episode 05
忘れたい場所




 修学旅行二日目も天候に恵まれた。今にも降りて来そうなほど青い空が、遥かに私達の頭上を覆っている。雲ひとつなく晴れ上がった空を背景に、桜が咲き満ちていた。
 午前中の団体観光を無事に終えたキメツ学園の生徒は、予定通り午後は班別行動となった。この時期は驚くほど修学旅行生が多い。全国の学校から集まった学生達に混じり、私は神崎さん達の班と、例の縁結びの神社へ向かっていた。神社は目と鼻の先であるのに、数百にも及ぶ急な階段が、容赦なくアラサーの身体を襲う。
「名字先生―早く!時間なくなっちゃうから」
「まだ時間はたっぷりあるから焦らなくて大丈夫だよー。急いで怪我でもしたら大変でしょ」
 私より大分先に行ってしまった生徒が、こちらを振り返りながら不服そうに叫ぶ。やはり若い子の体力と気力には叶わない。自分もいつのまにかこんなに年齢を重ねてしまったのかと寂寞の思いを抱えながら、ペースを速めて階段を駆け上がる。
 やっとの思いで境内に到着すると、神崎さん達が待ちきれないといった様子で私の手を引く。弾んだ息を整えながらぐるりと周囲を見渡せば、境内は修学旅行の学生だけでなく、私と同世代くらいの女性や男女ペアの参拝客で溢れていた。
 生徒に混じって参拝を済ませると、お御籤を引いたりお守りが欲しいという神崎さん達を見送って、私はぶらぶらと御社殿を観て回る。すると、拝殿で肩を寄せ合って手を合わせている恋人や夫婦が視界に入ってしまい、胸の内に残るじめじめとした蟠りが鎌首をもたげ始める。
 この神社は、大好きだった恋人と訪れた神社だった。「だった」というくらいなので、当然ながら既に彼との関係は終わっている。いや、そもそも始まってすらいなかったのかもしれない。
 当時、中々恋愛が上手くいかずに恋人もいなかった私は、休みを利用し一人この神社を参拝した。今思い返せば、どうしてこんなに神という存在に縋っていたのかと、自身を鼻で笑いたくなるほど、縁結び神社を巡ったものだ。
そして数ある縁結び神社の中でも、強固な縁を結ぶと名高いこの神社を参拝したその日、まさにこの場所で当時の恋人と出会ったのだ。恋人は、女性の理想のような完璧な人だった。見目も、学力も、財力も、穏やかな性格も。
 この時私は、神というものが、運命というものが、存在するのだと確信した。そして、自分が一生を添い遂げるのはこの人に違いないと天にも昇る気持ちになった。
 恋人は地元の人間で、観光に来ていた私とは遠距離恋愛になってしまったけれど、現代は、昔では考えられなかったメールや電話といった便利なツールがあり、時々淋しく感じることはあっても、それを上回る幸福感で満たされていた。
 しかし、そう思っていたのは私だけだった。
——名前は運命の人だよ。いつか名前と結婚したいな
 恋人は、口を開けばこう言っていた。私を「運命の人」だと、甘い言葉で囁くのだ。その言葉を鵜呑みにしていた私は、恋人を「運命の人」だと信じて疑わなかった。しかしその幸せは、友人の一言によって、紙細工のように簡単に崩壊してしまう。
 たまたまSNSで見つけてしまったと友人が教えてくれたのは、恋人が仲間に囲まれながら、幸せそうに式を挙げている写真だった。私は遊ばれていたのだと、二番目以下の女なのだと、その時漸く気がついた。
 結局その事実を突きつけて連絡をしてみたが、別の女性との間に子供が出来たのだと説明された。これで、この話はお終い。
 このエピソードが、ずっと私の中でしこりとなって残っている。「運命の人」「運命の赤い糸」なんて、所詮女をそそのかすための言葉にすぎないのだ。
「名字先生―!こっち、来て下さい!」
「はーい、ちょっと待ってね」
 物憂いで観光どころではなくなり、また幸せを逃がすであろう盛大な溜息を吐いたところで、私を呼ぶ神崎さんの声が背後で揺らぐ。
「名字先生、これ見てください!凄くロマンチックじゃないですか?」
 神崎さん達の近くへ行くと、勢いよく手を引かれる。そこには小ぶりなお社があり、「赤い糸の儀」という文言とその説明が書かれた木の看板が設置されていた。
「日本では、結婚したら薬指に指輪をする習慣がありますよね。でもこの神社は数百年以上前から、指輪の代わりに互いの小指に赤い糸を結んで夫婦になる儀式を行ったんですって。元々繋がっていた赤い糸を、より強固な縁にするっていう意味もあるみたいです」
「うんうん、そうみたいだね。確かこれが、赤い糸の歴史で有名な理由だったよね。私も前に来た時、宮司さんに説明してもらったな。……環境が変わっても、時代を超えても、運命の人とは赤い糸で結ばれています…か」
 神崎さんの言葉に相槌を打ちながら、説明書きの最後の一文をぽつりと呟けば、神崎さんが目を丸くして私を見る。
「名字先生、この神社に来たことあったんですか?」
「え?まぁ、うん。皆よりは人生経験長いからね」
「えー恋人と来たの?」
「実際良縁に恵まれたんですか?でも先生、独身ですよね」
 この年頃の女子生徒は、恋バナが大好きのようだ。神崎さんだけでなく、他の生徒達も目を輝かせて私を見る。そしてぐさぐさと心に刺さる台詞も、無邪気な笑顔で言ってのけるのだから大したものだ。
「はいはい、ここまで。そろそろ時間になるから移動するよ。この周辺のお店やカフェ、行きたいんでしょ」
 なんとか笑顔ではぐらかし、腕時計で時間を確認しながら生徒達の尻を叩く。「はぁい」という残念そうな声を聞きながら、私は先程自分で言ったことをふと考える。突然、既視感を覚えたからだ。
 一人で神社に参拝し、例の恋人とここで出会った時も、確かに宮司から赤い糸の話を聞いた。でも、この妙な既視感は、それとは違う。私は、もっとずっと前に、赤い糸の話を聞いていたのではなかったか。それも、誰かの隣で。でも、誰の隣で?
「先生―!行かないんですか?」
 既に出口に向かって歩き始めた生徒達が、振り返って私の名を呼ぶ。「はーい、今行きます」と声を張って返事をし、彼女達を追いかける。
 きっといつかの夢か何かで見たのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、私は神社を後にした。

  

 長い参道の両側には土産屋が軒を連ねており、多くの人で賑わっていた。数多ある土産屋の一つで買い物を楽しむ生徒達を待ちながら、私は目の前を行き交う人々をぼんやりと眺めていた。すると、不意にこちらを見つめる男性と目があった。次の瞬間、全身を巡る血がドクリと大袈裟な音を立て、脂汗が滲んでくる。
「…名前だよね?うわ、懐かしい」
「えー?だれだれ、知り合い?…あ、もしかして元カノとかだったりして」
「いや、違うよ。ちょっとした昔の知り合い。ごめん、先に店入っててくれる?」
「もう、早くしてよ」
 男性は隣の女性とまだ小さい子供に声をかけると、私の元まで駆けて来る。どくどくと、激しく脈打ち始めた鼓動の音が頭の中にこだまする。
 あの恋人だ。女性は恐らく結婚した奥さんなのだろう。日本はこんなにも広いというのに、どうしてこんなタイミングで再会してしまうのか。二度と顔も見たくなかったし、声も聞きたくないはずなのに、足が地面に縫い付けられてしまったかのように微動だに出来ない。
「名前、元気にしてた?」
 出会った時のように、優しい声で話しかけてくる。この人の甘い声と言葉にどれだけ傷ついたことか。
「本当久しぶりだね。なんでこんな所に?あ、もしかして修学旅行の付き添いとか」
 私の服装を舐めるように見て、プライベートの旅行ではないと推察した目の前の男が、確かめるように問う。無視を決め込んでいると、楽しそうに言葉が続けられる。
「なんか言ってよ。あ、もしかして、別れた時のこと怒ってる?…怒ってるよね。ごめんね。俺、本当に名前が好きだったんだよ。でも、さっきの子が凄く精神的に弱い子でさ。俺との子供を作れないなら死ぬって脅されて、結婚するしかなかったんだよね」
 外国の言葉を聞いているように、内容が頭に入ってこなかった。ただ、私が軽薄でぞんざいな扱いを受けていることだけは分かった。
「…ねぇ、名前。夜って抜けられたりするの?もしよければ、こっちに居る間、ちょっと合わない。久しぶりに話したいことも色々あるし」
 耳朶に唇を寄せられて、私にしか聞こえないような低い声で囁かれる。手が慣れ慣れしく肩に置かれると、不快よりも恐怖に近いものを感じて背筋が粟立った。
 嫌だ。こんな最低な奴突き飛ばして、急所に蹴りの一発でもかましてやりたいのに、どうして手も足も動いてくれないの。瞼の裏が焼けるように熱くなり、ぎゅっと目を瞑った瞬間、私が知るよりもずっと鋭い声が耳元で揺らいだ。
「うちの学園の保健室の先生に何か用だろうか?」
「…誰、あんた?」
「……れ、煉獄先生…。なんで」
「あ、もしかして同僚?…っ痛っ、何するんだよ!俺達は知り合いで——」
 俯いていた顔を持ち上げれば、私の視界を煉獄先生の大きな背中が覆った。そして彼は、そのまま私の肩に置かれていた男の手をあっという間に捻りあげてしまう。地の底から響くような低い声が耳に滲む。
「君には女性が嫌がっているかそうでないかの区別もつかないのか?ありえんな」
「っ…」
「もしまた名字先生に手を出したら——」
「ちっ、出さないよ、そんな女。俺は結婚してるし、そもそも運命とか言っとけば簡単に落とせる女って萎えるんだよね」
 大袈裟に舌打ちをすると、掴まれていた手を振り払って、男は私達の元から去っていく。容赦なく浴びせられた罵詈雑言が、じわっと頭に染み入って来る。ようやく恋人との記憶も風化してきたと思っていたが、今日の出来事がまた嫌な思い出となって私の心に刻まれてしまった。心がぼろぼろに毛羽立っていくのを感じる。
「…名字先生、大丈夫か?」
 少し視線を上に向ければ、こちらに向きを変えた煉獄先生が酷く心配そうな瞳で私を見つめていた。
「ぜ、全然平気です。…あいつ、元彼なんです。あ、でも結局私は遊ばれてただけなんですけどね。本当に、こんな所で再会するなんてびっくりして…」
 無理やり笑顔を貼り付け、努めて明るく言ったはずなのに、瞳から熱いものが溢れ出して頬を伝う。
「っ…すみません。私、本当昔から泣き虫で。なんで、こんな…もう随分前のことなのに」
「…悲しい時は、無理に笑う必要はない。…我慢するな」
 煉獄先生がゆっくりと呟いて、私にハンカチを握らせると、大きな掌でまるで子供をあやすように頭を撫でてくれた。
 煉獄先生の体温が、触れられた部分からじんわりと身体中に染みわたる。彼の匂いと一緒で、この体温がどうしてか懐かしく感じてしまう。
 変なの。そんなことを頭の片隅で考えながら、私は暫く煉獄先生のハンカチを濡らしていた。


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