頼城紫暮 カラパレ
プロの奏者によって奏でられるオンブラ・マイ・フ。綻び一つ感じない息のあった演奏に耳を傾けながらも、私は居心地の悪さを紛らわすように携えていたフルートグラスに視線を下ろす。パチ、パチ、と液体の中で弾ける泡は、今回の主催者のご令嬢が産まれた年に製造されたヴィンテージ・シャンパンだ。それも当たり年のやつ。聞いたときは驚きのあまりグラスを落っことしそうになったけれど、片側に付き添ってくれていた御鷹くんが配慮の声を掛けてくれたおかげで挙措を失わずに済んだ。
おそらく彼ら――星乃家のメンツは慣れているのだろう。右を見ても左を見ても無限に広がる極彩色に狼狽する私を、なにかとアシストしてくれた。
(ほんと、情けない限りで……)
無力感を噛み締めながらも溜め息を零す。ドラマの世界で見るよりも遥かに煌びやかな社交パーティー。こういった場に参加する経験はもちろん初めてではないが、今回ばかりは少々経緯が違うために緊張感が拭えなかった。
なにせ|自分を目の敵にしているかもしれない《圏》輩の胃袋の中にいるようなものなのだ。こんな心持ちでは貴重なヴィンテージの味も分かるまいと、もう一度憂鬱な溜め息を零して、私は視線を脇に逸らした。
(……ご令嬢と当主は依然としてペアで行動中、と)
リストに載ってあった取引先のCEOと談笑している二人の姿を確認して、また視線をフルートグラスに戻す。今の段階で周りに監視を気取られてしまっては元も子もない。あくまで招待客としての外面を装わなくては、と自戒して、おそるおそるグラスに口を付ける。さすがに私のグラスだけご丁寧に毒が塗られている等の、ありきたりのサスペンスみたいな仕込みはされていなかった。その事実のみに安心し、香り立つシャンパンを嚥下する。なお楽しめたのは口中香だけで、やはり味はピンと来なかった。
「指揮官さん」
「? 志藤くん。もう挨拶回りはいいの?」
「はい。大方済ませました。後は父がいますし……何より、今日の自分の任務は指揮官さんの護衛ですから」
ビシッと決まったスーツに身を包んだ志藤くんが力強く頷く。異世界のごとき環境のなか、片隅でなるべく目立たないように縮こまっていた私にとって、彼は杖とも柱とも頼む存在だった。そんな彼がやってきてくれたことによって、強張っていた身体が僅かに警戒を解く。
けれど緊迫した状況が変化したわけではない。二人並んで注意深くあたりの様子を探り、声を潜める。
「今のところ、変わった様子はありませんね」
「……これから仕掛けてくるかもしれないし、あるいは仕掛けてこないかもしれない。今日は私の人となりを見定めるために招待したって線もある」
「……けど、あんな悪質な嫌がらせを毎日してくるような人間です。何かしらの接触を図ってくる可能性は高いでしょう。用心はしておいたほうが賢明かと」
「うん。だからここで地蔵決め込んでたの」
地蔵の顔も三度までってな。
私がそう吐き捨てると、志藤くんは「緊張してるように見えましたけど、存外指揮官さんも肝が据わってるようで安心しました」と苦笑した。緊張はしてるけど、さほど動揺はしていない。むしろ冷静なほうだと自分では思う。なぜなら指揮官に着任してからというもの、この手の嫌がらせを受けるのは一度や二度の話ではないからだ。……まぁもっとも、今回ばかりは命の危険を感じるような悶着も起こされ、さらには関係のないALIVE職員にまで被害が及び、いいかげん腹に据えかねた私は室媛さんに相談して、実行犯が御座すこのパーティーに進んで出席したのだが。そしてその犯人というのが――現在当主の隣で慎ましく振る舞っている、あの可愛らしいお嬢さんだ。
(……あんな虫も殺さないような顔してやることなすことえげつないって……女ってコワ……)
否、権力に物言わす人間が一番恐ろしいのか。特に周りにイエスマンとなった大人しかいないとなると、余計に手に負えなくなるから困るんだ。
そこで送られてきた封筒の中身を思い出して、もとより燻らせていた嫌悪感に眉を顰める。各ヒーローと私が話しているシーンの隠し撮り写真。のみならず、如何に私のことを憎たらしく思っているのか、まざまざと伝わってくるようなバッテン印。それはもうデカデカと、赤いペンで、私の顔に、だ。だが、斯様な悪戯だけならまだしも、彼女はよりにもよって他人を雇ってあらゆる方法で私の存在を消そうとした。直接的に言うと、殺そうとしてきた。
元々は同じ|指揮官候補《圏》だった身。故に私を狙う理由なんてごまんと思い付くから――。なればこちらも容赦はしないと、出るとこ出ようと、真っ向から対峙することを選んだ。すなわち、自分自身を撒き餌として差し出して、向こうの本性を引きずり出してやろうという魂胆だ。
だけど大人のやんごとなき事情に白星の彼らまで巻き込んでしまったことについては申し訳なく思っている。相手方もどういった手段を用いてくるか分からないから、と志藤くんたちは快く手を貸してくれたものの、本来ならば私やALIVEの上層部だけで解決せねばならない問題なのに。こんな些細なことにさえ彼らの力を頼らないと何もできないのか、と忸怩たる思いに苛まれて険しい表情のままうつむくと、ふいにむにっと。誰かの人差し指が頬に突き刺さった。うりうりと頬肉が弄ばれて地味に痛い。
「指揮官さん。そんなおっかない顔してたら、捕まえられる獲物も捕まえらんないぜ?」
「……伊勢崎くん」
指を差したまま覗き込んできた人物の名を口にする。よほど今の心情が声に表れていたんだろうか。彼は指を離すと、しゃあねえなあ、と言わんばかりに頬を緩めて。空いた手で私の頭をポンポンと撫でた。
「小腹空いてない? 指揮官さんが食えそうなもん、テキトーに持ってきたけど」
飄々とした伊勢崎くんの笑顔に、暗雲を帯びた心が少し救われる。ホッとしてその言葉にもう片方の彼の手を見遣ると、前菜、メイン、デザートとなるほど選り取り見取りなフルコースが乗っていた。いくらなんでも適当すぎやしないか……と呆れた声色で志藤くんが突っ込むが、まったくもって同感である。向こうで綺麗に飾られていたはずの料理が粗略に積み重ねられ、見るも無惨な形になり果てているなんて、シェフが見たら泣きそうだ。
「つーかお前、料理皿持ってウロウロすんの基本マナー違反だぞ。今日の主催者はそんな細かいこと気にするような御仁じゃないが、気をつけろよ」
「気にする人じゃないなら別に良いじゃん? そんなことより指揮官さんどれ食う? オレこれ〜」
「はぁ……やれやれ」
まるで聞き分けの悪い女子高生を娘に持つ父親のようだと、二人のやり取りに和みながら。しかし私は視界の端で、いよいよターゲットが動き出すのを目視した。
「!」
当主と分かれた彼女は共も付けずに一人で大広間を出て行く。その行動の意図は読めないし読むゆとりもないが、何にせよ作戦を開始するなら今しかない。私は二人に「お手洗いに行ってくる」と抜け出す口実を作って後を追った。当然、グラスを志藤くんに預けることも、後ろ手で打ち合わせしていたハンドサインを送ることも忘れずに。
まるで夜空を泳ぐ人魚のような後ろ姿に、妙な不安を募らせながらも。ただ粛々と足を動かした。
◇
どんどん暗がりのところへ導かれているのは分かっていた。それでも足を止めることはしなかった。どうせ向こうにも思惑は気付かれている。だったらこのまま、彼女の策に乗ってみようと賭けに出た次第だった。
だけどよもや、立ち止まった瞬間に暗器を投げられるとは思いもしなかった。咄嗟に避けた私の頬を伝う赤い液体を見て、相手はお人形のような顔を崩して嘲笑する。
「尾行がヘタですのね、|指揮官さん《圏》。認可ヒーローの中には隠密行動が得意な者もいるはずでしょう? 一度教えを請いてみてはいかが?」
「……うちの悪達者のことよく御存知で。そういう貴女こそ、挨拶より先に人に凶器投げるなって、あのお優しい父君に教わらなかったの?」
てっきりもう少し猫をかぶっているものだと踏んでいたけれど、と本音を口にすると、彼女はさぞ愉快そうにクスクスと笑う。仕草こそ純なれど、その整った唇から紡がれるのは棘を孕んだ禍々しいまでの揶揄の羅列だ。一瞬だけ脳裏に、深い憎しみが刻まれたバッテン印が蘇る。
「腹の探り合いもそろそろお互いに飽きた頃かと思いまして。ちょうどいいから、たった今、この機会に引導を渡して差し上げようと断を下しましたの」
言いながら、彼女はドレスの裾を捲ってレッグシースに収めていた暗器を構えた。等間隔に設置されたブラケットライトが暗器の鋭利さを克明に己に突き付けてきて、微かにチッと舌を打つ。大広間の喧騒から離れたここではそれすら大きく響いたけれど、気にする余裕はない。息もつかせぬ急展開にどっと冷や汗が噴き出す。
「こんなところまでついてきたのだから、こちらの目論見も、もうお分かりでしょう? ――邪魔なのよ、貴女」
真っ直ぐとぶつけられた純然たる殺意に、思わず全身が総毛立つ。されど相手は怯んでいる隙もろくに与えてくれず、心臓めがめて得物を飛ばしてくる。それを間一髪で躱したところで、私は意を決して、踵を翻して走り出した。――とにかく大広間とは、逆のほうへ。
(とりあえず、この展開は想定内。でも、)
思った以上に牙を剥いてくるのが早かった。おかげで、志藤くんたちが打った布石が間に合うかどうかも微妙なラインだ。スケジュールの多少の前後は致し方ないとはいえ、できれば警察が屋敷に到着するまでは時間を稼ぎたかったのだけれど、あんなに彼女がせっかちだったとは。
(……ま。それだけ恨まれてるってことだよね。こちとらとばっちりみたいなものだけど!)
懸命に力走する一方で、半ばヤケクソのような独り言を心中垂れ流す。じゃないと後ろから小石を投げてくるような足音と鼻歌のコンボが恐ろしすぎて、とても正気ではいられそうになかった。これまで北村くんがプレイしてるホラーゲームを見ても眉一つ動かさない女だったのに、次見たら今日の出来事を思い出しては血の気が引きまくりそうで。ついでに、“はないちもんめ”の歌が夢にまで出てきそうで。始終鳥肌が立ちっぱなしだった。
「……なっ、えっ!?」
――だのに、どこで道を間違ってしまったのか。私が進んだ先は行き止まりで、唯一の逃げ道と言える脱出口は作為的に開け放たれたバルコニーのみだった。
ザァッと入ってくる冷たい風が身体を撫ぜる。屋敷に入る前はそこまで冷気が厳しいとか、そんなふうに感じたことはなかったけれど、夜が深まるにつれて気温が下がってきたのか。夜気が鋭く肌を刺した。同時にかつん、かつん、とスイスホワイトの床を叩くヒールの音が鼓膜を突いて、私の戦慄ゲージは一気にクライマックスまで跳ね上がる。音の反響具合からしてどんどん接近していることが判明し、背後とバルコニーを交互に見遣った。
(二階だから、打ち所が悪かったとか、そんなことがなければ死にはしないけど……っ)
一か八か。また運命の采配に委ねなければならない局面に、深呼吸して腹を固める。
気が触れたような判断だと思われても仕方ない。けど、向こうも本気で殺しに来てるんだ。だったら僅かでも一縷の望みが残されてるほうを取るしかないと、志藤くんが見繕ってくれた靴を脱ぐ。――そのとき。
「指揮官くん! いるか!」
聞こえるはずのない声が耳に届いて、弾かれたように顔を上げる。声の出所はバルコニーの外からだ。迷わず手すりのところまで駆け寄り、下を覗き込む。そこには「会議があるから」と、今日のパーティーの出席をやむなく辞退した頼城くんが険しい面持ちをして待ち構えていた。彼の後ろには――おそらく私が飛び降りることも想定してだろうか――配置されていただろうボディーガードが地面にゴロゴロと転がっていて、一人であの数を相手にしたのかと息を飲む。しかしグズグズしている暇はない。私は手すりから身を乗り出し、頼城くんへ疑義をぶつけた。
「頼城くん、どうしてここに!?」
「事前に入手していた屋敷の間取り図がまったくのデタラメだったと正義から連絡が入ってな! 早急に仕事を終わらせてヘリでこちらに向かった次第だ! それより今追われているんじゃないのか!?」
その問いにハッとして後ろを警戒する。相手は私が誰かと会話していることに気がついたのだろう、早歩きでこちらへ向かってくるさまが窺い知れた。自然と手すりを握る力が増し、焦燥感に眉を顰める。すると状況が差し迫っていることを私の反応から察したのであろう。頼城くんは即座に腕を広げて、唸るように指示を出した。
「今すぐにそこから飛び降りろ! 君のことは必ず、何があってもこの俺が受け止める!!」
「……っけど、頼城くん潰れない!? 指揮官としてあなたに怪我させたくないんだけど!!」
「その心持ちはこちらも同じだと敢えて言わせてもらおうか! だいたいこれしきのことで潰れるような俺じゃない、良いから、早く!!」
それ以上御託を並べるようならリンクユニットを割って強引にその場から攫いに行くが、いいのか!?と、彼にしては強い語調で揺すられる。“指揮官として”なにをされたら困るか、よく理解している頼城くんだから言える脅し文句。もちろん基本イーター討伐以外でリンクユニットを割らせたくない私の心情を把握していることも含めて、だ。
なら、と。躊躇なく、私は手すりに素足を掛けた。
「待ちなさい!!」
悲鳴じみた声を背中に浴びつつ、私の身体は宙に投げ出される。臓腑が下から圧迫されるような感覚を伴って――すぐに、全身が軋むような衝撃とともに温かい感触に包まれた。見事キャッチしてくれた頼城くんごと芝生に倒れ込み、ちょっとした振動が頭を揺らす。……浮遊感に些と酔ったかもしれない。シャンパンなんて飲まなきゃよかった。
「……潰れないって、言ったのに……」
憎まれ口とも取れる呟きに、身体を張って受け止めてくれた頼城くんが微かに笑う気配がした。そのまま宥めるように髪をさらりと撫でられて、「ここからなら良く見えるぞ、ほら」と、後ろを振り返るように促される。なんだか屋敷が先程よりも騒がしい感じがし、いささか戸惑いながらも従うと。
真っ先に目に、入ったのは。
「指揮官さん! 大丈――って、血ぃ出てんじゃん!?」
「敬、取り乱すな! 指揮官さん、こちらの手札は全て整いました、もう大丈夫です!」
「あっ、あと靴も回収したので!」
ご令嬢を羽交い締めにする志藤くんと、私の頬の傷を目にして素っ頓狂な声を出す伊勢崎くん。冷静に置いてった靴を真上にあげて「落としますか?」と訊ねてくる御鷹くん。怒濤に掛けられる声に気圧されつつも、馴染みのある顔触れが揃ったことに私はやっと、張り詰めていた緊張の糸がほどけて。ほうっと安堵の息を零しながら、頼城くんから離れて芝の上に座り込んだ。起き上がった彼も見たところ無傷のようだ。よかった。
「ああ、御鷹。靴は良い。彼女は俺が丁重に預かる」
「了解ッす」
「え。でも靴がないと歩けな」
だが、呆然としていた私にも非がある、ある、が。トントン拍子に決められていく話を聞き流すことはできなくて、速やかに待ったを掛けた。否、掛けようとして、口を噤んだ。気付けば両膝と背中には頼城くんの腕が回っていたから、途中で言葉を失ってしまった。
「俺が、指揮官くんの手足となれば問題ないだろう?」にこりと。爽やかな、それでいて有無を言わせないような笑顔を向けられる。対し、私は。
「…………世間の目を気にするって思考は」
「これっぽっちもないので観念してほしい」
胡乱げな眼差しで彼を射貫けど、てんで効果はない。これは意地でも降ろされないなと早々に諦めて、私は抵抗なく彼に身を委ねた。ああ、最後の最後まで情けなかった――そう、一件落着として自分の中で整理をつけようとしたところ。ふいに夜空を劈く、悲痛な叫声。
「……っ本当は、私が、|そこ《圏》にいるはずだったのに……なんで貴女なの……っ!!」
胸を衝く心からの叫びに、目線をバルコニーへと送る。視力が特別良いわけでもない私の目では、彼女の顔をよく見ることはできなかったけれど、でも。身も世もなく泣きじゃくっているのであろうことは、声色や空気で伝わってしまった。黙り込む私の傍ら、志藤くんと頼城くんが静かにアイコンタクトを交わし、頼城くんが背中を向ける。必然、私の視点も変わるわけで。慌てて首に腕を回した。
「ちょ、頼城くん」
「自らに害を為そうとした輩の言葉に指揮官くんが耳を貸す必要はない。後のことは、正義が上手くやるさ」
君は傷の手当が先だ、と諭され黙念する。ごもっともな言葉に、しかし私は頼城くんの肩越しにバルコニーのほうを一瞥すると。微笑を浮かべた伊勢崎くんと御鷹くんに手を振られ、渦中の外へ送り出されるのだった。
◆
車に乗るなり、こちらの全身の状態をくまなく調べるような視線が注がれる。惜しげもなく晒された黄金の瞳に凝視されるのはなかなか居心地が悪いものだと弱りながらも、身体を竦めるように腕を組んだ。そこでようやく頼城くんも気付いたのだろう。何回か瞬きを繰り返して、やがて苦虫を噛み潰したような面持ちで瞳を伏せた。
「……すまない。レディの身*をこうジロジロと覗うのは頂けない行為だと、己では弁えているつもりなのだが」
「……ううん。ほかに怪我はないか心配してくれたんでしょう? それなら顔だけだから大丈夫」
「いや、腕にも掠り傷ができているぞ。足も」
えっ、と列挙された部位を確認する。頼城くんが来てくれるまでは必死だったから自分では気付かなかったけど、言われてみれば左腕には一筋の赤い線が描かれている。踵にはくっきりと靴擦れの痕も。言わずもがな、どちらの傷にも心当たりがあった。
(――心臓狙ってきたときのか)口に出せば憂いに顔を曇らせた頼城くんが目に角を立てるかもしれない。無論、彼のことだから腕の傷はあのご令嬢に因るものだと察しはついているだろうが、火に油を注ぐ趣味はないので、敢えて靴擦れのほうに話題を持っていった。
「もしかして、気付いていたから御鷹くんに靴はいらないって言ったの?」
「いや、長時間ヒールを履いてるのも苦痛だろうと思って、元々フラット・シューズを用意していたんだ。……しかしその有様では、これを履くのも辛そうだな」
やはり俺が指揮官くんの手となり足となるしかあるまい。と大仰に語る頼城くんに頭を抱えながら、「本当に平気だから」とお断りを申し上げておく。若干素っ気なかったかなと思い返したけれど、言い方以前にそもそも断られたことが不服らしい頼城くんはむぅ、と訝しげに眉を寄せた。是が非でも甘えて欲しい、という顔だ、これは。されど私は見て見ぬ振りをして、何が何でも頷かないという断固の姿勢を見せる。
「……まあいい。問答は後に回すこととしよう。ひとまず消毒と血を拭わなくては」
そうして前に出されたのは、清潔なタオルに、救急箱。偶然だとはとても思えない準備の良さだが、この救急箱は斎樹印のものだぞ、と誇らしげに笑う頼城くんにわざわざ聞くのも野暮な話かと思い閉口する。
そしてあろうことか彼はナチュラルにタオルを持って私の顔を拭おうとしてきたので、それだけは全力で拒んでなんとか自分で拭くことを許された。
「腕を見せてくれ。ガーゼと包帯で応急処置をする」
「ありがとう」
素直に左腕を差し出すと、私より一回り大きい手のひらが肘を掴む。彼は念入りに傷の周囲まで消毒してくれたあと、斎樹印の救急箱からネオガーゼと新品の包帯を取り出して、手際よく事を進めていった。ヒーローたちは軽傷の場合、自分で傷の処置をすることもあるから、自ずと慣れた手業だろうか。感心すら覚えるほど、その作業過程は鮮やかだった。ただ包帯を固定して処置を終えても、彼の表情は依然として晴れ晴れとしない。なにが彼を苛んでいるのだろうと、タオルを顔に当てたまま小首を傾げると。頼城くんはそっと、二の腕を包む包帯の端を親指で撫でた。
「――何としても、君についていくべきだった」
「……? 今日のパーティーのこと?」
出席の件については頼城くんにも仕事があったんだ、それは悔やんでも致し方ないことだろうと直言する。だが彼は違う、とかぶりを振った。
「許せないだけだ、見通しの甘かった自分が。君なら自分を囮に使ってでも相手の化けの皮を剥がそうとするだろうと、ほんの少し先を見据えれば分かったことなのに」
「ほんのりじゃじゃ馬扱いされてる気がする」
「気のせいだろう。……俺は、あの御令嬢の言葉を聞いて、一瞬背筋がゾッとしたんだよ」
“私がそこにいるはずだったのに”。彼女はそう金切り声で叫んでいた。訴えていた。その言葉を聞いたとき、私はそれもまた一つの可能性だっただろうと、静心ながらに思い馳せていた。けれど、どうやら頼城くんは異なる捉え方をしたらしい。彼にしては珍しく言葉選びに悩んでいるような、考えが一つに整頓されていないような、歯切れの悪さだった。
「彼女の主張も一理ある。あり得ない話ではなかっただろう。彼女は性格こそ難があるが、実力はALIVE関係者の中でも極めて高いほうだったと聞き及んでいる」
「……!」
「もし、狙われていたのが君ではなく、彼女だったら。我々が指揮官と呼び慕う人物が、彼女だったらば」
俺たちは、君と出会えていたかも分からないんだな。
大真面目に、ごくごく当たり前のことを、咀嚼するように喋る頼城くん。どことなく様子がおかしい彼を不審に思いつつ、私は全て肯定するようにひたすら相槌を打っていた。きっと私には正答などない。なぜなら今は、彼が自分の考えを纏めるための時間なのだから。
しばしの沈黙を挟んだあと。程なくして、彼は。喉に突っかかっていた小骨が取れたようにみるみる表情を輝かせて。予想外の反応に思わず面食らった。
「えっ」
「ふむ、そうか。そうか! なるほど、ふふ、これが諸説ある……そうか……感慨深いな……」
「……あの」
率直に言って怖かった。なんで今日はことごとくホラーのような体験を味わわなければならないんだろう。いつの間にか自分は疲労の果てにホラー体験ツアーにでも応募していたのだろうかと疑念が頭をもたげる。しかしこの頼城紫暮は相手が引いていようとお構いなし。掴んでいた私の左腕を己に引き寄せては――忠誠を誓う騎士のような佇まいで、唇を落とした。
「…………!?」
「どうやら俺は、君のいない日常などもう考えられなくなっているようだよ、指揮官くん」
――太陽の熱で蝋の翼が溶かされていくイカロスは、どんな気持ちだったのだろうか。少なくとも私は、広大な海に真っ逆さまに「早く落ちておいで」と誘われているような、そんな絵空事のような副音声が聞こえた。車には私たち二人しかいないんだから、聞こえるわけ、ないのに。
「君に対するこの感情になんと名前を付けようか、かなり煩悶したが、一言に着地させてしまえば何てことはない。これが、こ」
「わーーーっっっ!! まって、まって!? 私の狭量なキャパシティがついていかないから、お願いだから待ってください!」
「……む」
言葉を遮られて不満そうに顔を顰める頼城くんの口を手のひらで塞ぐ。本当に、さっきとは別の意味で心臓に悪い。だいたいなぜ私は高校生に口説かれているんだろう。おまけに真に受けているんだろう。ドキドキしすぎて、手が震えて、……直視、できない。なのに彼は葛藤している私の気も知らず、口を覆っていた震える手を取って、手首にも唇を落として。私の手に頬をすり寄せ、優しげに微笑った。
「なら、俺は待とう。急いて事を仕損じたくはないからな」
ああ。広い海が、波が。私を攫おうと。
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