*SSS「策士平門さんに捕まる」続編


外堀を埋める為に数々の布石を打った。
策を講じて目障りな害の芽を摘んだ。
万全に期して水も漏らさぬ備えをした。
念には念を入れて足場を固め────満を持して手中に収めた。

陥れた?いやいや人聞きの悪い。
仕向けた?まさか、とんでもない。
彼女が俺のモノとなるのはごくごく普通の流れで、必然で、なるべくしてなった、あらかじめ天より定められし事だったんだ。

巧妙かつ、周到に築き上げ張り巡らされた。鎖などより余程厄介で強固な蜘蛛の糸に、女が気付くことはなくじわじわと着実にからめ捕られ。気付いた時にはもはや抵抗なんて無謀な足掻きはとっくに封じられて、完璧に退路は断たれていた。
百戦錬磨、手練手管。
駆け引きに長けた男のそつがない手の込んだやり口。言葉巧みに絆され抱き込まれ、ロックオンされたが最後、もう女に後はない。

覚悟を決めろ、観念して側に居ろ。どれほど抗おうと全ては水泡に帰して徒労に終わる。
そう、時には諦めも肝心なのだと、腹に一物も二物も抱えた男に見初められた時点で運が尽きた名前は最終段階で攫われることを選んだのだった。

「──っく、くすぐったいです平門さん……」
「……ああ、すまない。あまりにも綺麗な髪でいつまで触っていても飽きないからつい、な」

それに、こうしているとお前はもどかしそうな顔をするから尚のこと止められなかった。
あたかも揶揄するような口調の平門の言葉に、名前は「なっ」と頬を紅潮させ絶句した。違いますから!そう慌てて弁解しようと男の目は欺けない。
いっそう深まった平門の微笑を一瞥し、しどろもどろになりながらも意識を再び花の手入れに向けることに戻した彼女は、されど後ろから愛おしそうに注がれる熱視線を感じてとても集中なんて出来なかった。

パチ、ン。枝切り鋏を持つ手が微かに緊張で震える。
そのぎこちない姿を一目収め、一向に名前の髪から手を離そうとしない平門は薄く笑った。
初々しくもいじらしい反応に、もっと恥ずかしがる姿が見たいと嗜虐心を煽られる。
けれどあんまり出過ぎた真似をすれば暫く口を利いてもらえなくなる。ここはグッと衝動を堪え、今も若干ご機嫌斜め気味な恋人を甘やかすのが先決だと、平門はおもむろに両腕を名前の腰に回して引き寄せた。
こら、と窘められても何のその。何食わぬ顔で花の香りが漂う名前の髪に鼻を埋めた。

「ここでの生活にはもう慣れたか?」
「はい、なんとか。艇の皆さんも良い方たちばかりですし、何不自由なく自由にさせて頂いてますから」
「なら良かった」

耳を掠める吐息がむず痒いとばかりに身を捩る名前を押さえつけ、分かっていながら意地悪くそのままの体勢で話し続ける平門。
また同様に名前が本気で嫌がっている訳じゃないということも把握しているからこそとてつもなく厄介だった。
ずるい、腕の檻に閉じ込められた女はそうごちる。

名前を婚約者と名乗る男のもとからかっ攫って早一ヶ月。平門はいつの間に根を回していたのか、本人そっちのけで既に名前の両親にも彼女を艇に貰い受けることの許可を得ていた。
しかも交渉は名前と平門が出逢ってまもなく、つまりは平門が例の花屋に足繁く通い詰めるようになってからまだそれほど経っていない頃より続けられていたらしい。

無論、最初は両親から断固猛反対を受けていた。それはそうだ。いきなりぽっと出て現れた男に蝶よ花よと育ててきた大事な一人娘を預けられるかと。
しかし平門は言った。「名前さんは私と一緒になりたいと言ってくれています」と。
因みに名前はこんなこと言った覚えも無ければ、当初は平門のことをただお得意様の一人としか考えていなかった。ゆえにこれは平門の単なる法螺話し、嘘八百を並べたタチの悪いでまかせだ。

だけど彼女の両親は秘められた魂胆なぞよもや勘づきもせず、何度も通い、平門という(あくまで表向きの)人格を知っていく中で疑いを晴らし、見事にでっち上げられた嘘を信じた。信じてしまった。とどのつまり懐柔された。挙げ句の果てに「娘を宜しくお願いします」と父から頭を下げられたという始末。
女が何一つ与り知らぬところでそんな末恐ろしいやり取りが交わされていたと知った時には卒倒するかと思った。事実無根も甚だしい。
初めて耳にした時は仏の顔が切れるのすら通り越して恐らく狐に摘まれたような間抜け面を晒していただろう。怒りよりも呆気が勝った。

「嘘から出た実……ですか」
「ひょうたんから駒、とも言うな」
「ほとんど同じ意味ですからねそれ。もう……本当に」

仕方のない人。
呆れ混じりに呟かれた言葉は、女が降参の旗を上げたときに男に放った言葉と同じで。
あの時の情景を鮮明に思い出して、懐かしいなと平門が微笑む。

名前は元より、石橋を叩いて渡るような性格だった。
無闇やたらに首を突っ込んだりはせず、周りに気を配り必要に応じて自分も動く。
良く言えば慎重、悪く言えば臆病。そんな彼女がうっかり罠に引っかかってしまったのは、細部まで緻密に計算され尽くした二段構え三段構えの戦略だった。
心を賭けた心理戦、狐と狸の化かし合い。
女は自分の気持ちを隠して誤魔化して、男は隙を狙って押しては引いた。結果論としては名前が負けてしまったのだが。

「そんな膨れっ面したって可愛いだけだぞ」
「っもう。だから何でそんなに恥ずかしい言葉を次から次へと……」
「俺はちっとも恥ずかしくないが」
「私が恥ずかしいんです」

可哀想に。こんな男の毒牙に掛かっちゃうなんて。ああ勿体ない。
いつか名前を抱きしめながら同情の眼差しを向けていたイヴァの言葉が蘇る。

(ああ、確かに可哀想で哀れかもしれないな)
平門は影で優越にほくそ笑んだ。
離すつもりなど毛頭ない。
所詮上っ面の自由など見かけ倒しであり、実際は雁字搦めで身動きが出来ないほどの見えない鎖が彼女の身体に幾重にも巻きついている。
ゆっくりじっくり、外堀を埋めるついでに包囲網まで仕掛けられて窮鼠に追い詰められた袋の鼠は、今もなお狭い籠の中で大事に大事に飼われている。

「それで良い……もっと俺に色んな顔を見せてくれ。恥ずかしがるところも、笑ったところも泣いたところも。……もちろん、あんな姿もな?」
「なっ?!」
「ん、今何を想像した? 俺は深い意図なんて無かったが」
「〜〜っな、な!!」

墓穴を掘った。むしろそうなるよう鎌をかけられた。そして気付かず転んでしまった。
何が慎重だ、何が臆病だ。この男の前では如何に用心深く身構えようと意味をなさない。悔しいことに全く歯が立たないのだ。
赤い顔でも精一杯の反抗として睨み付けど、平門にはいつもの余裕綽々な笑顔でサラリと受け流される。きっと彼はこんな顔でも名前の僅かな一面を知れたと悦に入るのだろう。
ウエストに回された腕の力がことさら強くなって、根負けした女はやがて底抜けに濃い紫の瞳から視線を逸らして手元の花に顔を向ける。また力が強くなった。

「名前、こっち向け」
「知りません」
「名前」
「っいやです」
「……名前、これが最後だ」

──俺を見ろ。
彼女の視線を、つつがない愛情を受ける花々が今この時ばかりは何よりも憎たらしい。
細い指は自分だけを求め、触り。穏やかな眼差しは自分にだけ注いでほしい。花にすら醜い嫉妬を浴びせるとはなんとも大人げないとは思うが、彼女に関することならば見栄も恥もなりふり構っていられない。
早く、一刻も早くその愛らしい顔を見せろ。花ではなく、俺に。さもなくばこちらを振り向かせるまで。
ほの暗い思考を巡らせていると、しかし平門が痺れを切らすよりも早々に名前が恐る恐ると顔を上げた。身長差で自然と上目遣いになる澄んだ瞳。
よく出来ましたとばかりに即座に額へ口づけを落とせば、相手も肩を竦ませてはにかんだ。

「…………本当に、焼きが回ったな」
「え?」
「いや、未だあれよこれよと騒がしい上層部の連中をこれからどうやって黙らせてやろうか作戦を練っていただけだ」
「あ……」

途端に不安げに曇る名前の表情。
これも初めから予想の範疇、計算内のうちだ。
悩ましい表情を繕い、重々しくため息を吐けば事の深刻さを醸し出される雰囲気から察したのか名前が物憂いげに眉根を寄せる。

一般人の自分では、一般人の自分だからこそ口も手も出せない問題だと理解している。
理解してはいるがその自分のせいで平門に要らぬ苦労を強いているのだと思うと、肩身が狭くて申し訳ないと常日頃から罪悪感に苛まれていた。
身の程を弁えているからこそ、自分はどうすることも出来ない。
歯がゆくて情けなくて仕方なかった。
けれど平門はそこで「大丈夫だ、お前は心配するな」なんて言葉をかける程、優しい性根はしていない。逆に彼女の心情を有り難く利用させてもらおうと、現在も企てを謀っていた。

「実は上が俺たちの関係を認めてくれるだろう方法が一つだけあるんだ」
「……えっ、」
「だがそれは名前の力も必要とする。いやむしろ名前の方が苦しく、大変な思いをするかもしれない……それでも手を貸してくれるか?」
「……! 私がお役に立てるなら是非っ」

……ほぉら、引っかかった。
名前の優しさに狙ってつけ込み、裏をかいた男は微笑んだ。それはそれは柔らかく、紳士的に装って。

「ありがとう名前……愛してる」
「っ、私も……私も、愛してます」

なら、問題ないよな?
満足な笑みを浮かべる男の下心には気付かない。
自分が自分の首を絞めていることに、より逃げ道を塞いでいることすら女は知らなくて。

可愛い可愛い掌中の珠。
名前が思惑に嵌り、全ては男の算段通りだったとようやく気付いた時はどういう反応を見せるのか。
それはまた、別のお話で。
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