「名字先生!おめでとうございます」
放課後、保健室のドアがが勢いよく開く音がしたとほぼ同時に、祝福の言葉が耳に流れ込んでくる。何事?と思い、慌ててPCから顔を上げて声の方に視線を移せば、神崎さんを先頭に、保健委員の女子生徒達が満面に喜色を湛えて私の方に駆け寄ってくる。
「な、何?みんな、どうしたの?」
おめでとう、と言われたのだから、大方予想はついている。でも、どうして。この話は学園でも一部の先生しか知らないはずなのに。
「先生とぼけちゃって!煉獄先生と結婚するんですよね」
「いつから付き合ってたんですか?」
「やっぱり縁結びの神社にお参りに行った後なんですか?だとしたら、ご利益凄いですよね」
女子生徒達は目を輝かせて口々に言う。やっぱりその件か、と小さく溜息を吐いた私は、椅子を回転させて彼女達に向き直る。
「なんで皆が知ってるの。…それ、一部の先生しか知らない情報なんだけど」
「え、そうなんですか?」
「美術の授業の時に、宇髄先生が男子たちと話してるの聞いちゃいました。宇髄先生、全然隠してる様子はなかったよね?」
神崎さんが、他の女子生徒達に同意を求めるように首を傾げる。
宇髄先生、というこちらも大方予想通りの人物の登場に、私はがっくり肩を落とす。やはりもう少し彼には伏せておくべきだったかもしれない。
杏寿郎さんと思いを通じ合わせてからひと月もしないうちに、私達は婚約した。来年の春、桜が咲く時期に、式を挙げることになっている。
学園の中での教師達の恋愛や結婚というものは、多感な年頃の生徒達に好ましくない影響を及ぼしてしまう可能性もあるため、出来れば正式に夫婦となるまでは隠しておきたい、というのが本音だった。それに相手は、生徒からも大人気の「煉獄先生」なのだから。私も何かと片身が狭い。
「もー、宇髄先生。本当困る」
今度は、肺の中の空気を全て吐き出すように盛大な溜息を吐いて頭を抱える。一方そんな私の様子を気にする風もなく、生徒達はパイプ椅子を引っ張り出して私を囲むように腰掛けた。まるでこれから取り調べが始まるみたいだ。
「で、名字先生!いつから付き合ってるんですか?」
「そ…そんなこと言えません」
「いいじゃないですか!私達、宇髄先生と違って口は堅いから安心してください」
自分も含め女という生き物は、どうしてこう恋だの愛だのといった類の話が好きなのだろうか。前のめりになって興味深そうにこちらを見る女子生徒に、私は諦念の息を吐く。なんだかこの数分で、溜息を吐いてばかりな気がする。
「…お付き合いを始めたのは…まぁ、最近かな」
「やっぱりそうなんですね。私達と修学旅行で縁結びの神社に行ってからですか?」
「う、うーん。…まぁ、そうなのかなぁ」
まさか、前世から杏寿郎さんと結ばれていました、と言うことも出来ない私は、顎に手を置き小首を傾げながら目を泳がす。しかし、返答に満足した様子の生徒は、キャーと黄色い声をあげた。
「やっぱりあの神社のご利益、本物だったんだ!」
「凄い。私も…上手くいくかな」
「あれ、アオイの好きな人って確か」
「だ、だめ!それはここで言わないで」
目の前が一層賑々しくなる。いつもクールな印象のある神崎さんは、珍しく頬を染めて恥ずかしそうにしていた。アラサーの私より、よっぽど目の前の女子高生の方が、恋愛に興味がある年頃だろう。話題が自分から神崎さんに移ったことにほっと胸を撫で下ろし、コーヒーを並々注いだマグカップに口を付けたタイミングで、生徒の一人が思い出したように私に詰め寄った。
「そうだ、名字先生!先生と煉獄先生って、もうエッチしてるの?」
口に含んだコーヒーを吐き出しそうになるのを、すんでのところで堪える。
「な、なんてこと聞くの!」
マグカップを慌てて机に戻して先生らしく注意してみるも、普段から彼女達との距離が近いせいなのか、自分が保健室の先生という立場だからなのか、暖簾に腕押しだった。生徒達は悪びれることも遠慮することもなく、私のプライベートに無遠慮に踏み込もうとする。
悪気がないのは分かっているのだが、流石にそれを正直に話す勇気はない。ましてや相手は同い年の友人でなく、自分の勤める学園の生徒達なのだから。
「あ、名字先生ちょっと顔赤い!なんか可愛い」
「もー、先生を揶揄うんじゃないの!ほら、今日は部活が無い日でしょ。早く帰って勉強する!期末試験も近いんだから」
顔の火照りを誤魔化すように言うと、生徒達は渋々といった様子でパイプ椅子から立ち上がり、ニヤニヤとした笑みを口元に浮かべて私を見た。
「期末テストかー。そういえば煉獄先生もちょっと忙しそうだったもんね」
「名字先生!婚約者を癒してあげたら」
「っ…」
思わず言葉に詰まってしまった私に、女子生徒達はしたり顔でスキップしながら保健室のドアから廊下へと消えていく。最近の若者には困ったものである、と思ってしまう自分も歳を食ったと苦笑しながら、再び椅子を回転させてパソコンへと向き直る。
すると絶妙なタイミングで、机の上に放っていたスマートフォンが振動する。通知されたメッセージを確認すると、そこには杏寿郎さんの名前があった。今晩は彼と食事に行くことになっているから、その件での連絡だと推察出来た。
——先生と煉獄先生って、もうエッチしてるの?
——名字先生!婚約者を癒してあげたら
先程の生徒の言葉を思い出して、一人赤面し両手で口元を覆う。食事の後は、どうするのだろう。とっくに覚悟なんて出来ているはずなのに、私はまだ杏寿郎さんと、いわゆるそういう関係になっていなかった。
「…名前?…名前!」
耳元で揺らいだ大きめの声に意識を引き戻される。慌てて隣を見れば、口元に苦笑を浮かべた杏寿郎さんが私をじっと見つめていた。ただそれだけのことなのに、放課後の生徒達とのやり取りもあったせいか、私の心臓は痛いくらいに高鳴った。
杏寿郎さんと食事を済ませた私は、送ると言ってくれた彼に甘えて、自宅までの道を二人で肩を揃えて歩いていた。まだまだ日中は身を焼かれそうなほどの暑さが続いているのに、首筋を撫でる夜風には、確かに秋の気配を感じる。
「どうした?今日は少し、様子がおかしいように見えるが…。食事もあまり食べていなかったようだし。何かあったのか?」
「そ、そんなことないです!ごめんなさい」
足を止め、心配そうに私を覗き込む杏寿郎さんに勢いよく首を振る。なんだか申し訳ない気持ちになってくる。まさか、杏寿郎さんとのこの後の展開を思案して、食事が喉を通らなかったなど、口が裂けても言えない。
「そうか?」
杏寿郎さんは目を細め唇の縁にフッと微笑を浮かべると、私の手を取り指を絡めて再び歩き始めた。心臓の異常な動悸を感じる。魂にまで刻みこまれた、杏寿郎さんへの愛しさが募った。そして、記憶の中で初めて身体を重ね合わせた時の熱が、まるで今自分が体験しているかのように、不思議と蘇ってくる。
私、杏寿郎さんに抱いて欲しいって思ってる。いつだって私の身体は、心は、素直にそれを教えてくれるんだ。
でも、どうしていいか分からない。この気持ちを素直に杏寿郎さんに伝えていいものなのだろうか。女性からベッドにお誘いするなんてなんだか気恥しいし、杏寿郎さんに軽い女と思われてしまわないだろうか。
処女でもあるまいし、アラサーのいい大人が何をメソメソと悩んでいるのだろう。しかし、相手が自分を本気で思ってくれているからこそ、慎重になってしまう。杏寿郎さんに嫌われたくない。
「名前、やはり何か考え事だな」
うんうんと頭を悩ませているうちに、あっという間に自宅マンションの前に到着していた。
「あ、あれ?あの、私っ、ごめんなさい」
「俺では相談にのってやれないのだろうか」
また苦笑を浮かべた杏寿郎さんが、繋いでいた私の手を引いて自身に引き寄せた。二十二時を過ぎた住宅街。周囲に人影はない。
「き、杏寿郎さん…ここ、外で…っんぅ」
微かな抵抗は、杏寿郎さんの唇によって封じられてしまう。こんな場所でキスをしている背徳感からなのだろうか。全身が心臓になったみたいにドキドキする。唇の角度を変えるたびに零れる互いの甘い吐息が、私の官能を育てていく。太陽に似た熱い瞳に見つめられ、息が止まりそうになる。
「はぁっ…はぁ…も…ぉ」
唇が離れると、目の前の大きな胸を何度か叩いて、喘ぐような声で可愛らしい不平を表現する。勿論、心の底では濃密なキスが嬉しくて、これ以上先にいきたくて仕方がないのだが。
「…名前。お休み」
すまなかった、と耳元で囁いてから杏寿郎さんは私の後頭部を撫で額にお休みのキスを落とした。しかし理性では抑えきれなかった唇が、素直な思いを形作ってしまう。
「杏寿郎さん…家に、来てくれませんか…」
蚊の鳴くように細い声で、私より背の高い杏寿郎さんを見上げてお願いする。勿論、ただお茶をしたくて誘っているわけではない。そんなことは目の前の杏寿郎さんだって百も承知だろう。すると、彼は凛々しい眉を少し下げ、決まりが悪そうに私の名を呼ぶ。
「…名前」
「…っ、ごめんなさい、あの、私」
「君は本当に…俺を煽る天才だな」
独り言のように言葉を紡いだ形の良い唇が、もう一度私のそれに重なった。今度は息継ぎもさせてもらえないくらい、まるで前戯のように甘く蕩けるようなキスだった。
——杏寿郎さん…お蕎麦屋さんに…行きたい
ふと、脳裏にあの時のシーンが明滅する。何だかんだで積極的な自分が、少し可笑しかった。
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