二時を回り、診療も一段落したため、そろそろお昼にしようと先生と話をしていた矢先だった。
 私は胸を弾ませて窓際に駆けよりガラス戸を開くと、杏寿郎さんの鎹烏である要さんが私の肩に舞い降りる。鋭い嘴には文が咥えられていた。逸る気持ちを抑えて、「ありがとう」と要さんに感謝の意を伝えると、嘴からそっと文を抜き取った。
 もう数えきれないくらい遣り取りをしているにも関わらず、杏寿郎さんからの文を読む前は嬉しさで手が震えてしまう。和紙には、いつ見ても感心してしまう達筆な字で、明日には任務から帰還すること、その足で連れて行きたい場所がある、と記されていた。どうやらこの時期しか拝むことが出来ない、とっておきの場所があるようだ。
「嬉しそうだね、名前ちゃん。逢引のお誘いかな」
「せ…先生…あのっ…はい、ごめんなさい」
 首にかけていた聴診器をことりと机に置いた先生が、苦笑しながら私に言う。だらしなく緩んだ頬を、唇を引き結ぶことで元に戻そうとするも、口元にも微かに笑みが浮かんでしまう。そんな私の様子をみた先生が、可笑しそうに笑った。
「いいんだよ。嬉しい時は笑えばいい。それで、逢引のご予定はいつなのかな?」
「それが…杏寿郎さんは明日任務から戻られるみたいで。その足で…と書かれているのですが、明日は往診が立て込んでますし…」
「いや、行ってきなさい。私の方は大丈夫だから」
「でも…」
「名前ちゃんには、私と一緒に結核の療養所に行ってもらわなければならないから。一生の別れじゃないけど、比較的長い訪問になる。その前に、少しでも会ってくるといい。杏寿郎くんは忙しい子だ。二人で会う機会はそう多くないだろう。一緒にいられる時間を大切にしなさい。すぐ会える距離にいるのだから、尚更だよ」
 先生の最後の台詞は、まるで自分に言い聞かせているようにも思えた。ひょっとすると、亡くされた奥様になるはずだった女性を思い出しているのかもしれない。
「先生…本当にいいんですか?」
「勿論だよ。ほら、そうと決まれば早く返事を書いて届けてもらいなさい。午後の診療が始まるまで、まだ時間はある」
「は、はい!」
 先生に急かされ、慌てて診察室を飛び出し自室へ急ぐ。要さんも、まるで「早くしろ」と催促するように、絹のように艶やかな羽で私の頬をそっと撫でた。

  

「わぁっ…綺麗」
 目の前に広がるのは、炎のように揺れる秋桜の花。杏寿郎さんが、「この時期しか拝むことが出来ない、とっておきの場所」というのは、診療所から一時間ほど馬車で移動した場所にある、広大な秋桜畑だった。そこには濃淡ピンクや白色の花が咲き乱れ、高く澄み渡った秋空に一層の彩を添えていた。感嘆の声をあげる私の反応を見て、安心したように笑った杏寿郎さんは、私の手を自身の手で絡め取って、秋桜畑の中へと足を進める。
 畑の中は、人が行き来出来るような小さな畦道が作られていた。秋桜の背が意外にも高いせいか、畑の中の通路を歩いていると、ちょっとした迷路に迷い込んだような不思議な気分になってくる。同じように秋桜を愛でる人々の声が、畑の所々から聞こえてくる。
「杏寿郎さん、なんだか迷っちゃいそうですね」
「ふっ、そうだな。名前となら、一生迷っていたいものだが」
 くすくすと笑いながら言った私に、杏寿郎さんは振り返って幸せそうに目を細めた。人気のない場所で足を止めると、杏寿郎さんは躊躇なく私を胸の中に収めた。
「ひゃっ…あのっ…」
「この景色を君に見せたかったのは事実だが…本当は俺が、名前と二人きりになりたかっただけなのかもしれんな。…今度は誰にも…邪魔されない場所で」
 脳髄が麻痺してしまいそうな甘い囁きに、どうしようもないくらい胸が高鳴る。自然の壮大さに感動していた私の頭は、一瞬にして杏寿郎さん一色に染まってしまう。
 杏寿郎さんが私の腰に回した両手に力を込めたかと思うと、あっという間に唇が合わさった。この口付けもあの夜みたいな、お腹の奥がぎゅっと切なくなるような口付けなのだろうか。緊張と期待に心臓をばたつかせていると、私の下唇を軽く吸ったのを最後に、杏寿郎さんの唇は離れてしまう。
 物足りない。もっと杏寿郎さんに触れて欲しいのに。そんなはしたないことを考えて閉じていた目をゆっくりと開くと、杏寿郎さんが私を抱きしめていた手を解いて、上質そうな桐の箱を私の前に差し出した。
「これは?」
「亡くなった母の物だ」
「えっ…」
 目を見開いて聞き返せば、杏寿郎さんがそっと蓋を開ける。桐箱の中から、漆塗りの美しい簪が顔を出す。朱色のとんぼ玉が特徴的な一本簪は、繊細さと上品さと力強さを合わせもったような印象を受けて、実際に会ったことはないけれど、杏寿郎さんの母親である瑠火様を彷彿とさせた。
「これを…名前に貰って欲しい」
「そんな…そんな大切な物、いただけません」
「これは、父の願いでもあるのだ」
 今度は自分の耳を疑う。二の句が継げないでいる私に苦笑した後、杏寿郎さんが言葉を続ける。
「父が母に求婚した際に贈った簪だ。名前に出会えてよかった…俺だけでなく、きっと父もそう思っている。だからこそ、俺にこれを渡してきたのだろうな」
「杏寿郎さん…」
「名前、俺と夫婦になってくれるか…君を愛してる」
 目の前の杏寿郎さんが瞼に滲んだ涙で歪んだかと思えば、目からは水滴が瞬きと一緒に弾き出された。嬉しくて涙が頬を転がり落ちる。
 私も愛しています。そう言葉を紡ごうとしても、涙に胸が咽て上手く気持ちを伝えることが出来ない。そんなこちらの様子を察してくれたのか、杏寿郎さんが唇を優しく綻ばせ、再び私を抱き寄せて、節くれだった指で涙を拭ってくれた。
「あの日…名前を助けたのが俺で良かった…俺は、君に会うために生まれてきたのだろうな」
「っ…杏寿郎さんっ…私もです。私も…きっと…杏寿郎さんに出会うために、母が生んでくれたのだと…っ…思います」
 嗚咽混じりで途切れ途切れになってしまったが、精一杯の気持ちを込めて応えると、無邪気な喜色に溢れた杏寿郎さんが、愛おしそうに私を見る。
「名前…」
「ふぇっ…杏寿郎さん…」
 極上に優しく囁かれる私の名前。大きな掌が頬に添えられて、また唇が重なった。涙で潤った唇でする接吻は、海水を舐めているみたいにしょっぱかった。遠くの方で人々の楽しそうな声が揺らぐも、私達は夥しい数の秋桜に身を隠しながら、暫らく互いの唇の熱を分け合っていた。

  

 私達が秋桜畑を後にする頃には、夕日の光が金色の矢のように大気を貫いていた。東の空は既に、紺色がかった夜に近い青色で、果てしなく広がる空に様々な色が混じり合っている。太陽はもう間もなく地平線に沈んでいくだろう。随分と日が短くなった。
「名前の母上にも挨拶に行かなくてはいけないな。…君と夫婦になることを、許してもらえるかは分からないが。…例え許しが出なくとも、名前を離すつもりなどないのだが」
 杏寿郎さんが目を細めて私を見ながら言う。躊躇ない愛の言葉に顔が熱くなり、繋がった手に無意識に力が入る。
「私の母が…杏寿郎さんを好きにならない訳がありません」
「ふっ、そうか。君のお墨付きがあれば安心だな。…実は、数日後から地方の長期任務へ発つことになった。任務から戻ったら…名前の生家に伺わせて欲しい」
「杏寿郎さんも、長期の任務へ?実は、私もなんです。私も先生と一緒に、地方にある結核療養所を訪れることになっていて」
「…そうか、結核の…」
「はい。特効薬がない結核は、空気が良い所で十分な栄養を摂ることで症状が改善する場合がありますから。療養所はどうしても地方や田舎になってしまうのです。この先の医療のためにも、病気で苦しむ患者様のためにも、後世のためにも…何か少しでも先生のお役にたてればいいんですけど」
「名前…本当に君は聖人のようだな」
 杏寿郎さんが足を止め、感心したように言って私の頭を大切そうに撫でた。
「杏寿郎さんには…言われたくないですよ」
 舌をぺろりと出して言えば、杏寿郎さんは少し困ったような笑みを零した。
「戻ってきたら…一緒に会いに行こう。君のご家族に」
「はい、杏寿郎さん。楽しみにしていますね」
 微笑み合って、私達は再びゆっくり歩きだす。
 夕日が、一瞬だけ燃え上がる炎のような色を見せて、静かに地平線にその姿を隠した。


top / back