うたかた荘に帰り、デコピン100回が終わった頃。
それを楽しそうに見ていた女の人は、ソファから立ち上がり痛みで額を押さえる私たちの前に立った。
「お疲れさま、二人とも。額へこんでる?」
「笑顔でそういうこと言うなよ……」
床に寝転がっていたエージくんが起き上がり、女の人を軽く睨んだ。
でも、女の人はそんなの全く気にしない様子で楽しそうに笑ったままだった。
「明神のデコピンはプロ級だからね。へこんでてもおかしくないよ」
「デコピンのプロってなんだよ!」
エージくんのツッコミに、女の人はアハハと笑った。
その姿から、私は目が離せなかった。
赤いリボンで一つにまとめられた明神さんと同じくらい真っ白な髪。
紫色の目。膝丈の白い着物。
ペンダントには青色の玉、ブレスレットには濁った赤色の玉が一個づつ付いている。
私には、少し変わった姿をしている彼女にそれほど強い力があるよう思えなかった。
それだけに、先ほどの非常識な登場やあの陰魄を犬のように扱う姿は、かなり強烈だった。
よくわからないことが多すぎて、何が何だか。
ジッと見ていたせいか、視線に気付いた女の人は私に笑いかけた。
「私の顔に何か付いてるかな?」
「あ、いや、すみません」
私はハッとし、気まずくて目線を逸らした。
彼女は、そんなに私に近づいて目の前に座った。
「そんなに怯えないでよ、お嬢さん。何もしないよ?」
「はぁ……」
「あ、でも、お嬢さん可愛いね。やっばり悪戯しちゃおうかな?」
「えぇ!?」
ニヤリと笑う彼女を見て、私は後ずさった。
心底楽しそうな笑顔でこちらを見る彼女に、冷や汗が流れる。
「おい、あんまりいじめるなよ?」
困っていた私を見かねて、明神さんが助け舟を出してくれた。
エージくんは呆れた顔でため息をついている。
その様子に、私はこのやり取りはいつものことなんだと理解した。
「ありゃ、怖がらせちゃった?」
「ま、まぁ……」
「アハハ、ごめんごめん。私、生者に手を出すようなならず者じゃないから安心して」
何を安心していいのかよくわからなかったが、とりあえず「わかりました」と返事をした。
「そういえば、自己紹介してなかったね。私はキョウ。幽霊やってます。よろしくね」
「桶川姫乃です。よろしくお願いします」
キョウと名乗った彼女が笑顔で差し伸べた手を、私はそのまま握り返した。
温かな笑顔とは似つかず、その手は驚くくらい冷たかった。
そこで、やっと気がついた。
「あれ、何で、触れて……」
「ん?あぁ、そういえば言ってなかったね」
キョウさんはパッと握った手を離し、姫乃の頭の上に置いた。
触れられている部分が、とても冷たい。
「私、陰魄だから」
「……えぇ!?」
予想していなかった言葉に、私は驚くしかなかった。
私が持つ陰魄のイメージは人から離れた姿だったから、人間らしい姿をした彼女が陰魄だなんて考えもしなかった。
この人が、流仙蟲やカンテラ法師と同じ陰魄。
そう理解した私の心には、少しだけ恐怖が芽生えていた。
顔が強ばり、背筋が寒くなる。
「陰魄のせいで怖い目にあったんだね。可哀想に」
「え!?あ…ごめんなさい」
キョウさんは、申し訳なさそうな目で私の頭を撫でた。
自分が彼女に恐怖心を抱いていることが伝わったのだろう。
危ないところを助けてくれたのに、恐怖を抱いてしまうなんて。
「いいのいいの、気にしないで」
「でも」
「大丈夫。陰魄なんて怖がられるのが仕事だよ」
キョウさんはニコッと笑い、ピースを作る。
一つにまとめた髪を揺らして笑うその姿が、どこか寂しそうに見えた。
そんな顔をさせちゃうなんて、とても申し訳なくて。
「おりゃ!」
「うにっ!?」
突然、キョウさんにほっぺを摘まれた。
触れられているところはひんやりしてるのに、結構痛くて。
もう冷たいのか熱いのかわからない。
どうにもできず慌てていると。
「君は優しいお嬢さんなんだね」
深緑色の目が私をじっと見つめていた。
「本当に気にしなくていいの。恐怖は生き物の本能だもの。
優しいのは素敵なことなんだけどね。
ちょっと天然さんみたいだけど、芯はしっかりしてるみたいだし。
きっとこれから楽しいことがいっぱいあるよ。
元気で生きてることに感謝しながら、今を歩いて。
私は、あなたみたいな人に長生きしてほしい」
ふんわりと微笑む姿は本当に柔らかくて、彼女が陰魄であることを忘れさせた。
お姉ちゃんがいたら、こんな感じなのかな。
キョウさんは、もう一度私の頭を優しく撫でてくれた。
「さて、私はそろそろ行こうかな」
「おう、そうか」
「え、ここに住んでるんじゃないんですか?」
スッと立ち上がり、玄関へ歩き出そうとしたキョウさんは私の問いかけに振りかえった。
「よく寄るんだけどね。住んでるわけではないの」
「そうなんですか……」
「うん、一つの場所に留まるわけにはいかないんだ」
「へ?」
よくわからなかった私に、キョウさんは笑顔を向けてくれた。
「人をね、捜してるの」
「人を、ですか?」
「うん。大好きな人」
今までよりずっと優しい声でそう言った#bk_name_1#は左手の小指を唇に当て、クスリと笑う。
「長い黒髪が素敵で」
「ひねくれてるけどそこも可愛い、だろ?」
明神さんとエージくんが少し呆れたように笑いながら言う。
この話も、いつもの光景なのだろう。
キョウさんは「上出来じゃないの」と言って、カラカラと笑った。
「その人、名前はなんて言うんですか?」
「教えない」
「えっ」
そう言われると思っていなかった私は、少し戸惑った。
キョウさんは、いたずらっ子のように微笑む。
「名前教えたら、私より先に誰かが見つけちゃうかもしれないでしょ?
そんなの嫌じゃない。私が最初に見つけたの。
だから、他の人に教えるのは最低限のことだけ」
「そうなんですか…」
「ごめんね、姫乃ちゃん。見つけたら、絶対教えるからさ」
そう言って、キョウさんは私の前に右手の小指を出した。
「わがままでごめんね。ほら、指切りしよ?」
私は、一呼吸置きキョウさんの小指に自分の小指を絡ませた。
やっぱり、ひんやりしていた。
「それじゃ、行くね」
くるりと身体を玄関に向け、キョウさんは歩き出した。
「キョウさん!」
「ん?」
キョウさんは不思議な顔で振り返る。
私はめいいっぱい息を吸って、声を張った。
「私、キョウさんの大好きな人が早く見つかるよう祈ってます!」
私の言葉に目を丸くしたキョウは、少し間を置いてから大きい声で笑い出した。
「アハハハ!本当に姫乃ちゃんは優しいなぁ。私のために祈ってくれるの?」
笑いが収まったキョウさんは、私に背を向けた。
「ありがとう、優しい姫乃ちゃん」
そう言って、キョウさんは玄関の戸をすり抜けた。
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