episode 26
愛しい人はすぐそこ


 

 複雑な心境で、泣き疲れて眠ってしまったフミちゃんの病室を後にする。
——諦めないで、一緒に頑張ろう。絶対助かって、フミちゃんは大好きなその人と一緒になるんだよ
 先程の自分の台詞を頭の中で反芻する。果たして、私は彼女に適切な言葉をかけることが出来ていたのだろうか。現時点では、結局治療法が見つかっていない結核を患う彼女には、軽はずみな発言だったのではないか。
「ううっ…」
 身を絞るような呻き声が耳に流れ込んできて、ふと、爪先を見ていた顔を声の方に向ける。丁度、結核の末期の患者達が収容されている病室前を通過中だったことに、今初めて気が付く。
 先生から、この病室には入らないようにときつく言われていた。結核の重症患者は、軽症の患者と比べて排菌量が多く、私自身の感染の可能性がより高くなるためだ。隙間なく閉められた扉の向こうには、どんな光景が広がっているのだろうか。
「あれ、名前ちゃん。フミちゃんの日光浴の付き添いはもういいのかい?」
 ぼんやりと扉を見つめていると、背後で声が揺らぐ。先生の声だ。私はくるりと先生に向き直る。
「先生!お疲れ様です。はい、日光浴はもう終わって……今彼女は、少し眠っています」
 努めて明るく言ったつもりが、言葉尻は頼りなく震えていた。そんなこちらの様子を見逃すはずのない先生が、温顔に微笑を湛えて私の頭を優しく撫でた。
「…少し、外を歩こうか。今日はもう、手伝いはいいから」
「でも」
「ここに来てから、名前ちゃんには色々とお願いして無理させてしまったと反省してるんだ。…実際こんなに多くの結核患者を目にして驚かないほうがおかしいのに、君は泣き言一つ言わずに頑張ってくれている。きっと疲れも溜まっているだろう。気分転換だと思って、少し付き合ってくれないかい」
 疲れている自覚はなかったが、先生の言うように、慣れない環境に身を置いて知らずうちに心身が疲弊していたのかもしれない
「は、はい。分かりました」
 私の返事に満足そうに頷いてから、先生はマスクを外してゆっくりと歩き出す。遅れを取らぬよう小走りで先生へ近づき、肩を揃えて歩く。療養所の入り口を出れば、かなり西に傾き始めた陽が、目を眩しく射る。地面に映し出された二人の分の影が、先ほどよりもずっと長くなっている。私もマスクを外して、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。久々に外気に直接触れた頬が気持ち良い。
 療養所の門を潜って、人の姿が殆どない道を二人で歩く。先生には目的地があるのかもしれないが、何となく漫歩しているようにも思えた。道の脇には、葉を落として随分寂しい姿になった桜木が点在していた。隙間だらけの梢の向こうに、赤と紫が西の端に混じり始めた空が見える。
 結核の療養所が近いせいだろう。所々で目に付く民家に人々の気配はなかった。住人を失った家々が、なんだかとても淋しそうに見えた。
「…もう大分日も短くなった。…そういえば、流石に杏寿郎くんと文の遣り取りはしていないのかい?最近は彼の烏を見ないが」
 少し歩いたところで、先生は天を仰ぎながら穏やかな口調で言う。
「はい。杏寿郎さんも丁度長期の任務に就かれているようなので」
「そうか。それは寂しいね。…だが、落ち込んでいる原因はそうではなさそうだね」
 秋の風が、地面の落ち葉を掃いて通り過ぎていく様子を眺めながら、私はゆっくり口を開く。
「…フミちゃんが…、いつかは自分も重症患者の部屋に移るんだって。…死ぬのが怖いって…そう泣いていました。あまりにも辛そうで…私、言ってしまったんです。気持ちで負けちゃだめだって。諦めないで…治そうって…。でも、よく考えたらそんな安易な励ましは口にすべきでは無かったかもしれないと思って…」
「…名前ちゃん、それは違うと私は思うよ」
 先生が足を止め、私を見つめて小さく首を左右に振った。釣られるように足を止め、僅かに顔を上げて見つめ返す。先生の肩越しに見える空に、羽を広げた鳥が旋回している。緩やかに風を切るその姿が、なんとなく要さんに見えたのはきっと私の目の錯覚だろう。
「…違い…ますか」
「ああ。…名前ちゃんもお父様の件で身を以って経験していると思うけど、結核は、流行り病として忌み嫌われているだろう。だから…早く居なくなればいい…と思っている人々も少なくはない。残念だが…それが現実だ」
「…早く居なくなればいい……そんな酷いこと」
「つまり私が言いたいのは、名前ちゃんみたいに勇気づけてくれる存在は、彼女にとって貴重で有難い存在ということだ」
「でも…フミちゃんが思っていることは私にも分からないし…」
「彼女を見たら一目瞭然だろう。フミちゃんは、この数週間で見違えるように回復した。勿論、治療の効果もあるかもしれないけど、名前ちゃんの存在があることは論を俟たないよ」
「そうでしょうか…でも、先生がそう仰るのなら、そうなのかもしれないです」
「それにね、実はさっきの私の言葉は…妻の受け売りなんだよ」
 先生が一瞬だけ悲しそうに目を伏せて、懐かしそうな声で言った。
「先生の奥様。…確か結核で、正式なご夫婦になる前に亡くなられたって」
「ああ、そうなんだ。実は妻も結核を患ってから、ここの療養所に世話になっていてね」
「そうだったんですか」
「妻が、耳にタコが出来るくらい言っていたよ。病気が分かってからというもの、励ましてくれる者など一人もい居なかった。病気の噂が漏れようものなら、酷い言葉を浴びせられることばかりだったと。だから、私の存在が彼女の唯一の救いだったんだ。フミちゃんにとって、今の名前ちゃんは、きっとそういう存在だよ」
「私がフミちゃんの救いになる存在…」
 ゆっくりと紡がれる言葉を噛み締めるように受け止めていると、先生が瞳に寂しそうな色を湛えて、私の背後へと視線を移した。その視線を辿るように後ろを振り返ると、立派な鳥居が視界に飛び込んでくる。その先には、頂上が見えないほど長い石段が続いていた。
「以前、杏寿郎くんと歌舞伎の観覧から帰った名前ちゃんに話したこと、覚えているかな?この場所が、私と妻が一緒に参拝した、例の赤い糸の伝説がある神社なんだ。…皮肉だろう。妻がいつか訪れてみたいと楽しみにしていた神社が、まさか結核に罹ったことで、この療養所に入院したことで、叶ってしまうなんて」
 穏やかな先生の声が、微かに震えているような気がした。慌てて鳥居から視線を戻せば、柔和な笑みを浮かべたいつもの優しい先生がそこに居るだけだった。
「先生…あのっ」
「なんて、しんみりさせてしまってすまないね。どうだい、今日は杏寿郎くんは居ないけど、少し参拝していこうか。きっと宮司さんにお願いすれば、赤い糸の話をしてくださるだろうから」
「は、はいっ」
 今までの話を綺麗さっぱり忘れたような口調で言った先生に、これ以上奥様の話を踏み込んで聞くことは躊躇われた。代わりに私は首を勢いよく縦に振り、再び鳥居へと身体を向ける。
 その時、頭上からさっと影が落ちた。見上げると、先ほどよりも橙色が強さを増した夕日を背に受けて、誰かが私を見下ろしていた。
「…名前?…それに先生も」
 逆光で顔は見えないが、私の名前を紡ぐ声を聞けば、心地良い低音を聞けば、そこに誰がいるか、直ぐに分かった。


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