泥酔指揮官
いやだなあ、もう。ほとほと参ってしまう。
「……おや。どうしたんだい、指揮官くん。先程から元気がないようだけれど」
気分が優れなくて項垂れる私に、ニタニタと腹の底が透けて見える笑みを浮かべて近付いてくる卑しい男。表情だけでなく、その猫撫で声からも伝わるさもしさに私は内心戦慄しつつも、目一杯虚勢を張って「だいじょうぶです」と言いのけた。少々強気に出過ぎたかとワンテンポ遅れてから案じたけれど、そもそも男の耳には入っていなかったようだ。あいにくと足を止める様子は見られず、止まるどころか更に加速して、無遠慮に隣に腰掛けては馴れ馴れしく肩を抱いてきた。どさくさ紛れにぐっと身体を押しつけられ、我慢していた嘔気がよりいっそう酷くなる。さけくさい。
「そら、どんどん飲みたまえ! 君とは話したいことが山ほどあったんだ!」
酒気を帯びた吐息が髪を撫で、拍車が掛かる胸くそ悪さについと眉を顰める。人のパーソナルスペースにズカズカと踏み込んできた挙げ句この始末とは、全くもって嘆かわしい。“女”という生き物をとことん軽んじた、嫌悪、不快、業腹極まりない浅慮な行為だ。
けれど、だからこそ相手は悪感情を煮えたぎらせる私に気付くはずもなく。強引にビールジョッキを手に握らせてきた。その存在が今の私にはとてつもなく重く、また、非常に恨めしい。無意識に顔から遠ざけると、しかし男は有無を言わせぬ声で圧をかける。
「さあさ。指揮官くん。遠慮せずにグイッと」
――断ればどうなるか、分かっているな? 男の笑顔からはそんな底意が感じ取れた。私は何も言えず、沈黙してジョッキに視線を下ろす。すると脳裏に過ったのはこちらに向かって頭を下げる神ヶ原さんの姿だった。『……すみません。よろしくお願いします、指揮官さん』彼は最後まで私を送り出すことを躊躇していたようだった。言わずもがな、このセクハラ親父が出席することを知っていたからだろう。されど彼すら断り切れなかったということは、それなりの身分に属する相手ということ。となると、私に残された選択は。

……飲んだ。全部。余すことなく。正直、食べ物の匂いが鼻を掠めるだけでも吐きそうだ。愛想笑いを浮かべることすら難しい。だけど私のせいでALIVEに要らぬ火の粉が及ぶことを懸念すると、無闇に逆らうことはできなかった。無理やり飲んだお酒の味は、舌が麻痺してすっかり分からなくなってしまっていて。今はただただ、早く吐き出して楽になりたかった。胃が苦しいと泣いていた。
「…………もうしわけ、ございません。わたし、ちょっとお手洗い、に」
そう断りを入れて立ち上がろうとした。が、肩から腰に下りてった腕に阻まれて叶わなかった。
(なんで、)言われたとおり飲んだじゃないか。
予測していなかった事態に目を瞠ると、相も変わらず下卑た笑みを浮かべる男がやにわに顔を寄せてくる。「酩酊した指揮官くんも、すごく魅力的だねえ」甘やかに囁かれて、ぞわりと背筋に粟が立った。
ダメだ、このままキスされてしまう。
ひ、と声が出て、咄嗟に顔を背ける。これが今できる精一杯の抵抗だった。けれどもその拒絶に苛立ったらしい男が、力任せに頬を掴んで私の顔を真正面に向かせる。――――もう駄目だ。やがて訪れるだろう感触に恐怖しながら、息を凝らして瞼を閉じると。なにやら衣擦れと畳を滑るような物音が一緒になって聞こえてくる。そして代わりに訪れたのは、荒い力からの開放感。不自然な気配に恐る恐る瞼を開けた私が見たものは、己の目を疑う光景だった。
「その|女性《ひと》は、アンタみたいな人間が気安く触れていい存在じゃない。触るな」
「……ふむ。全て柊に台詞を奪われてしまったな」
「盛大にド突いておいて言うことがそれか……?」
軽蔑するように男を見下ろす霧谷くん。倒れた男の傍ら、けろりとした様子で感心する頼城くん。そんな彼に冷静に突っ込む斎樹くん。奇しくも私服姿――頼城くんはスーツだが――に身を包んだラ・クロワ学苑のヒーローが、私の目の前に集結していた。思わずぽかん、と。呆気に取られた間抜け面を晒してしまう。
「……え、なん……」
「神ヶ原さんから、指揮官さんがまだ帰ってこないと連絡が入ってな。急遽俺たちが馳せ参じることになったんだ。……立てそうか?」
状況がいまいち飲み込めない私に、男を迂回して寄ってきてくれた斎樹くんが要点だけを説明してくれる。加えて手も差し出してくれた。けれど大変情けないことに、力が入らないのは今の一件で分かり切ったことだ。なのでその問いには緩慢と首を振ると、斎樹くんは素早く背後へ目を配った。
「頼城、指揮官さんを」
「無論そのつもりだとも。指揮官くん、少し気持ち悪いかもしれないが、少々辛抱してくれよ」
お構いなしに男の体躯を跨いで私の身体を抱き上げる頼城くん。急な浮遊感に一瞬だけ嘔吐いたものの、ここで出すわけにはいかないと慌てて口に手をやった。切羽詰まった私の様子を一瞥した霧谷くんが「こんなとこ早く出よう」と外へ促す。それに他二人も頷いて、私を抱えたまま歩み出すと。――パシッ、と。いつの間にか上半身を起こしていた男が私の足首を捕らえた。
「ま、て……貴様ら、こんなことをしてタダで済むと思って……!」
「……再三言われなきゃ理解できないのか?」
前を見据えていた頼城くんが足を止めて冷たい声色で言い放つ。頭が鈍っている私ですらゾッとしたんだ、直接その怒気を浴びせられた彼は、それはもう比じゃない恐ろしさだろうと推量して。完璧なまでの笑顔を湛えた頼城くんは、しかしなおも全身を巡る血液すら凍り付くような声で男に|警告《圏》をした。
「|タダでは済まない《圏》のは、はて、いったいどちらなのだろうな。若輩者である俺にはいささか判じかねる問題だが。しかし貴殿は俺たちの逆鱗に触れたも同然」
「報いは受けてもらう。……それだけ、言っとく」
珍しく霧谷くんまでも怒っている。内心震え上がりながらも助けを求めるように斎樹くんのほうへ視線をやると、神妙な面持ちで首を振られた。お手上げという意味だろうか。もしくは彼も頼城くんたちと同じ気持ちだと言うのだろうか。そんなまさか。
返す言葉を失ったのか、おとなしく離された手にまた進む足。そのままVIP用の専用廊下を抜けて外へ出ると、ぬるい風が頬を撫でた。密閉空間だったあの個室とは段違いの心地よさだ。知らず識らずほぅ、と溜め息を零すと、斎樹くんと霧谷くんが揃って顔を覗き込んできた。ついでに、と垂れた腕から脈もとられる。
「……やはり早いな。吐いてるようなら点滴も視野に入れるが、どうする?」
「はいては、ない……でも、きもちわる……」
「エチケット袋は持ってきてるから、吐きたくなったらすぐ言って。介抱するから。紫暮が」
「ああ、任せろ。人の介抱はしたことがないので手探りだが、責任を持って指揮官くんを幸せにすると誓おう!」
「バカなの?」
いつもの噛み合わないやり取りを聞いて安心したのか、うつらうつら微睡んできた。頼城くんの花の香り、斎樹くんの体温、霧谷くんの声。五感で感じる全てが眠りへと誘われる要因になったようだ。指揮官さん?と呼びかけられる声を最後に、私の意識はプツリと闇に沈んでいった。
すぐさま芯が抜けたような私の身体を車に乗せた頼城くんは、けれど自分も続けて乗るわけではなく。なにかを考えるように店を振り返って、手前で小首を傾げている斎樹くんに問いを投げかけた。
「巡。指揮官くんに手を出そうとしたあの卑劣漢、お前はどこかで会っていないか?」
「突然だな。……言われてみれば、微かに覚えがあるよ。会ったのはその一度きりだがな」
「つまりお前のブラックリストに載っている、ということだな。後で俺に詳細を送ってくれ。証拠がたった一つでは決定打に欠ける」
ニコリと微笑んだ幼馴染みにやや面食らいながらも。やれやれというように、斎樹くんは微苦笑した。
「構わない、が。程々にしておけよ」
「あんなヤツに情けなんて必要ない。徹底的に|除菌《つぶ》して」
「柊??」
「もちろんだ」
「お前は安請け合いするな」
妙なところで結託してしまった二人に頭を抱える。ああ、これはあの男の
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