消毒の匂いを鼻の奥で感じて、私はふと目を覚ます。ゆっくり目を開けると、見慣れない天井と、私を囲むようにひかれているクリーム色のカーテンが見えた。
あれ、ここはどこだっけ。学園の保健室?
脳細胞が起きていないのか、頭がぼんやりして焦点が定まらない私の耳に、可愛らしいまろやかな声が流れ込んでくる。
「名前先生。良かった、やっとお気づきになりましたか」
徐に、天井から声のする方へ視線を向ければ、カナエ先生がほっとしたような表情を浮かべて私を見ていた。
「カナエ先生…あれ、私…なんで」
「覚えてないですか?名前先生、熱中症で運ばれたんですよ」
「熱中症…」
「ええ。道路に飛び出した名前先生を煉獄先生が助けてくれた、その後で」
カナエ先生の口から出た「煉獄先生」という単語が、ぼんやりとした私の意識を引き戻す。
「…杏寿郎…さん」
「え?」
無意識に、彼の名前が口を衝いて出る。カナエ先生が不思議そうに小首を傾げて私に聞き返した。
嵐のように心臓が激しく動き始めた。呼吸が微かに乱れ、全身にじんわりと汗が滲んでいく。私は今まで、とても大切なことを忘れていたのではないか。私は、私は——。
「カナエ先生!あの、きょ、じゃなくて、煉獄先生は?」
左手の血管に挿入されている点滴に構うことなく、寝かされていたベッドから飛び起きて身体にかかっていた布団を押しのける。ベッドの下にしまわれていた履物を引っ張りだし、それに足を突っ込みながらカナエ先生に問う。
「名前先生?どうしたんですか。目覚めたら先生と看護師さんを呼ぶように言われていて」
「はい、直ぐ戻ってきます。でもその前にどうしても煉獄先生に会いたくて」
呆気に取られた様子のカナエ先生に、一生のお願いの勢いで懇願する。すると少しの間があって、カナエ先生は、今からとても大切なことを告げる、と言わんばかりにゆっくりと口を開いた。
「…煉獄先生は、隣の病室におられます。名前先生を助けた時に、頭を打たれて——」
「っ…」
カナエ先生の言葉を最後まで聞くことなく、私はベッドから立ち上がり点滴がぶら下がる架台を引っ掴んで病室の外へ飛び出す。頭を打った?どうしよう。私のせいだ。私が道路に飛び出したりなんかしたから。もし、もしもそれが致命傷となって彼が死んでしまったら。
不吉な打ち方をする心臓がその鼓動をさらに早める。呼吸が浅くなって点滴架台を掴む手が痺れてくる。
「杏寿郎さん!」
これでも一端の医療者だ。こんな風に他人様の病室に勝手に入ることなど言語道断なのだが、私の身体は理性よりも感情に忠実だった。
叫びにも近い声で名前を呼びながら勢いよく病室のドアを開けると、驚愕の色を浮かべた六つの目が私を見た。
ベッドの上で身を起こす本人と、そんな彼を心配そうに囲む一人の男性と男の子。私は、この人達を知っている。もうずっとずっと前から。
目の前の景色がぐにゃりと歪んで、頬を温かいものが伝う。
「…父上、千寿郎。少し席を外してもらえるだろうか。彼女と…話がある」
大粒の雨のような涙を流す私の耳に、穏やかな声が流れ込む。
「勿論です、兄上!では、先生を呼んでまいります。ほら、父上も仕事を放ってきたのでしょう。兄上に特に異常はなかったわけですし、早く戻った方がいいのではないですか」
「むぅ…」
「ほら、父上。行きましょう」
軽く会釈をした二人は、そのまま私の横を通りすぎる。その口角に小さな笑みが浮かんでいた気がしたのは、私の見間違いなのだろうか。
「っ…あの、私」
病室で二人きりになった途端、急に頭が冷静になってくる。勢いあまってこの病室に来てしまった。「杏寿郎さん」と叫んでしまった。けれども、もし相手に同じ記憶がなかったら。そもそもこの記憶は、私が見た都合の良い夢なのではないのか。だって私はここに運ばれる前、仲睦まじく歩くカナエ先生と煉獄先生の姿を見て——
「…名前…」
懐かしい声が、私の名を呼んだ。名字先生ではない。目の前の煉獄先生は、目の前にいる杏寿郎さんは、名前、と私を呼んだのだ。それが意味する答えを、私が分からないはずがない。
「杏寿郎さん」と、もう一度愛しいその名前を紡ぐよりも一瞬早く、ベッドの上の杏寿郎さんが、私の腕を引いた。懐かしい匂いに包まれたかと思えば、私は彼の胸の中に居た。お揃いの検査着越しに、逞しい身体の熱と力強い鼓動を感じる。
「名前…俺は君ともう一度、出会うことが出来たのだろうか」
「っ…杏寿郎さん。本当に、本当に」
「名前……ずっと君を待っていた」
「ぅうっ…っ、ごめんなさい、私、何も覚えてなくて…今もよく分からないのにっ…信じられないのに」
涙に嗚咽が混じった声で、必死に言葉を紡ぐ。本当に、自分でも未だに信じられない。夢と現実がごちゃ混ぜになっているだけなのかもしれない。自分が前世から、杏寿郎さんと結ばれていたなんて。
けれども、例え記憶が無くても、脳が忘れていても、杏寿郎さんを愛する想いが私の魂に刻みこまれている。この人が運命の人なんだと、心が教えてくれている。
「名前…」
柔らかく穏やかな声が、鼓膜を震わせる。胸の中から顔を上げれば、静かに視線が絡み合う。優しさに溢れる大きな瞳が嬉しそうに細められた。
「杏寿郎さん…会いたかった。…ずっと、ずっと、会いたかった」
私達の唇は、まるでそうなることが決まっていたのかと思うほど、自然に引かれ合い、重なりあった。懐かしい感触。甘い熱が、唇から全身へ幸福となって伝わっていく。
「名前」
「杏寿郎さん」
ここが病室であることなどとうに忘れた私達は、互いの名前を囁き合いながら、夢中で唇を合わせ続ける。一緒に居られなかった長い長い時間を埋めるように。もう二度と、愛しい人と、離れてしまうことがないように。
杏寿郎さんが大きな掌を私の後頭部に回す。私は答えるように、彼の首に手を回した。貪るようなキスがさらに深まって、唇を合わせる音と、切なく甘い息遣いが、静かな病室の空気を控え目に震わせた。
甘やかな陶酔に全身が痺れ、身体の力が抜けていく。脳が溶けてしまったみたいに、私を熱い瞳で見つめてくれる目の前の杏寿郎さんのことしか考えられない。
幸せだな。そう思った刹那、病室のドアを開あける音が鼓膜を打った。ここは病院の病室なのだという現実に、唐突に引き戻される。既に私達の唇は離れていたが、くすくすと笑って病室に入ってきた医師を見れば、熱烈なキスを目撃されていたのは火を見るよりも明らかだ。
頭が真っ白になり、全身が粟立った。キスを見られたからではない。入ってきた医師が、「先生」だったからだ。
——はは。いつもいつも、いい所で邪魔をしてごめんよ
先生の声が、聞こえた気がした。
「名字さんも煉獄さんも、もう問題なさそうだね」
医師は私達の元まで歩み寄ると、苦笑して揶揄うように言った。慌てて杏寿郎さんの上から退いた私は、漸くやってきた羞恥に頬を熱くする。ちらりと杏寿郎さんを見れば、彼もまた、決まりが悪そうに耳を染めて頬をかいている。
「名字さんは中等度の熱中症だ。大事には至らなかったから、この点滴を入れきったら治療は終了だけど、若い人でも熱中症で死ぬことはあるからね。くれぐれも注意して」
「はい…すみません。ありがとうございます」
医師は点滴の残量を確認しながら諭すように私に言う。仮にも学園の保健室の先生が、本当に情けない、と様々な種類の恥ずかしさに見舞われて縮こまる。
「それから、煉獄さん。CT撮影の結果、脳に異常はなさそうだった。多分問題ないとは思うけど、ひと月後に症状が出る場合もあるから、それくらいは様子を見るようにして欲しい。今日はもう、帰ってくれて構わないから」
「はい、ありがとうございます」
ベッドの上の杏寿郎さんは、襟を正して医師に頭を下げた。そんな私達の様子を眺めていた医師は、意味深な笑みを口元に浮かべ「お大事に」と呟いてから踵を返し、病室を後にした。
『杏寿郎くん、名前ちゃん、やっぱり君達は運命の赤い糸で結ばれていただろう』
また、「先生」の優しい声が、聞こえた気がした。
top / back