あっという間に冬がやってきて、新しい年を迎えた。杏寿郎さんと私は、今年の春、桜の咲く時期に祝言を挙げることとなった。
「名前、あまり体調が良くないか?随分咳が多いようだが」
三箇日を過ぎたというのに初詣客で賑わう、近所にある神社の参道を歩きながら、杏寿郎さんは心配そうに言って労わるような視線を送ってくれる。私は慌てて首を振って笑みを返すも、体調が芳しくないのは認めざるを得ない。
多忙な杏寿郎さんと初詣に出かけられることが嬉しくて、年末から日に日に酷くなる咳嗽に都合よく気づかない振りをしていたが、先ほどから私は彼の隣でごほごほと咳をしては、白い息をふわりと空へ立ち昇らせていた。
「全然大丈夫です。今日は一段と寒い日だからだと思います」
言葉と一緒に漏れた息が、外気に触れて白く染まる。暦の上では小寒であり、最近は殊更寒さが厳しくなってきた。
「んー、君はいつもそうやって無理をするからな。それに、寒いというわりには…手は熱いような気がするが」
杏寿郎さんは立ち止まって私を見下ろすと、繋いでいた手を自分の口元に引き寄せて、温度を確かめるように軽く口付けた。
「き、杏寿郎さん!人が…こんなにいるのに」
人前で躊躇なく施された手甲への口付けに、恥ずかしくて慌てて手を引こうとするも、彼の力に敵う筈もない。すると、目の前の愛しい人は、凛々しい眉を寄せて眉間に皺を刻む。
「やはり熱いように思うが…名前、いつもより体温も上がっているのではないか。参拝も済ませたことだし、もう自宅に帰って——」
「杏寿郎さんと一緒だから熱いんです。そ、それより杏寿郎さん、お御籤引きたいです!」
「名前…」
「だって折角会えたのに…私、もっと杏寿郎さんと一緒にいたいです」
縋るような視線を送って懇願すると、彼は観念したように小さな息を吐き、私の手を優しく引いた。
「杏寿郎さんっ…あのっ」
「俺だって君と一緒に居られたら嬉しいし、許されるのならこのまま連れ帰ってしまいたい。…だが、それ以上に名前が身体を壊さないか心配なのだ。…俺の気持ちも、少しは分かってくれ」
「はい…ごめんなさい」
悄然とした口調で言うと、杏寿郎さんが息だけで笑う気配がして、次の瞬間にはお御籤筒が眼前に差し出されていた。気づけば私達は、お御籤を引いたりお守りを購入する人々で賑わう授与所の前に居た。
「運試しをしたら、今日は帰ろう」
「あ、ありがとうございます!」
「ふっ…可愛いな。むきになったり、悲しんだり、笑ったり」
杏寿郎さんが愛しそうに目を細めて、私の頭を撫でた。
「…また子供扱いするんですか」
「名前を子供扱いしたことなど一度もないのだが……子供相手に、こんなに欲情すると思うか」
杏寿郎さんが、一瞬だけ甘美な雰囲気を纏って囁くように言うものだから、恥ずかしさで心臓が暴れ出す。もしこの場所が人前でなければ、きっと私達は抱き締め合って、唇を重ね合っていたはずだ。
「あのっ、えっと、あのっ…」
頬を染めて狼狽する私とは対照的に、とっくにいつもの様子に戻った杏寿郎さんに促され、私は六角形の筒を軽く上下に振った。
自宅も兼ねている診療所までもう間もなく、というところで私は何回目か分からない溜息を吐き、幸せを逃がしてはならないと慌てて口を結ぶ。
『縁談 いろいろのさわりあり』
先ほど引いたお御籤に記されていたたったの十文字が、私の溜息の理由だった。身も世も無いといった様子で肩を落とす私を、杏寿郎さんは先程から苦笑混じりに慰めてくれている。困っている、というよりは、お御籤のお告げ一つで大袈裟に落胆する私を、少し面白がっているようにも見える。
「名前、まだ機嫌は直らないか」
「だって…」
「…俺の方には…こう書かれていたのだが」
「え?」
診療所を目前に、杏寿郎さんが足を止めた。赤みを帯びた冬の夕日が、間もなく西の空に沈もうとしているのが、彼の肩越しに見える。
「思うに任す」
「思うに…任す?」
杏寿郎さんの口から紡がれた言葉を復唱すると、大きな掌が私の髪を撫でて頬に添えられる。
「つまり、自分の意思で行動しろということだ」
「杏寿郎さんの…意思で」
「俺は、名前を手放すつもりなどないと、以前も話しただろう。万が一、何か障害が出てくることがあったとしても、俺は、俺の信じる道を行くだけだ」
「っ…杏寿郎さん…」
力強い言葉が鼓膜を打つ。すっかり沈み込んでいた気持ちが無くなって、幸せが指の先まで行き渡る。そして、寵愛するように私を見つめる杏寿郎さんの唇に吸い寄せられるように口付けた。目の前の大きな瞳が驚きの色で揺れるも、すぐに柔らかそうな長い睫毛が伏せられて、杏寿郎さんは私の拙い口付けを受け入れてくれた。夕日が世界から消えて、暗くなった街に家々で灯され始めた光が洩れる。
自ら口を開け、舌の先で躊躇いがちに杏寿郎さんの唇を舐ると、肉厚な舌が容易に私の口内に侵入した。後頭部に手を回され、髪に指を差し込むように優しく掴んで口付けを深められれば、途端に色めいた気分になってくる。もし、今、蕎麦屋に行けば、私は男女の営みを最後まで出来る自信があった。
刹那、喉元がむず痒くなって口内でくぐもった咳が出る。
「名前、大丈夫か」
「っゴホッ…だ、大丈夫です…っ…」
唇を離した杏寿郎さんが、すかさず私の背中をさすってくれる。大丈夫、と言葉を形作る唇とは裏腹に、私の湿った咳嗽は止まらない。肋骨が折れそうな勢いで飛び出す咳に、立っているのが辛くなり、膝から崩れ落ちるように地面にしゃがみ込む。
「名前っ!」
「だ…じょうぶ…っ…ごめんなさっ…」
ゴホッ、と一際大きい咳が出て、口を押えていた掌にぬるりとした冷たいものが触れた。喀痰?それにしては粘度が低いのではないか、と恐る恐る濡れた掌を確認する。
どくん、と全身が心臓になったみたいな衝撃が、身体の奥底から膨れ上がってくる。激しい心臓の音に聴覚が支配され、どくどくどくという脈動しか聞こえなくなった。
家から漏れ出る光が、うっすらと掌の上のそれを浮かび上がらせる。
私の視界を、赤が覆った。神に告げられた十文字が、はっきりと頭を過った。
「少しだけちくっとするよ」
言ってから、布団に寝そべった私の腕に先生が針を刺す。これが何なのか。先生の助手をしているのだから、当然知らないわけがない。数日後、反応が出たら私の陽性はほぼ確定する。否、喀血があった時点で、既に病は確定している。これは、一縷の望みを託した、最後の検査だった。
杏寿郎さんと出かけてから、もう数日が経過していた。あの日、自分の掌にべっとりと付着した血液を見てからのことは、よく覚えていなかった。直前までの杏寿郎さんとの熱い口付けは、記憶としてしっかりと脳に刻まれているというのに。
「名前ちゃん、今日も会わなくていいのかい?杏寿郎くんはきっと、また心配して様子を見に来るよ」
先生が聴診器で私の肺の呼吸音を聞き終えた後、ゆっくりと口を開いた。私は目を伏せゆっくりと首を左右に振る。あの日から杏寿郎さんには会っていなかった。正確に言えば、忙しい任務の合間を縫って訪ねてくれる杏寿郎さんに、私自身が会うことを拒否しているのだが。
「…ねぇ、先生」
「なんだい?」
「先生…。先生は、私は『恋』っていう病に罹ってるって、以前診断して下さいましたよね」
自室に敷いた布団の上で身体を起こし、窓の外に広がる世界をぼんやりと眺めながら言う。視界に映る憎らしいほど澄み切った青い空と、葉が落ちて寒そうな木々の枝は、なんだかちぐはぐな気がした。
「…ああ、そうだね。名前ちゃんが…杏寿郎くんへの気持ちを自覚した時だったね」
「そうなんです。あの日、この気持ちが人を好きになることなんだ、恋をすることなんだと知って、嬉しくなりました」
先生は何も言わず話に耳を傾けてくれているので、私は遠慮なく言葉を続けた。
「私、『恋』の意味を調べたんです。杏寿郎さんを好きになって、凄く幸せで、なんとなく調べずにはいられなかったんです。…そしたらね、先生…」
「ん?」
「恋って、私が想像していたよりも、ずっと悲しい言葉だったんです。一緒に生活出来ない人や亡くなった人を思う言葉だったんです。…今、この病気に罹って、私はその意味を…ちゃんと理解した気がします」
「名前ちゃん、まだ決まったわけじゃ——」
「分かりますっ!…分かりますよ、先生。…ずっと、先生の傍でお手伝いさせてもらっていたんですから」
大粒の涙が両の瞼から零れる。熱くて目が焼け焦げてしまいそうだった。見る見るうちに掛布団に大きな染みができていった。
「名前ちゃん…すまない…私が」
先生の悲痛な声に、ぶんぶんと頭を振る。
「先生は何も悪くないです…嫌だ、先生が謝らないでください。私は、全部自分の意志で決めたんです。だから…先生が謝るのはおかしいです」
「名前ちゃん…」
「でも…胸が苦しくて、どうしたらいいか分からないんです。…もう私、杏寿郎さんに会えないんだって思ったら、一緒に居られないんだって思ったら…この気持ちをどう処理したらいいのか分からなくて」
言葉が一気に溢れて、口から飛び出してくる。布団の中で膝を立て、そこに涙で濡れた顔を埋める。
「杏寿郎くんに会えるか会えないかは、名前ちゃんが決めることなのかい。それは杏寿郎くんが——」
「これ以上っ…杏寿郎さんにも、煉獄家の皆さんにもご迷惑はかけられません。先生、ごめんなさい。こんな風に泣いても、何も解決しないことは分かってるのに。でもっ、涙が止まらなくて」
「泣いていいんだよ。…名前ちゃん、辛い時は、泣いていいんだ」
——泣きたい時は泣いていいのだ。迷惑とは思わないし、君がこうして気持ちを一人で抱え込んでいる方が、俺は辛い
宝石よりもキラキラと美しく輝いた海を見ながら、杏寿郎さんに言われた台詞を思い出す。まだ半年ほどしか経っていないというのに、あの幸福な日が、もうずっと昔のことに思えた。
きっと杏寿郎さんは、どんな私でも受け入れようとしてくれるだろう。でもそれは、私自身が許せなかった。杏寿郎さんを、私の悲惨な運命の道ずれに出来るはずなどないのだ。
二日後、私の腕はぷくりと腫れて、反応を示していた。私は、結核を患っていた。
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