大瀬くんが吸血鬼(?)設定で、夢主も傷がすぐ治る特異体質。
学生設定。いじめ、自傷描写あり。幸せな要素がなにひとつありません。
何でも許せる方はどうぞ…!

7/14 自己満足な設定補足(ご覧いただけるのであれば読後をお勧めします…)

ーーーーーー




 梢の隙間から差し込む夕日が、血だまりみたいに赤かった。
 小鳥の亡骸、うずくまる彼。口の端でにじった赤が、白く透き通る肌を汚す。

 暗い金色の瞳に射抜かれ、その日私は、彼と秘密を共有した。

 ***

 馬鹿丸出しの笑い声が聞こえる。構わず私は、教室の扉を勢いよく引き開けた。

 「いた、湊くん。山せんが呼んでる。ノートまだ出してないでしょ」

 そう声をかければ、一斉にこちらを振り向く男子三人。

 「あ? なに、みょうじ。湊くん今俺らと遊んでんだけど」
 「あんたらに言ってない」

 ニタニタと向けられた笑みを突っぱね、私はもう一度、連中の向こうに垣間見えるターコイズへ言葉を投げた。

 「湊くん。早くして。でなきゃ私の仕事終わんないの」

 おーこわ。尚も笑いながら、うち一人が横に退く。人一人ぶん空いた隙間から、肩を縮めつつ、恐々その子が顔を覗かせた。

 「ご、ごめんなさい……」
 「いいから。ノート持って」
 「あっ、はい……」

 ほとんど返事も待たず、私は踵を返す。放課後の校内、ざわめく廊下を職員室の方向へ歩き出した。
 背後でまた、声が聞こえた。

 「湊くーん、続きまた今度な」

 それに返事をしたのかどうか、彼の声はか細く、全く聞き取れなかった。
 
 廊下の角を曲がったところで、私は足を止める。
 振り返って数秒待つと、やがて同じ角を曲がり、湊くんが姿を現した。

 「あっ……」

 彼は私の姿を見て、つんのめるように歩みを止めた。たった一冊だけのノートをわざわざ胸に抱える姿が、なんとも頼りない。ライムイエローの瞳がきょろきょろとさまよい、やがて俯き加減に、「ごめんなさい……」とまた一言謝罪を口にする。今度は何について謝っているのか、見当はつく。

 「いいよ。ノート出してないの事実だし」
 「すみません……」
 「だから、いいってば。あんま何回も謝んないでくれる?」
 「ごめんなさい……」

 交互に使い分ければいいと思っているのだろうか。たまにそんなふうに感じて、私はしょうもない苛立ちを覚える。それを振り切るようにため息をつくと、俯く彼の耳に顔を寄せた。

 「ねえ、それより」
 「っ、」

 彼が小さく息を飲み、身体をこわばらせるのがわかった。その耳朶がうすらと赤くなっていくのを見て、私はひっそりと笑んだ。心が満たされていく感覚を、ひとりかみしめる。

 「またやっちゃった。もらってくれる?」

 そう耳に吹き込めば、ややあってから、彼はほんのわずか首を頷かせる。

 「よかった。じゃあいつものとこで。あ、ノートはちゃんと出しといてね」
 「……ぅ、うん……」

 彼がまた頷くのを確認し、私は職員室でなく、元来た廊下のほうへ足を向けた。
 目指すは校舎の外。私達だけの、秘密の場所。


 そこは学校の裏手の、小高い山の中腹あたりにある。
 校舎裏の職員用駐車場を端まで歩くと、山との境に設けられたフェンスに、一部穴が空いているのが見つかる。大人一人、屈んで小さくなればなんとか抜けられるそこをくぐり、あとは山肌にできた獣道をまっすぐ上へと登る。すると途中で、開けた場所に出る。昔はどこかからハイキングコースで繋がっていたようで、木々に囲まれた十平米ほどの空間の真ん中に、誰かが置き忘れたかのように、薄汚れた木製のベンチがぽつんと佇んでいる。

 私と湊くんは、ここで出会った。
 いや、正しく言えば、出会ったのは去年の四月。一年次からクラスが隣だったため、ぼんやりと存在は知っていたが、クラスメイトとなったのは二年に上がってからだ。
 そして、彼の秘密を知ったのは、それから間もなくのこと。

 ベンチに並んで腰かけ、隣に座った湊くんは、自分の人差し指を舌先だけでちろちろと舐めながら問いかけた。

 「どうして、自分なんかに良くしてくれるんですか……?」

 良くする、というのは、どういうことを言っているのだろう。先ほどの教室でのことか、それとも、彼が今舐め取っている血のことか。
 私は勝手に後者だろうと踏んで、答えた。

 「だって、もったいないじゃん。どうせ流して捨てるだけなら、要る人にあげれば無駄がないよ」
 「そういうものですか……」

 彼は腑に落ちない顔で首を傾けた。そのときには既に、私の皮膚を破り溢れた血は、譲ったそのぶんだけ彼の口中へと消えていた。

 「まだ出てるよ」
 「えっ」
 「もう要らない?」
 「……ぃ、要ります……すみません……」

 そこはありがとう、と言ってほしいけれど、仕方ない。差し出した前腕の切り傷付近を、彼の指先がそっと拭う。その冷やりとした感触に、私は心の震えを自覚する。

 湊くんは、いわゆるところの吸血鬼、らしい。
 らしいというのは、彼自身にもはっきりとしたことはよくわからないから。気がついたときには、そういう感じだった。血を見ると、なぜか喉の渇きを覚えた。三、四歳くらいの頃、保育園の同級生が派手に転んでアスファルトに擦り付けた血を、試しに指で取って口に含んでみた。甘く感じた。それ以来、誰にもそのことを言えずに過ごして、けれども成長するほどに渇きの感覚は強くなって、あるとき、道端で泥酔しているおっさんに噛みついてしまった。味はあまり思い出したくないくらいひどかったけど、そのとき、そのおっさんの感情が頭の中に流れ込んできた。直前まで、ひょいと入ったガールズバーで途中まではいい感じだったのに、結局ぼられて最悪な気分だと。湊くんは、ひっくり返ってその場から逃げ出した。それきり、人の血を直接吸うようなことはしなかった。どうやら、その人のそのときの心の内が、見えてしまうから。
 喉が渇けば、匂いをたどって生き物の死骸を見つける。最初は彼が狩り殺した小鳥かと思っていたが、そんなわけはなかった。彼は虫一匹殺せない、気のやさしい人だった。

 そんな彼に、私は自分の血をお裾分けしている。うっかりやってしまったときに、こうしてここへ彼を呼び出し、流れ出た血を舐めてもらっている。
 あのときもそうだった。うっかりやってしまおうと思ったのだ。この山をもう少し先へ行くと、切り立った急斜面がある。棘のような枝を張り出した低木が幾本も生え、ところどころでは岩肌が剝きだして、ここを転がり落ちればきっとボロボロになれると確信できるスポット。そこを実際に落ちてみて、でもやっぱり大したことにはならなくて、がっかりして山を下りようとした、その帰り道だった。湊くんと出会ったのは。

 どうして、と聞かれて先ほどはああ答えたけれど、本当のところは少し違う。

 いつの間にか出血は止まり、皮膚細胞は新しい組織を組み上げ初めている。早すぎるそれを眺めて思う。どだい、私もどこかへんなのだ。
 けれどもそんな私の消えつつある傷跡を見て、湊くんはいつもこう言ってくれる。

 「……大事に、してください」

 彼はやさしい。


 それから数日後の、放課後のことだった。その日は朝から日差しがきつくて、初夏特有の湿気も相俟って一日中じめじめと蒸し暑かった。
 私は教室でクラスメイトと適当にだべって、部活へ行くその子たちと別れて帰るところだった。鞄を肩にひっかけ、残っていたいちごオレを吸いながら大股に歩く。シャツの袖は捲り上げボタンを二つ外した襟元をバタバタとあおいでも、まとわりつく熱気はどこにも逃げていかない。
 廊下を抜けて、自販機横のくずかごにいちごオレの抜け殻を放り捨てる。そのまま校舎一棟と二棟の間を結ぶ、戸外の連絡通路に差し掛かったところだった。

 ふと裏門側のほうを見ると、見知った顔が三人、額を寄せ合い何事か囁き合っている。今は使われなくなって荒れた旧テニスコートを背景に、その目線の先は、こちらからは死角になった校舎二棟の裏手へと向けられている。あそこには確か何にも使われていない花壇と、かつてそれを世話していた錆びた水道しかなかったはずだが。
 ひそひそと動く口元、笑っているのか顰めているのかその境界を曖昧に行き来するような表情に、私はなんとなく嫌な感じがした。

 「どうかした?」

 靴は上履きだったけど、まあいいかと思い私はそちらへ歩いていった。声をかけてみると、そのクラスメイト女子三人組は「あっ」と口を開けて私に手招きした。

 「ねえー、ちょっとあれ。やばくない?」

 言われて、私はそちらへ目を向ける。馬鹿丸出しの笑い声が聞こえる。潰したホースの先端から、迸る水流が湊くんの背けた横っ面に叩きつけた。

 「湊くん!」

 私は鞄を投げ捨てて走り出した。虚を突かれたそいつはホースの先端から指を離す。途端、勢いを失った水はじょぼじょぼと間抜けに音を切り替え、その周辺だけ雨でも降っていたのかと思うほどしとどに濡れた地面に垂れ流れた。

 「大丈夫?」

 肩を掴み、声をかけても湊くんの反応はなかった。てのひらにじっとりと感じる冷たさ。全身ずぶ濡れだった。水を滴らせる髪が目元にまで貼りついて、俯くその表情はよく見えなかった。

 「んだよ。お前も水浴びしてーの?」

 低く苛立つ声が聞こえた。それを制するような囁きも聞こえたけど、次の瞬間には、私の背中にも水の矢が突き刺さった。

 「彼女は関係ないだろ!!」
 「っ、はあ?」

 馬鹿がたじろぐ。私も驚いた。私の肩越しにそいつへ叫んだのは、まぎれもなく湊くんの声だった。
 けれどもそれ以上に、私の頭は真っ白になっていた。湊くんの口から吐き出された言葉に。
 関係ない。
 湊くんは確かに今、そう言った。

 「……えっ、おい! 何やってんだよ!」

 また別な声が聞こえた。私がやって来た方向、女子三人が見物をしていた方向から。

 「……っあー、めんどくせ。行こうぜ」
 「ちょっ、おい、お前ら……ええと、ああ、もう。とりあえずこっちか……みょうじ! 湊も、大丈夫か?」

 声をかけてきたのは、クラスの委員長だった。部活の最中だったのか、バスケ部のビブスを着ている。あの子たちが呼んできたのか、はたまた通りがかっただけなのか、わからないけれど。
 委員長は私達の状態を見て、眉を顰めた。

 「二人ともやべーな。なんか着替え持ってる? 持ってたらオレ取って来るから、とりあえず保健室行って……」

 委員長の言っていることは、ちゃんと聞こえていた。けれどもなんだか、その内容が私の頭には上手く入ってこなかった。
 私は湊くんを見つめていた。その横顔を。雫が幾筋も伝う白い頬を。足元を睨みつけるように見開いた瞳は暗い金色にかがやき、噛みしめた色のない唇から、うすらと赤が滲み始めている。

 「湊くん」

 名前を呼ぶと、彼はその瞳で私を見た。こころが引き千切れる音がした。射抜かれるこの身。
 血の滲んだ唇を震わせ、彼はそれで何かを呟こうとしていた。けれども言葉が出てくることはなかった。
 触れようとする私の手を払い除け、彼は走り出した。

 「あっ、湊?」

 委員長が呼び止めようとする。私は声が出ない。払い除けられた手が、じんじんと痺れて痛み始めた。

 「……しゃーねえなあ……。みょうじ、とりあえず行こう」

 その手を取って、委員長が歩き出す。感覚が消えていく。
 私はなんにも、できなかった。


 次の日も、その次の日も、湊くんは学校を休んだ。私には誰も話しかけてこなかった。私も誰とも話したくなかった。
 あの放課後の出来事は、クラス全員の知れ渡るところとなっていた。あることないこと、噂するやつらも当然いた。けれどもそんなこと、私はちっとも気にならなかった。心の底からどうでもよかった。私は湊くんのことだけを考えていた。あのとき湊くんが、吐き出した言葉だけを。


 「なまえ……」

 教室移動の準備をしていると、私の名を呼ぶ声があった。顔を上げると、女子が三人、私の机から一歩離れたところからこちらを見つめていた。あのときの三人組だ。
 中央に立つ一人が、一瞬ずつほかの二人と目配せし、口を開いた。

 「あのさ……こないだ、ごめん」
 「いいよ、べつに」

 自分でも奇妙なほど、返事はするっと出た。その三人組も、意表を突かれたように目を丸くしている。さすがに、気のない様子が過ぎただろうか。けれども次の瞬間には、彼女らはそれぞれにどこかほっとした表情を浮かべていた。今度は私が目を丸くする番だった。そして心のうちが冷えていく。なあんだ。

 「つぎ、化学。一緒にいこ」
 「うん。てか知ってるし」

 そう返すと、ふふっと笑いを漏らす声。私はそれには特段反応せず、教科書、ノートとペンケースを持って立ち上がった。

 「でもさ、あれはないよね」
 「? なにが」

 べつの一人が、少し声を潜めて私に顔を向けた。私は首を傾げる。

 「なまえが湊に気があるって話」
 「……ああ」

 私は応えた。

 「そんなわけないじゃん。……大嫌いだよ、あんなうじうじしたやつ」
 「だよねー」
 「なまえいい子すぎんだよ。もっと自分大事にしなー?」

 そうして、先を歩いていた男子のグループに続き、教室の扉を抜けた。他愛もない話をしながら化学室へと向かう。視界の端をすり抜けていく景色に、既に色はない。透明な、けれども分厚くて目に見えない膜が、またいつの間にか私のからだを包んでいた。

 なんだかまた、すべてがどうでもよくなってしまった。それはこの日常がとか世界がとか、そういうことではなく。すべてというのはとどのつまり、自分のことだ。自分は自分が知覚できるごく限られた範囲でしか生きていない。そしてその限られた範囲というのも、結局のところ自分自身の内側で作られるものなのだ。私はそのすべてが、どうでもよくなった。

 「みょうじ」

 誰かまた私の名を呼ぶ声が聞こえる。今度は委員長だった。夕暮れ時の教室。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。私は右てのひらにつけた切り傷を指で抉るように、ぎゅっとこぶしを握り込んだ。

 「……あのさ。ちょっと話あるんだけど」

 何も返事をしていないのに、委員長は切り出そうとする。軽く横にずらしていた目線をこちらへ向け、そのときようやく、私の指の隙間に滲む赤い色に気がついた。

 「……えっ」

 瞬間的に、その顔が色をなくす。けれどもすぐにずかずかとこちらへ歩み寄ると、私の右手を少し荒っぽく引っ張った。

 「これ……!」

 驚いた表情。私はそれを無感動に見返す。
 委員長は何か言おうとして、けれども少し考えるように目を泳がせ、やがて低い声で呟いた。

 「……湊だろ」
 「……は?」

 そこでようやく私の声帯は音を発した。目の前のその人が、意味のわからない話を繰り始めたから。

 「お前、二年になって、湊と関わるようになってからなんか変だよ。あいつの何を気にしてるのか、何に引っ張られてるのかわかんないけどさ……。もうやめろよ。関わるなよ。お前まで巻き込まれて、酷い目に遭うことないだろ」

 オレはみょうじが心配だよ。

 その言葉は爆弾だった。ナイフだった。先の尖った冷たい何かだった。私のまわりを覆う膜が、突いて破かれてずたずたに引き剝がされていく。
 私は掴まれたままの右手を、ぐいと委員長の顔に近づけた。

 「手当してよ」
 「……え?」
 「手当して」
 「あ、ああ。そうだよな。悪い」

 委員長は頷いて、私の傷を見た。そして絶句した。

 「え……な、何で。あれ? さっきまで、血……」

 そのとき、背後で音がした。教室の扉を静かに引き開ける音。私は振り向く。

 「……湊くん」

 そこには湊くんがいた。数日ぶりに見る彼の姿。斜めから差す西日に照らされ輝く、ターコイズの髪色。見開いた目は澄んだライムイエローで、揺らぐそこには委員長に手を取られる私の姿が映っている。
 まばたきのうちに、その色が濁っていく。

 「湊くん!」

 駆け出した彼の背中に向け叫んだ。けれども声は空気を震わせるだけでその足を止めることはできない。
 私は委員長の手を振りほどいた。手はあっさりと離された。彼の呆然とする気配が伝わるけど、それは私がしたくてさせたことだから構わない。
 廊下に出ると、彼の姿は既になかった。走るような音も聞こえてこない。けれどもどこへ向かったのか、私にはわかり切ったことだった。

 だって私達には、ほかに行くあてなどないのだから。


 フェンスの穴をくぐり、獣道を登る。二十度近い傾斜はいつもながらきつく、ともすれば踏み外しそうになるのであまり速くは進めない。それでも急く気持ちのまま、一歩、また一歩と足を前に踏み出す。
 やがて私はその場所に出た。木々に囲まれた、十平米ほどの開けた場所。梢の隙間から差し込む西日が、空間をまばらに、黄金色に染めていた。
 その真ん中に、湊くんは立ち尽くしていた。梢の重なりが、ちょうど陰を作るその下で。暗い金色にかがやく瞳がこちらを見つめている。

 「……どう、して」

 湊くんが呟いた。

 「どうしてはこっちの台詞だよ」

 すかさず私はそう返す。湊くんが表情をこわばらせるのがわかった。

 「どうして謝りに来てくれなかったの」
 「あ……ごめん、なさい……あのときは、巻き込んでしまって……」
 「そうじゃない」

 私が言うと、湊くんは困惑の色を浮かべ口を噤む。私の気持ちは何も伝わっていない。そのことがありありと見て取れて、私は狭まる胸のうちから引きずり出すように声を上げた。

 「関係ないって言った」
 「……あ、」
 「湊くんは、私のこと、関係ないって言った」

 口に出してしまうと、泣きそうだった。あのときの彼の叫び。私の鼓膜を裂いて、脳に突き刺さって、心まで抉り取っていった。
 謝ってほしかった。いや、そうじゃない。謝らなくてもべつにいい。ただ一言、あれは違うんだと、そうじゃないんだと言ってほしかった。
 だって私にとって湊くんは、ようやく見つけた、たった一人の。

 「……関係、ないです」

 けれども湊くんは、言ってくれなかった。私は俯けていた目線を、ゆっくりと上げる。

 「関係ないです。みょうじさんは、元々、自分なんかとは縁のない存在です。だから、わかってたんです。こうなることは、ぜんぶ。……戻ってください。彼のところに。彼はいい人です。ゴミにも声をかけてくれる、正しい人です。あなたは、そういう人のそばにいるべきだ。早く、戻って。それでもう二度と、自分なんかと関わらないで……!」

 悲痛。そう感じたのは、絞り出すような湊くんの声か、それとも言葉にもできない私の落胆か。
 なんだかんだで、彼の叫びを聞くのはこれで二度目だ。そんなふうにも喋れるんじゃないかと、妙に冷えた頭の一部で思う。

 「……わかった」

 言って、私は足を踏み出した。金色の光と影が揺れる中、立ちすくむ湊くんのほうへ。足元で、落ち葉や枯れ枝が踏み殺される乾いた音が鳴る。

 「もう二度と関わらない。顔も見ないし、声もかけない。ここにも、もう来ない。元に戻るよ。私はあっちがわに。でもさ、じゃあ、最後に餞別だけ受け取ってよ」

 歩きながら、私はシャツのボタンを外した。一つ、二つ、三つ目まで。元々二つは開けていたから、指をかけたのは三つ目だけだけど。開いた襟元から、首筋を露にする。

 「喉渇いてるでしょ? 私知ってるんだよ。湊くん、血舐めてるとき目の色がちょっと変わるの。金色になってる。今もそう。走ってきたから? わかんないけど」

 足を止めた。湊くんはすぐそこにいる。手を伸ばせば、指先が触れる距離に。その場で釘付けにされたように動かない彼の目が、鈍く光って私を見つめる。嵐のように波立つ心は、もう私の手では止めようがなかった。

 「湊くん」

 どろりと、唇からこぼれ落ちるその名前。こんな声を自分は出せるのかと怖気がした次の瞬間、身体に衝撃を受けた。両肩を掴んだ強い力が、私の身体をもろとも地面へと押し倒す。積もった落ち葉や下草のおかげで、痛みはそれほどなかった。代わりに首筋を嬲る熱に、私はわらった。

 「もう知らない」

 くらりと、眩暈。

 次の瞬間には、湊くんは勢いよく半身を起こしていた。

 「……っそん、な」

 絶望に目を見開き、片手で口元を覆っている。顎を伝った赤い液体が数滴散って、私の頬も汚す。
 私は腕を伸ばしてその胸倉を掴み、力いっぱい引き寄せた。

 「……だめ、ダメです、なまえさん。それだけは、絶対……」

 震える声でうわ言のようにそう繰り返す彼を、逃がさないよう胸に抱き締める。ふわふわとした髪が首元に触れて、くすぐったいはずなのにちっとも笑えなかった。彼の歯が刺し貫いたそこから、全身に甘い毒が巡ったよう。

 「だから言ったじゃん」

 もう知らない。
 私を打ちのめす君のやさしさも、君を追い詰める私の想いも。
 私たちの結末も。

 なにもかも、ぜんぶ。


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