漫画のワンシーンみたいに、「目が覚めたら保健室だった」なんて横道な展開はない。保健室であることは間違いないのだが、私は先程の自身の失態を鮮明に覚えていた。
保健室の先生、であるにも関わらず、脱水症状で貧血を起こしてしまった私は、結局あの場にいた煉獄先生に助けられ、保健室まで強制送還となった。自力で歩行することが困難であり、今日一日は健診会場と化した体育館から煉獄先生が私を背負って運んでくれたのだ。
穴があったら入りたいとはまさにこのことだろう。「名字先生どうしたんだろう」という生徒の声や、煉獄先生のファンクラブを筆頭にした女子生徒達の訝し気な視線が、容赦なく私に浴びせられた。
よりによって、どうして苦手な煉獄先生。せめて、飲み仲間ではすっぱな――本当はそうではないことは分かっているが、そう見えてしまうから仕方がない――宇髄先生であれば、生徒の反応も、私の気持ちも、こんな風にはならなかったかもしれない。
「本当に…最悪」
「何が最悪なんですか、名前先生。入りますよ」
保健室のベッドに横たわったまま深く長い息を吐いてぼそりと呟けば、まろやかな声が聞こえてゆっくりとベッドを囲うカーテンが開けられた。
少しだけ開いた窓から吹き込む爽やかな風に、腰まである長い髪が揺れ、上品で甘い匂いが鼻孔をつく。相変わらず今日も美しく可愛らしい。女性の私でも心奪われてしまいそうな美貌の持ち主。生物教師である、胡蝶カナエ先生だ。
一筋縄ではいかない教師達が多いこの学園での、私の唯一の理解者といっても過言ではないカナエ先生とは、もう互いに名前で呼び合う仲だった。女性教師が少ないことも、私達が親密になれた理由の一つかもしれない。
「カナエ先生…。何が最悪って、決まってるじゃないですか。…自分の健康への監督不行き届きが招いた、今日起きたこと全てです」
「名前先生、最近忙しそうでしたしね。きっと疲れが出たのですよ。健康診断は無事に終わりましたから、安心してください」
カナエ先生は枕元の椅子に腰かけると、床頭台の上に置かれていたペットボトルの水を私に差し出してくれた。まだ冷たくて、なんだか気持ちがいい。よくよく見れば、床頭台の上にはこれ以外にも数本、未開封のペットボトルが置かれている。
「ありがとうございます。結局私の代わりに、カナエ先生が入って下さったんですよね」
「たまたま授業がなかったですし、困った時はお互い様ですから。それよりも、煉獄先生にお礼を言ってあげてください。そのお水も彼が買ってきてくれたものですし、男子生徒の健康診断の方は、煉獄先生が助っ人に入ってくださいましたから」
ペットボトルを口に運びかけていた手を思わず止めて、カナエ先生を見る。彼女は相変わらず花のような笑顔を満面に浮かべていた。
「…煉獄先生が」
「職員室で、放課後は社会科準備室で明日の授業の用意をすると言ってましたよ。体調が戻ったら、顔を出してみたらどうですか。煉獄先生も心配していたみたいですから」
「はい…分かりました」
「再来週からは修学旅行ですし、名前先生、あまり無理をしないで体調整えて下さいね」
顧問である華道部に顔を出すから、とカナエ先生は保健室を後にした。天使のような優しい笑顔は、私なんかよりも余程人々に栄養を与えてくれそうだ。もう一度盛大な溜息をついて、私は今度こそ手中で握りしめていたペットボトルの水を口に含んだ。
煉獄先生の元を訪れる頃は、すっかり学園の喧騒は無くなっていた。暗い校舎の廊下を、社会科準備室から漏れる蛍光灯の明かりが皓皓と照らしていた。どうやら、煉獄先生はまだ在室のようだ。
健康診断の後片付けだとか、報告書だとか、仕事にかこつけて煉獄先生の元を訪れるのがこんな時間になってしまったのは、やはり彼と顔を合わせたくなかったからなのかもしれない。元々苦手な人なのに、日中はあんなに情けない姿を見せてしまったわけで、正直、どんな顔をして謝罪に行って良いのか分からなかった。かといって、謝辞を述べずに退勤するのも人としてどうかと思う。
社会科準備室の前で数秒立ち止まり、息を吸い込んでからドアを二度ノックする。「はい」という言葉を最後まで聞き終える前に、私はカラカラと扉を開けた。
「…名字先生?まだ残っていたのか」
「は、はい。今日の仕事の後片付けとか色々していて…もう帰ります」
「体調は大丈夫か?」
私の登場が予想外だったのか、歴史の本がずらりと並んだ本棚に伸ばしていた手を降ろして、やや面食らった様子で煉獄先生はこちらを見た。後ろ手でドアを閉め、室内に足を踏み入れた私に心配そうな視線が注がれたので、深々と頭を下げる。
「今日は、本当にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。その…カナエ先生…あ、胡蝶先生から、煉獄先生が健康診断の方も手伝ってくださったと聞いて」
「名字先生、謝罪は不要だ。顔を上げてくれ。困った時はお互い様だろう」
煉獄先生の居心地の悪そうな声が聞こえたので、言われた通りに顔を上げると大きな瞳と視線が絡む。じっと顔を凝視されれば、恋愛感情などなくとも照れ臭い気持ちになってしまい、耐えられずに視線を逸らした。
すると、机に堆く積まれた資料本の横に、一冊だけ毛色の違う本が広げられているのが目に入る。ある神社に関する資料のようだった。確か、この神社は…。
「ああ、これか。実は生徒に頼まれてな。再来週からの修学旅行で、この神社に行きたいという班が俺のクラスで数組あってな」
私の視線に気づいた煉獄先生が、机の上に広げていたその本を私に手渡してくれる。読みたいわけではなかったけれど、手渡されてしまえば突き返すことも出来ない。
「ここ、全国的にも有名な神社ですもんね。…その、縁結びで」
ぱらぱらと本を捲り、軽く目を通してからぽつりと呟く。あまりいい思い出がある神社ではない。嫌なことを思い出してしまった。
「名字先生も知っていたか…」
「ええ、まぁ…」
ぱたんと本を閉じ、独り言のように言葉を紡いだ煉獄先生へそれをお返しする。返答を濁した私に、煉獄先生はそれ以上何も言わなかった。その代わり、まるでこちらの胸の内を探るような視線が向けられた。彼の大きな目は、まるで炎が燃え盛っているような雄々しさがあり、見られるだけで圧倒されてしまう。
「あの…それじゃ私はこれで」
「…本当に体調は大丈夫なのか?いつもよりずっと顔色が悪いようだが」
「え…」
重圧から逃れたい一心で怖ず怖ずと言えば、煉獄先生の言葉に今度は私が面食らう。
煉獄先生の言っていることは確かに正しい。正直、体調が絶好調とは言い難い。だが、図星をつかれたことに加えて、「いつもより」だなんて、まるで私のいつもを知っているみたいな言い方に困惑してしまう。
「名字先生は電車か?」
「え?…あ、はい。私は電車通勤ですけど」
「俺も、もう終わる。少し待っていてくれないか」
「れ、煉獄先生?あの、どういう」
「先生を一人で返すのは心配だ」
煉獄先生は私を送って行くと言っているのだ。どういうつもりなのだろう。恋人でもなければ元彼でもない。ただの同僚なのに。親切心で言ってくれているだけかもしれない。しかし、もし下心で言っているのなら?完璧な男に碌な奴はいない。 私の人生の教訓が、頭の中で警鐘を鳴らしている。
やっぱり私はこの人が苦手だ。何を考えているかよく分からない。
「全然大丈夫ですから!自宅が遠いわけでもないですし。今日は煉獄先生にご迷惑をかけっ放しで、これ以上迷惑をかけるわけには…っ」
申し出を全力で拒否してぶんぶんと頭を左右に振れば、再び貧血様の症状が私を襲う。軽い立ち眩みを感じ、何か支えに掴まりたくなるも、生憎近くにそんなものはない。膝から崩れ落ちそうになった時、本日二回目となる、硬い感触を頬に感じた。確かめるまでもなく私は煉獄先生に抱きとめられていた。
「大丈夫ではないな。言っているそばからこれでは、尚更名字先生を一人で返すわけにはいかないだろう」
「す…すみません」
私は煉獄先生の提案に従うほかないだろう。本当に、今日は散々な一日だ。
「ごめんなさい。もう、大丈夫です。一旦保健室に戻って、荷物取ってきますね」
立ち眩みは一瞬のことだった。再び謝罪の言葉を口にして、煉獄先生の真っ白なシャツから逃げるように身体を離して踵を返す。
すると不意に、柑橘と若葉の混じったような青い香りが鼻先を擽った。昼間も、まったく同じ香りを嗅いだ記憶がある。煉獄先生の匂いなのかもしれない。とても懐かしいような、まるで昔から知っているような、そんな香りだった。
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