死体、自死の表現あり。死ネタではありませんが、暗くて短いです。ご注意ください。
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湊大瀬が死んだ。僕の、湊大瀬の目の前で。
何が起きたのかわからない。何も思い出せない。突然始まった意識、視界という名の映像。そのど真ん中で、そいつは首を吊って死んでしまった。
ほの暗い自室の中だ。天井からぶら下がるからだは、ゆっくりと円を描くように揺れている。
ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。
目線で追いかけるうちに、こちらの頭もぐらぐらと揺れるようだった。
動悸がしていた。それから、めまいも。耳の奥でドクドクと血の通う音が聞こえる。血管も皮膚も突き破って、噴き出してきそうな。頭が割れるように痛い。
総身に充満する不快感。それに反して、心のほうはひどく高揚していた。頬のあたりに疲労を覚えて、自分が口の端を吊り上げ笑っていることに気がつく。
引きつる喉から、喘鳴が漏れ出た。そんなぶざまですら、腹の底から湧き上がる歓喜に食い潰されていくようだった。
「……■■くん?」
息が止まった。一瞬にして、沸いていた血が凍る。
勢い振り返ると、部屋の扉が少し開いていた。隙間から細く差し込む光。それを背に負って、声色のとおりに、こわごわこちらを覗く彼女がそこにいた。
冬の夜空のように澄んだ、ふたつの眼がまたたく。そこに、死んでしまった湊大瀬の姿は映っていない。かすかな不安を湛えて、彼女はただ僕の顔を見つめるばかりだった。
すこしおかしく思う。こんな、目と鼻の先の異常に気づかないひとではないはずなのに。
まさか、見えていないのだろうか。ひょっとすると、この死体は現実のものではないのかもしれない。暗澹と終わりを願うクズの脳髄が、ついに見せたまぼろしなのかもしれない。わずかな懸念が、胸の内で頭をもたげる。
けれども次の瞬間、僕はひらめいた。
「……そうだ」
渇いた喉を震わせ、つぶやく。そのときにはもう、先の懸念は脇へと押しやられていた。逸る気持ちに呼応して、痛いほどに鳴り響く鼓動。
つま先を返して、足を踏み出した。ぶら下がる死体には背を向けて。扉の向こう、頬をこわばらせこちらを見つめる彼女に向けて。
許されるのではないか。そう思いついていた。
湊大瀬は死んだ。それなら僕は誰か。少なくとも、湊大瀬ではない。だって、湊大瀬は死んだのだから。誰あろう、僕の目の前で。
夢かもしれない。まぼろしかもしれない。けれどももう、そんなことはどうでもよかった。
湊大瀬は死んだ。僕は湊大瀬でなくなった。
それなら僕は、彼女に触れても、許されるのではないか?
羽が生えたように、心が軽い。それなのに、身体は鉛のように重い。きっと、背中に亡者がしがみついているんだ。恨みの声が、蝿のように耳元にたかる。
かまわず僕は腕を伸ばした。光のほうへ。彼女のほうへ。あとすこし。ようやく。
ようやく僕は、彼女に触れられる。
骨が剥き出た指の隙間に、歪む彼女の顔が垣間見えた。
***
声が聞こえた。扉を隔てた向こう、玄関ホールのほうから響いてくる。
「――さん、大瀬さーん? なまえさん、来てますよ〜」
横たわったまま、固く縮めた身体を一層小さくする。
汚く散らかった、冷たい床の上。
胸と腹が圧迫され、息苦しく吐き気も催す。
やがて呼びかける声は聞こえなくなり、静かに玄関の閉じる音がした。
カーテンは下ろしてある。光は差さない。外も覗けない。
それでも、すこし足を止め、締め切った窓を心配げに見上げる彼女の姿が頭を過る。
「……ごめんなさい」
絞り出した謝罪の言葉は、自責の淵に沈んでいった。
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