熱中症で倒れてから、一週間が経過した。梅雨が終わりいよいよ本格的な夏を迎えた近頃は、じっとしていても不快な汗が滲んでくる。首筋に滲む汗を拭いながら、「暑いですね」と同意を得るように呟いて、保健室の窓を全開にする。
保健室から一望出来る校庭では、部活動を終えた生徒達が用具を片している姿が見える。
「本当に暑くなりましたね」
私が勧めたパイプ椅子に腰かけていたカナエ先生は、私に共感を示すと、華奢な腕に巻かれた時計で時刻を確認してから徐に立ち上がる。
「すみません、カナエ先生。わざわざ心配して来てもらっちゃって」
「気にされないでください。じゃあ、私は最後部活に顔を出していきますので」
絹のように滑らかな長い髪を揺らすカナエ先生は、小さく首を振る。結局カナエ先生には、病院に運ばれたあの日以来、まともにお礼を述べることも出来ていなかった。
あの日、杏寿郎さんと再会したあの日、彼はカナエ先生との関係を私にちゃんと説明してくれた。そしてそれを聞いた私は、短絡的な思考しか出来ない自分の頭を矯正してやりたくなった。
「華道部ですもんね…びっくりしました。カナエ先生が、まさか煉獄先生のお母様に華道を習っていたなんて」
「煉獄先生のお母様には昔からお世話になっているんですよ。あの日、公園の近くで名前先生とお会いした日も、丁度教室の帰りだったんです。たまたま学校にお出かけになる煉獄先生と一緒になってしまって」
「そう…みたいですね」
カナエ先生がくすくすと笑って私を見る。杏寿郎さんに聞いて理解はしていたものの、念には念を入れてと言わんばかりに、私の誤解を一つずつ解決してくれる彼女の気遣いに、申し訳なさと恥ずかしさが沸き上がってくる。
「心配しなくとも、煉獄先生は最初から名前先生しか、見えていないですよ」
「え?」
「煉獄先生のことは昔から存知上げているので、分かるんです。名前先生が赴任してきてからの彼は、少し違う雰囲気を纏っていました」
「違う…雰囲気」
そこで一旦言葉を切ると、カナエ先生は窓の外へと視線を移し、薄いオレンジ色に染まり始めた空を見つめながら、再び口を開く。
「そうですね、なんといえばいいか。一言で言うと、なんだか幸せそうでした」
「…幸せそう…」
「名前先生、煉獄先生とお付き合いを始めたのですよね」
「あの、それは…多分…」
「多分?」
答えに窮した私に、カナエ先生が小首を傾げる。長い髪が、流れるように肩から滑り落ちた。
「その…お互いの気持ちは確認できているはずなんですけど…付き合うとか付き合わないとか、恋人とか…そういう話にはまだなっていなくて」
事実だった。病室で夢中でキスを交わした日から、私は杏寿郎さんとまだちゃんと話が出来ていない。
「煉獄先生は、そういう所はちゃんとしたいのかもしれないですね。彼、真っ直ぐで正直な性格ですから」
「え?」
笑みを深めたカナエ先生に咄嗟に聞き返せば、控えめに保健室の扉がノックされる。
「ふふ。じゃあ私は行きますね」
踵を返したカナエ先生が保健室の扉をカラカラと空けると、杏寿郎さんの姿が視界に飛び込んでくる。そう。実はこの後、杏寿郎さんに連れていきたい所があると言われていたのだ。
「すまない、まだ仕事中だったか」
「いいえ。女子会中でした」
「じょし…かい」
「じゃあ、煉獄先生、名前先生、また明日」
上品で甘い香りを残し、カナエ先生は満面に喜色を浮かべて去っていく。いつも笑顔が素敵な彼女であるが、今日は殊更楽しそうだ。
「もう終わりそうか?」
後ろ手に保健室の扉を閉めた杏寿郎さんが、壁に掛けられた時計をちらりと確認しながら言う。ぴたりと閉まったドアが、この保健室に彼と二人であることを再認識させ、心臓の音が膨れ上がる。杏寿郎さんとこうして会うのが、先日の病院での濃厚なキス以来からかもしれないが。
「は、はい!もう日報も書いたので、あとはパソコンの電源を落とせばすぐに。煉獄先生はもうすぐ帰れるんですか?」
恥ずかしさを誤魔化した声は不自然に裏返ってしまった。これでは動揺しているのがばればれではないか。恥ずかしい。
紅葉を散らした顔を見られたくなくて、慌てて顔を背けデスクの上に散乱する書類たちを搔き集めようとすれば、手首を掴まれる。それが誰の手かなんて、そんなの確認する必要はない。
「名前」
惹きつけるような低い声が耳元で揺らぐ。掴まれた手を引かれて杏寿郎さんに距離を詰められてしまった私は、呆気なく自分の真っ赤な顔を晒すはめになる。心臓が破裂してしまいそうなほどどくどくと脈動している。
「…名で…呼んではくれないのか」
「っ…ぅ」
私の手の甲に唇を押し付けたあとで、杏寿郎さんが双眸に寂しそうな色を湛えて私を見つめる。
「だ、だって…学校だったから」
「今は二人きりだが」
間髪入れずに言われてしまう。手にかかる熱い息に、顔だけでなく身体全体が笑ってしまうくらいに熱くなる。これは、梅雨が明けた夏の気候のせいなんかじゃない。
「き…杏寿郎さん」
「…名前」
杏寿郎さんの毛先が汗ばんだ項を掠める。熱い息が、今度は唇にかかる。触れてしまう。ぎゅっと目を瞑って、私は流れに身を任す。しかし、想像していた熱が唇に落ちてくることはなく、恐る恐る目を開けば、困ったような息を吐く杏寿郎さんが目に入る。
「あ…あの…」
「ここではだめだな。…これだけで止められる自信がない。それは教師としては…いただけないからな」
「っ…」
この人は、どれだけ私の心臓を弄べば気がすむのだろうか。杏寿郎さんの素直な気持ちを聞かされて口を聞けないでいると、駐車場で待つ、という言葉を残して、彼は保健室を去っていった。いったいこれから彼は、私を何処へ連れて行くというのだろう。私の心臓は、はたしてもってくれるのだろうか。
私達が目的地に到着する頃には、辺りは藍色の闇に包まれていた。いくら日が長くなったと言っても、十九時を過ぎれば日が沈むのはあっという間だ。
煉獄先生の運転する車の助手席を降りると、潮の香りが鼻を突き、昼間の容赦ない日差しの名残を乗せた風が薄着の身体に纏わりつくように吹きつけてきた。
車の窓を鏡がわりにし、杏寿郎さんの目を盗んで、変な所はないかと身なりの最終チェックをする。
「名前、こっちだ」
助手席側に回った杏寿郎さんが見計らったようなタイミングで声をかけてくれ、そのまま私の手を引き歩き出す。
杏寿郎さんが連れてきてくれたのは、学園から車で一時間ほど走ったところにある海岸だった。この季節は特に賑わう浜辺も、この時間では殆ど人の姿もない。
駐車場から海岸に続く階段を降りると、夜だというのにはっきりとその色が分かる白い砂浜が広がる。その先には、夜の闇に包まれた漆黒の海。コントラストに思わず嘆息すると、一層塩辛くなった空気に包まれる。小さな波が水際を弄び、白い砂を濡らしていた。
初めてくる場所だった。しかし私は、この場所を知っているような気がした。ここはひょっとすると、私の前世の記憶に出てきた海なのかもしれない。杏寿郎さんが何度も私を励ましてくれた、あの海を思い出す。
果てしなく広がる青。鏡のように凪いだ海面。潮の強い香り。
見たこともないはずの景色が、まるで目の前に広がっているかのように、はっきりと瞼の裏側で再生される。
「名前」
大好きな声が潮風に混じり鼓膜を掠め、杏寿郎さんが私の手を引き自分の胸に引き寄せた。懐かしい匂いが、潮の香りを塗り替える。
「名前は聞いたな。…俺が、自分の運命の女性を知っているのかと」
徐に、杏寿郎さんが言葉を紡ぎ始める。浜辺に寄せ返す小さな波音が、BGMのように心地よい。
「はい…。修学旅行帰りのお疲れ様会で…私が泥酔しちゃった時ですよね」
「俺の運命の女性は、君と初めて出会った時から…名前だけだ」
——俺の運命の女性は、もうずっと昔から、たった一人だけだ
タクシーの中で聞いたあの言葉は、空耳などではなかった。頬を押し当てていた胸から顔を上げれば、杏寿郎さんが目を細めて私を見つめていた。潮風に、月明りで光る金糸が柔らかく靡く。
「杏寿郎さん…本当に、本当に…っ」
「…初めて、学園に赴任してきた名前を見た時…やっと見つけたと思った」
——俺も、名字先生を見た時は驚いた
今なら分かる。杏寿郎さんの言葉の本当の意味が。そして、今の私を包み込む、懐かしい温もりも、懐かしい香りも。
「俺はもうずっと、名前に恋をしているのだろうな」
杏寿郎さんがしみじみと呟く。
恋。それは、一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。
視界がみるみるうちに水浸しになって、熱い涙が噴き零れる。そのうちに嗚咽を漏らし、本格的に泣き始めた私に苦笑した杏寿郎さんは、節くれだった指で私の涙を大切そうに掬ってくれる。いつだって私の涙を拭ってくれたのは、この人だったんだ。
「っ…ごめんなさい。杏寿郎さんはずっと思っててくれたのに、私、全然覚えてなくて」
涙でぐちゃぐちゃになった私の顔を両手で包んだ杏寿郎さんは、額に、目尻に、頬に、そして唇に、熱を落としていく。
「君もまた、俺を見つけてくれると信じていた」
「ぅっ…っ」
「名前、愛してる。もうずっと、俺の心は君だけのものだ。…今度こそ俺と、一緒になってくれるだろうか」
夢心地のような極上に優しい声が、ゆっくりと耳に滲む。でもこれは、夢なんかじゃない。杏寿郎さんの体温も、匂いも、愛の言葉も、全部全部本物だ。今ここにある。どこにもいってしまうことはない。なくなってしまうことはない。
「私の心もずっと、ずっとずっと杏寿郎さんだけのものです。杏寿郎さん…愛してます」
感涙に咽ぶ私の目の前に、差し出された小指。
私の運命の赤い糸は、ここに繋がっていたんだ。
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