「名前ちゃん、そろそろ病室に戻ろうかな」
「もう日光浴はいいの?」
「うん。今日はもう十分」
「分かった。今、車いす準備するね」
マスクの上にある大きな目が優しく綻ぶ。私もマスクの中で微笑んで、仰臥椅子に車椅子を横づけする。患者である少女が腰掛けたのを確認すると、足置きを上げてゆっくりと車体を押す。
この小高い丘の上に設けられた結核療養所に先生と訪れてから、早くも三週間ほど経過した。清洒な竹林と豊かな木々に囲まれたこの施設は、私が住んでいる地域とは比べものにならないくらい新鮮な空気で溢れていた。
天井硝子張りの日光浴室を出れば、燦燦と地上に降り注ぐ陽の光が直に顔を照らして思わず目を眇めるも、足元を吹き抜ける冷たい風は、もう冬の気配を孕んでいた。
特効薬のない結核は、空気の綺麗な地での療養、十分な栄養の摂取、日光浴、が現段階での治療法だった。療養所に居る患者達は、日中この日光浴室で陽を浴びることが治療の一環となっている。
「ねぇねぇ、名前ちゃんは、あとどのくらいこの施設に居るの?」
車椅子に乗ったフミちゃんが、前を向いたまま私に問う。フミちゃんは、この施設に来て出会った、私と年齢がそれほど変わらない少女だ。華奢な身体で結核と闘う彼女と私が親しくなるまで、そう時間はかからなかった。
「うーんと、あと一週間くらいかな。先生の用事がその辺りで一段落するはずだから」
私は斜め上を見て、少し考えてから答える。すると、フミちゃんの残念そうな声が彼女のマスクの中で聞こえた。
「そっかー、つまらないなぁ。…折角仲良くなれたのにさ」
「先生が結核の研究を続ける限り、私もここに来る機会がまたきっとあるから。それに、フミちゃんだってずっとここに居るって決まったわけじゃない。そのために、先生が必死で研究を頑張ってらっしゃるから…」
「………あ、そうだ!ずっと聞きたかったんだけど、名前ちゃんて、お慕いしている男性はいるの?恋仲の男性でも、許嫁でもいいけど」
私の言葉に反応することはせず、数秒間の沈黙の後にフミちゃんは明るい声で話題を変えた。
「えっ…お、お慕いしている男性?」
不治の病である結核と闘うフミちゃんに軽率なことを言ってしまったかもしれない、と自責の念に駆られる間もなく、彼女の口から飛び出した「お慕いしている男性」という単語に声が上擦ってしまう。
「あ、名前ちゃん、動揺してる!その反応は、やっぱり居るんでしょ」
「えっ、あ、あのっ…えっと」
「どんな人なの、教えてよ!」
「ど…どんな人…えっと…」
フミちゃんが興味津々に声を弾ませるものだから、私は恥ずかしくむず痒い気持ちになって、誤魔化すように車椅子を押す速度を少しだけ早めた。徐々に葉が落ちて隙間が目立つようになってきた木々に囲まれた中庭を通り抜け、日光浴室から施設へ戻る。何と答えるべきかと逡巡しながら、比較的軽症な患者達が収容されている広々とした病室へと辿りついたところで、フミちゃんが不服そうに言う。
「だってさぁ、毎日退屈なんだもん。朝起きて、朝ごはん。昼は日光浴して昼ごはん。夕ごはんを食べて、後は寝るだけ。たまに娯楽室で過ごすこともあるけど、患者は男性が多くてつまらないし」
寝台に横づけした車いすからゆっくりと立ち上がった彼女は、「もう少し付き合って」と言わんばかりの視線を私に向ける。こんな風にお願いされてしまえば断ることも出来ないし、私自身も少しワクワクしていることに気がつく。慕い、お付き合いしている男性のことを、同性の、それも年の近い女性に話すことなど初めてのことだから。
「…あの…私のお付き合いしている男性は…凄く素敵で、誠実で、優しい方…かな…」
フミちゃんが寝台に臥床したのを確認すると、傍にあった丸椅子を引き寄せ腰を降ろして白状する。杏寿郎さんの笑顔が脳裏に浮かんで、自然と頬が熱くなってしまう。
「素敵で誠実で優しい人かぁ。名前ちゃん、その男性、非の打ちどころがないじゃない」
「う、うん…そうなの。…私には勿体ないくらいの人なんだけど」
「馴初めは?」
「馴初めは、私が馬車に轢かれそうになった時に助けてくれて…その後、先生の往診先でたまたま再会したの。…患者様の息子さんでいらして」
杏寿郎さんとの思い出を辿るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。すると、寝台に寝そべるフミちゃんが、マスクをしていてもにっこりと笑ったのが分かるほど、目元を優しく緩ませた。
「名前ちゃん、それってさ、運命だよね。二人は運命の赤い糸で結ばれてたんだよ、きっと」
フミちゃんは少しだけ興奮したように言うと、天井からぶら下がる白熱灯に翳すように、小指をピンと立てて私を見る。そして言葉を続けた。
「この施設から少し歩いた所にね、赤い糸の伝説で有名な神社があるんだよ」
「え…?」
赤い糸の伝説で有名な神社?以前、先生からもまったく同じ話を聞いた記憶があった。杏寿郎さんと歌舞伎を観に行った日だ。確か、先生の妻となるはずだった女性も結核で亡くなっていた。もしかすると、先生の大切な人もここに入院していたのだろうか。そうなった場合、先生の言っていた神社と、フミちゃんが言う神社は、一緒なのかもしれない。
「その神社でね、祝言を挙げるのが…私の夢なんだ。赤い糸の儀、っていうのがあるんだよ」
頭の中で情報を整理していると、フミちゃんが独り言のように言葉を漏らした。
「赤い糸の…儀?」
「そう、赤い糸の儀。ほら、日本の赤い糸の伝説の話って、運命の人とは自分の手の小指と相手の手の小指が赤い糸で繋がっているっていうでしょ。だから、祝言の時に互いの小指に赤い糸を結んで夫婦になるの。夫になる人と強固な縁を結ぶから、時代を超えてもその人と一緒になれるって信じられているんだよ。…ロマンチックでしょ」
天井に翳していた手をだらんと脱力させると、話の内容とは裏腹に、フミちゃんが淋しそうな笑顔を見せた。
「…フミちゃん?」
「……実はね、私にもお慕いしている人…恋仲の人がいるの。でも…もう彼に会えるか分からないんだ。向こうのお家が、結核の私を煙たがっているから。…当然だよね。わざわざ大切な息子に、いつ死ぬかも分からない娘を娶らせたりなんかするはずない。それに…私…今はこの部屋にいるけど…もっと悪くなったら重症部屋に移るんだよ。そしたら私さ、きっと死んじゃう。…っ…そのことを考えると…怖い。怖くて堪らない」
フミちゃんの声が潤む。彼女は息を殺すように泣いていた。色白な細い手で顔を覆って。指の隙間から、宝石のように綺麗な涙の滴が零れおちて褥を濡らす。
自分のことのように胸が苦しくなった。私は丸椅子から勢いよく立ち上がると、半ば強引にフミちゃんの手を掴み、マスクの中から必死に訴えかける。
「フミちゃん…気持ちで負けないで。病は気からって言うでしょ。結核の研究に第一線で取り組む先生が居てくれる。私も、精一杯先生の力になるように頑張るから、だから諦めないで、一緒に頑張ろう。病気を治して、フミちゃんは大好きなその人と一緒になるんだよ」
「…名前ちゃん…っ…うん…ありがとう。…ありがとう…ごめんね、弱気なこと言って」
涙で潤う真っ赤な目で私を見たフミちゃんは、こくこくと力強く頷いて手をぎゅっと握り返してくれた。
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