episode 07
デートの約束




 数千名の生徒と教師達の健康診断の結果確認は、数ある仕事の中でも一番骨が折れる。朝からパソコンを凝視し続けて疲労しきった目と、かちかちに固まった身体の筋肉を解すため、私は立ちあがって大きく伸びをする。
 ふと保健室に面している校庭に視線をやれば、桃色の景色が見える。開け放たれた窓から風に運ばれた桜の花びらが舞い込んできて、蝶のようにひらひらと舞って床に落ちた。木々にはもう新緑が混じっており、桜の季節は終わろうとしていた。
 開花まではとても長く感じるのに、やっと咲いたと思えばあっという間に散ってしまう。そこが桜の魅力でもあるけれど、また来年まで拝めないのかと思うとなんだか淋しい気持ちになる。
 今日は、修学旅行後の初の出勤日だった。つまり、あの日、お疲れ様会で泥酔したあの夜以来、煉獄先生と顔を合わせるのは今日が初めてだ。
 結局、タクシーの中で煉獄先生に恋人との思い出をぺらぺらとしゃべったところまでは記憶があるが、その後は眠ってしまったようで、翌朝ホテルのベッドで目覚めるまで一切の記憶がない。
 ホテルといっても、少しお高めのシティホテルで私は一人目覚めたのである。
 目覚めた時、勿論服は着ていたし、恐らく自宅の場所を言わずに意識を手放してしまった私に困った煉獄先生が、ホテルを取ってふかふかのベッドに寝かせてくれたのではないかと思ったが、机に置かれた数本のペットボトルの水と置手紙を見れば、その推理が間違っていないことが分かり、別の意味で項垂れた。
『名字先生 自宅の場所が分からなかったので、致し方なくこのホテルに泊まってもらうことにした。すまない。俺はすぐにここを出るので安心してくれ。 煉獄』
 私はどこまで煉獄先生に迷惑をかければ気が済むのだろうか。修学旅行では、煉獄先生のハンカチを二つも拝借してしまい、とてもそのままお返し出来る状態でもない。
 そんな経緯もあって私の大きめの通勤鞄には、ハンカチ以外に、贈り物用に包んでもらった二つの真新しいハンカチと、初日に借りた彼の上着と、気持ちばかりの菓子折りが身を潜めていた。
 これを煉獄先生に渡そうと朝から機会を伺っているのだが、どういうわけか今日は一度も話すこともなければ、姿を見ることもなかった。修学旅行明けで彼が忙しいのもあるだろうし、健診結果の確認に負われて私が保健室に篭りっぱなしなのも関係しているかもしれない。
 インスタントコーヒーに沸騰した湯を注ぎながら、どうしたものかと考えていると、ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴り響く。少しすると、下校したり部活に向かう生徒達によって一気に校舎が賑わい立つ。
 入れたてのコーヒーが揺れるマグカップに口を付けて、窓際に足を進める。視界に広がる校庭も、間もなく部活動に精を出す生徒達で賑やかになるだろう。
 また、窓から薄桃色の花びらを乗せた爽やかな風が吹き込んで、今度は床に落ちずに私の髪に絡みつく。丁度そのタイミングで保健室のドアが開く音がする。後ろを振り返ると、予想外の人物の登場に、私は思わず息を呑んだ。
「煉獄先生…」
「突然すまない。名字先生、今、大丈夫だろうか?」
「は、はい。勿論!もしかして、どこかご体調が悪いですか」
 コーヒーカップを慌てて机に置けば、煉獄先生は苦笑して手で私を制し、ゆっくりこちらとの距離を詰める。二人きりの静かな保健室。高鳴る心臓の音がはっきりと自分で聞き取れた。以前は、煉獄先生にこんな気持ちを感じることはなかった。心臓が身体の内側から直接掴まれたみたいに、胸がぎゅうとするこんな気持ちに。
「いや、俺のことではないのだ。…名字先生の体調が気になってな。先日は結局ホテルに置いて帰ってきてしまったが、大丈夫だっただろうか」
「だ、大丈夫です!そのことでずっと謝らなければいけないと思っていて。あの、先日は本当にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「頭を上げてくれないか。俺は迷惑をかけられたとは思っていない。名字先生の体調が心配でここに来た。謝って欲しいわけではないのだが」
 勢いよく頭を下げて謝罪すると、頭上から煉獄先生の困ったような声が降ってくるので、仕方なく顔を元の位置へと戻す。
「じゃあ…言葉を変えます。煉獄先生、本当に色々とありがとうございました」
「うむ、顔色も良さそうだな」
「本当にみっともない姿をお見せしてしまって…お借りしたハンカチも…あっ!」
 言いながら、ハンカチと上着と菓子折りの存在を思い出し、私は慌てて通勤鞄の中をがさがさと探ると、煉獄先生に差し出した。
「…これは…」
「あの、修学旅行でお借りしたハンカチ…洗濯はしたんですけど、両方汚してしまったので。不快だったら捨ててください。こっちは、一応新しいハンカチとお借りしていた上着と、あとは大したものではないですが、謝罪とお礼の気持ちです」
「うーん。逆に気を遣わせてしまっただろうか。申し訳なかった」
 煉獄先生はまた困ったように呟いて、眉尻を下げた。なんと出来た人間なのだろうか。彼のことをよく知らないまま、勝手に以前の恋人と重ね合わせていたことが心底申し訳なくなる。
「とんでもないです。私のせめてもの気持ちです。…受け取って貰えませんか」
「…分かった、ありがとう」
 窺うように恐る恐る問えば、煉獄先生は快く言って、包みを受け取ろうと手を差し出してくれた。その際に、一瞬だけ指先が触れた。健康診断では煉獄先生に背負われ、修学旅行では頭を撫でられ、タクシーの中では肩を貸してもらって、もう散々触れたにも関わらず、指先が焼けるように熱くなって、心臓が大げさに跳ね、私は勢いよく手を引っ込めてしまう。包みが音を立てて床に落ちる。
「ご、ごめんなさい。すぐ拾います。お菓子は落としても特に問題ないと思うので」
 直ぐにしゃがんで散らばった包みを集めようとすれば、煉獄先生も同じように腰を落として、私よりも早くそれを拾い集めてくれた。
「すみません」
 不規則に暴れている心臓が収まらず上手く呼吸が出来なくて、小さな声で謝罪し目の前の煉獄先生を見る。すると、大きな掌が顔の横に伸びてきて、私の髪に触れた。
「…名字先生は、謝りすぎだな」
 そういって優しい笑みを口元に浮かべた煉獄先生の指には、先ほど髪に絡まったものか、桜の花びらが握られていた。顔がやたらと熱くなる。ああ、もう。きっと今の私の肌は、ランニングを終えた直後みたいに真っ赤に違いない。
「あ、あの!煉獄先生、他に私にお礼出来ること…ないですか。何でもいいんです…」
 恥ずかしさを誤魔化したくて、考えなしに言った言葉に煉獄先生が再び困ったような表情を浮かべる。しかし、直ぐに顎に手をあて考える仕草をすると、数秒後には、妙案を思いついたと言わんばかりの爽やかな笑顔を向けてくれる。
「では、仕事で少し手伝って欲しいことがあるのだが、協力して貰えるだろうか?」
「はい、勿論です!あ、でも…歴史教師の煉獄先生の手伝いが出来るほど、歴史の成績が良かった記憶はないですけど…」
「いや、手伝って欲しいのは授業とは関係ない。…実は、来月の体育祭のことだ」
「体育祭」
 修学旅行が終われば、体育祭はもう目と鼻の先であることを思い出す。
「ああ。俺が体育祭を取り仕切っているのは名字先生も知っていると思うが、クラス対抗と個人対抗の優勝者への景品を選ばなくてはいけないのだ。しかし、どんな物が良いか分からなくてな。良ければ、一緒に選びに行ってもらえないだろうか」
「景品ですか?確かに、それは生徒達のやる気を掻き立てそうですね。私で良ければ、お供させてください」
「本当か?ありがとう!」
 煉獄先生は嬉しそうに言って笑みを深めた。その笑顔に、私の心臓はまた少し、鼓動を早めた。
連絡先を交換し、「じゃあまた連絡する」と煉獄先生は保健室を去っていく。あんなに苦手だと思っていた煉獄先生と出かけることを嬉しく思ってしまうなんて、本当に人生は何が起こるかわからない。
 私はまだ煩い心臓を宥めるように胸をぽんぽんと叩いて、仕事に戻った。


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