「指揮官くんを“嘘つき”にさせてしまったのは、俺たちにも落ち度があるな」
宵の明星を見上げながら、独白のように頼城が呟く。その横顔はえらく真剣で、凜とした眼差しはまっすぐと空に注がれていた。
後ろで紅茶の茶葉を選んでいた斎樹は、しかつめらしい話に訝しげに首を捻る。また随分と感傷的だな、と不注意に口が滑りそうになって、寸で留めた。
……まあ無理もない。今日の夜空は“あの日”、彼女を失った日の空の色に酷似している。夢でも吐き気がするほど繰り返し見た、あの夜闇に。
「もっと彼女と過ごす時間を作ればよかった。困っていることはないかと、もっと強く問い質すべきだった。もっと彼女の動向に気を配ればよかった。そんな“たられば”ばかり思い浮かんでは、俺の胸をひどく締め付ける。幾度輪廻を果たそうとも、後悔は尽きないな」
「……言いたいことは分かるが、忘れたか。あの人はもう、そういった感情を俺たちが抱くことを望んではいない。苦しむことを良しとしない。彼女は、“今を生きてる”。それだけで十分だと笑っていただろ?」
それに。どんなにしつこく気に掛けたって、あの人はきっと「大丈夫」だと言って気丈に振る舞っていただろうさ。なんせお前と同じかっこつけだ。
説得力を伴った幼馴染みの言葉に、振り返った頼城はむ、と眉を寄せた。同じと指摘されたことが納得いかないのだろう。俺は指揮官くんほど辛抱強くないぞ、と言い切った彼に、斎樹はハハハと引き攣った笑みを漏らした。たしかに、この男は不当な言葉を浴びせられたら正論で相手を黙らせるタイプだ。あの指揮官よりずっと強かであると言えるだろう。
もっとも、電池切れするまで働くワーカホリックなところは冗談抜きで似ているのだが。
「……だが、そうだな。惨い輪廻の果て、俺たちはようやく欲する運命を捕まえた。希望を手にした。文字通り、“不可能を可能にした”んだ。この結果はひとえに、巡。お前の尽力あってこそのものだろう」
「よせ、背中が痒くなる。力を尽くしたのは俺だけじゃないんだ。手を貸してくれたALIVEの研究員に神ヶ原さん、上層部を一喝してくれた室媛さんを始め……諦めなかった仲間達に、最後まで俺を信じてくれたあの人だって、それぞれ奮闘してくれた」
万感の思いを堪えるように瞳を閉じる。瞼の裏に浮かび上がるのは、涙ぐみながらも笑顔の花を咲かせるヒーローズと、その中心で「ありがとう」と、一緒になって涙ぐみながら微笑んでいる指揮官の姿。
もちろん、ヒーローの中には素直という言葉とは縁遠い人間もいるので、露骨に安心した様子を見せない天邪鬼もその輪にいたが……彼女を見る視線が柔らかくなっていたことだけは、斎樹は見逃さなかった。
『欲した運命を捕まえた』。
もう二度と得物に貫かれた彼女の姿を見ることはないのだと思うと、今にも涙が噎び上がりそうだった。
――指揮官がイーターの細胞を注入されていた、という事実が発覚したのは、“あの”後の話だった。弔うために事切れた身体をALIVEに持って帰って、採取した血液からたまたまイーター細胞の陽性反応が現れたのだ。そしてその感染源は、例の『虫刺され』だということが判明する。
幼生体よりも小さく、また組織の観測にも引っかからないそいつらの呼称を、政府はそのまんま寄生虫と名付けていた。緩やかに体内を蝕み、人としての尊厳をまるごと喰らう恐ろしき害獣。寄生した人間の正気を狂気に塗り替える、忌まわしき毒の種。
寄生虫はやがて一般市民をも無差別に襲い、瞬く間に勢力を拡大していった。御上は非常事態宣言を発したものの、運命は時既に遅しと嘲笑うように……世界はあっという間に戦火で赤く染まっていった。
後は、会話のとおり。ヒーローたちは彼の世界を救えず、輪廻転生。否、陰惨なループを繰り返した。
「謙遜するな、と言ってもするだろうな。お前は」
「ほっとけ、性分だ」
だが、彼らは転んでもただでは起きなかった。
数回目の輪廻で寄生虫の巣窟となっていた場所を掴んだ。さらに数回目の輪廻でイーター細胞の浸蝕を抑える薬の研究に携わった。さらに数回目の輪廻で――効果が認められる、その薬が完成した。
今世では寄生虫に刺される指揮官の運命を曲げることは叶わなかったが……おかげで、彼女は。
「巡くん、いる?」
コンコン、と控えめに扉がノックされる。噂をすれば影、だ。頼城に目を配り、向こうが頷いたのを確認して、斎樹はおもむろに部屋の入り口へ近付く。
扉を開けて顔を上げると、鼻の頭を真っ赤にした指揮官の姿がそこにあった。急いで帰ってきたことが分かる様相に斎樹はふ、と頬を綻ばせる。身体が冷えるといけない。すぐさま招き入れる姿勢を取った。
「おかえり。ちょうど紅茶を淹れようとしてたところだったんだ。入ってくれ」
「ただいま。ありがとう、お邪魔するね……って」
「やあ、指揮官くん。おかえり。外は冷えただろう。君もこちらに来て温まるといい」
アンニュイな空気からすっかりいつもの頼城紫暮に戻っていたことに失笑するが、お前の部屋じゃないだろう、という突っ込みも含め、口には出さないでおこうと心に決めた。どうせ言ったってしらばっくれる。それに検査で疲れているだろう彼女を混乱させるような真似はしたくない。下手をすると勘付かれる。
斎樹はおとなしく用意していた三つのティーカップを並べ、頼城がスリランカで購入してきたディンブラの茶葉を手に取った。
「ああ、巡。今日は俺は遠慮しておくよ。だからティーカップは二つでいい」
「飲んでいかないのか?」
「愛し合う二人の時間を邪魔するのは気が引けるのでね。無粋な輩は矢後だけで間に合ってるだろう?」
その言葉に揶揄するような響きが含まれていることに気付かない二人ではない。指揮官は解こうとしていたマフラーを手にしたまま固まり、斎樹は胡乱げに瞳を眇める。お前……と呆れたような声色で呟いたのは斎樹だ。その眼差しは冷たいものを孕んでいる。
しかし頼城は知っていた。斎樹の反応は、あくまで照れ隠しによる睥睨程度のものに過ぎないと。くつくつと喉奥で笑みを噛み殺し、席を立つ。
「指揮官くん、俺は失礼するからここに座るといい。星が綺麗に見えるぞ」
「う、うん……ありがとう」
「頼城」
「なに、今日ほど思い出を語るにうってつけの日はない。――大事にするんだぞ、巡」
釘をさすような語調に微かに強張る。だけどすぐに身を引き締めて、斎樹は神妙に頷いた。
「……言われなくても。離すものか」
「ふ、それでこそ我が友だ。…では、よい夢を」
自信と期待に満ちあふれた満面の笑顔で、頼城は斎樹の部屋を後にした。しん、と静寂が訪れる。
……どういうことだろう。幼馴染み二人のやり取りにわけも分からないまま指揮官はコートを脱ぎ、先程まで頼城が腰掛けていた椅子に着席する。ほんのりと彼の温もりが残っていて温かい。少し、ホッとする。
部屋の温度はあらかじめ斎樹が考慮していたのだろう。寒すぎず暑すぎずちょうどいい塩梅で、窓際に移動しても肌寒さに震えたりしなかった。
「……検査結果は、どうだった」
カチャ、とテーブルに紅茶の入ったティーカップが据えられる。クオリティーシーズンに採れた茶葉だろうか。花のような甘い香りが引き立って、くたびれていた心が癒やされる。…けれど、脱力するにはまだ早い。この話を、きちんと彼に伝えるまでは。
表情の硬い斎樹につられて、指揮官もキリリと姿勢を正す。“勇者の瞳”は密かに、聞きたいような聞きたくないような、筆舌に尽くしがたい葛藤を宿していた。
「結果は……」
隣に腰掛けた斎樹が固唾を呑んだ。膝の上においた拳を握る。どことなく思い詰めたような面持ちの彼女に、まさか、という不安が胸を過った。
緊張感を纏ったまま進む秒針。やがて心の準備ができたのか、一息置いて、彼女は声を発する。
「――――問題ないって」
刹那、斎樹を襲ったのは張り詰めていた糸が解けたような、とても、とても大きな脱力感だった。
巡くん?と彼女の慌てたような声が耳に入る。が、微妙に心窩部が痛むので返事ができない。変な間を入れて焦らされるのは、本当に、本当に心臓に悪い。マイペースな彼女らしいと言えば彼女らしいのだけども。ときどき、どうしようもなく憎らしくなる。
「わ、っ!」
けど。どうしようもなく憎らしくて、どうしようもなく愛おしいその人を、斎樹は力いっぱいに抱き寄せた。彼女の足がテーブルに当たって、カップの中の紅茶が揺れる。ああ、これではせっかくの紅茶も冷めてしまうなとぼんやり思いながらも。
それでも今は、離したくなかった。言いようもなく、ただ彼女に触れたかった。
「ハ……深刻そうな顔してたから、なにかあったのかと」
「……いつも苦労かけるね。ごめん」
「…ま、気にするな。あんたのことで気を揉むのは、正直もう慣れてるさ」
「返す言葉もないや」
ごめん、と再三繰り返す彼女に、斎樹は黙って腕の力を強くした。ついいつもの癖で皮肉じみた言葉が口をついて出たが、無論本意じゃない。なぜならば彼は、“心配する相手すらいなくなってしまった虚無の世界”を見て、知って、今ここにいるのだから。
何度でも頭を過る悪夢の光景に歯噛みする。すると彼の心情の変化に気がついたのだろうか。腕に抱かれていた指揮官は身動いで、ふと斎樹の胸に耳を当てた。
「……巡くんは、あったかいね」
いきなりの発言に、前にも似たような会話をしたことがあったと思い出す。世界が滅びへと向かっていくカウントダウンの最中。争いは絶えねど、のどかな日々の一幕に。抱きしめ合って、互いの熱に浸っていたあの時を。
ただ、あの時と一つだけ違うのは。
「……あんたは外から帰ったばかりだから、まだ少し冷えてるな。待ってろ、今ブランケットを」
なかなか温まらない身体を慮って、仕舞っておいた彼女の私物を取り出そうと腕を解く。だが、斎樹が席を立つことは叶わなかった。腰を上げた彼に飛びつくようにして彼女が首に掻き付いてきたから、彼は強制的に尻餅をつく。完全に意想外のことだった。思わぬ行動に目を瞠ると、顔の傍にある彼女の顔が柔らかく綻ぶのが分かる。
「巡くんがこうやって抱きしめててくれれば、すぐにあったまるよ」
「――。」
……本当に、この人は。分かっているのかいないのか。
確信犯だったら相当タチが悪い。参った斎樹は深々とした嘆息を吐き切って、降参だとばかりに再び腕を回した。襟元のあたりからふふ、と満足そうな笑い声が聞こえてくる。
これではどちらが年上なのか分からないな、と呆れつつも。斎樹はぽんぽん、と。とても穏やかな表情で、女性らしい華奢な背中を叩いた。
「仕方ないな。好きなだけ俺から体温を奪えばいいさ」
「こういうのは奪うって言わないの。分け合うって言うの」
「はいはい……」
かつて守ることの出来なかった体温を分け合える幸福。壊れてしまった笑顔をもう見ることはない安堵。どんどん硬く冷たくなっていく肌の感触を味わわなくて済む感泣の苦しさ。
さまざまな感情が胸に詰まって、鼻の奥がツンとする。これだけは決して彼女に気付かれないように、斎樹は彼女の後頭部に手を添えて自分の首元に押しつけた。いつの間にかぽんぽん、と。背中を叩く役割は、交替されていた。
運命によって引き離された二つの手のひらは今たしかに結ばれて、求めていた熱は、ここに在る。叫んで足掻いても、失意の底で苦しんでも、手に入らなかった光が、腕の中に。
『――大事にするんだぞ、巡』
試験管を取り違えることは、きっともう無い。
彼女の命を取りこぼすこともまた、あり得ない。
『おとなは、総じて嘘つきなんだよ』
あんな悲しい“嘘”を言わせることも、ぜったいに。
「悔しいが、俺は何度でもあんたに恋をするんだろうな」
「悔しいは余計」
そんな軽口を叩いて、二人は笑った。
明日もまた、イーターとの戦いがあるだろう。けれど不思議と恐怖はない。いつ訪れるやも知れない喪失感に怯える必要も無い。
帰ってくればこの人がいる。
たったそれだけの事実が、今の彼にはとてつもない無上の喜びだった。
ALICE+