きらいだきらいだ
不敵に笑うあの口角も
私を惑わすあの声も
本音を引き出すあの指も
ぜんぶぜんぶ だいきらい

ちがうようそだよ
ほんとはね
穏やかに凪いだあの瞳が
優しく私を呼ぶあの声が
大きくて広いあの背中が
ぜんぶぜんぶ だいすきなの

相反する幼いこころ。
素直になれない天の邪鬼。
いつだって彼の前では斜に構えた態度しかとれなくて、強情っぱりで、本心とは裏腹に思ってもないことを口走って、その度に部屋で猛反省して。明日こそは、次こそはって意気込んで、でも結局ダメで己の不甲斐なさや意気地なさを痛感して、どん底まで落ちた。

ツクモちゃんが羨ましいな。
可愛くて、強くて、凛としていて優しくて、昔馴染みだから私の知らない彼も知っていて。
二人並んだ姿は私には遠くて、眩くて、──お似合い、だなぁ、なんて。
さながらやましい自分への当てつけのように、そう思ってしまったのです。

「……私って、つくづく意地と根性が悪いなぁ」
「あら、突然どうしたの?」
「んーん、なんでもな」
「さては恋煩いね」

隠す余地もなく見抜かれた。いっそ清々しいほどの秒殺だった。そして図星だった。
確信を得た様子でいっさいの逡巡なく的を射てきたイヴァに、名前は咄嗟に返す言葉もなく口を噤む。
独り言のつもりで零したぼやきに反応が返ってくるとは思わず平常心を装ってかぶりを振ったものの、そんな拙い仮面も人の機微に敏い彼女の前では全く意味を成さなかったようだ。

「可愛い名前のことなら何でもお見通しよ」

ウィンクした相手に(適わないな、)と内心ごちる。
さほど悩みを表に露呈する失態は晒さなかったが、やはり先ほど失念していてつい落としてしまった自分への悪態が決め手だったか。
「間違いないでしょ?」と問いかけるイヴァは欠片もそれ以外の原因を疑っていなかった。
今さらお茶を濁したところで言い逃れは出来ない。つまりは逃げ場など無いと悟った名前はふと苦い笑みを浮かべて、やむを得ないとばかりに重い口調で切り出した。

「……私も、イヴァみたいになりたかったなあ」
「……本当にどうしたの? そんなことを言い出すなんて」
「自分の心の狭さに嫌気が差しただけ……」

思ったよりも深刻そうな名前の様相に、イヴァが驚いたように瞳を見開いた。
日頃から毅然としていてアグレッシブである彼女がここまで意気消沈していることは滅多になく、またこんなえらく途方もないことを言い始めるなんて、よほど重症に違いないと察したイヴァは途端に神妙な顔つきになった。それからは別段茶化すこともせず、黙ってポツポツと話される内容に耳を傾ける。

恋煩い。
その悩みとは、名前と公認の恋人である平門に関してのことだった。
近頃は互いに仕事が手一杯で忙しく、プライベートで話すことは疎か、二人で束の間の休息をのんびり堪能するなんてことも出来ない。近いのに遠い、つかず離れずの微妙なすれ違いが当分の間続いていた。
けれど仕事は仕事、仕方ないと割り切って自分も任務に勤しんでいた。早く片が付けば平門を手伝えるかもしれない、彼と過ごせるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱いてそれを原動力に、努力の糧として日々奮闘していた。

でも、昨日見ちゃった。天井の空気清浄機に誤って挟まってしまったユッキンを助けたツクモを、平門が正面から抱きしめているところ。遠目だったから名前にはそう映っただけなのかもしれないが。
……それでも、あんな息が触れそうなほどの至近距離で、近付いて、いったい何をしていたのかなんて。最後まで見ていられなくて、逃げるように場を後にした。
──で、結局燻ぶったままの蟠りが晴れることはなく、されど平門にも直接真意が問い質せるほどの度胸もない。挙げ句の果てにツクモにやきもちまで焼いて、現在もこうして悶々と頭を抱えている次第である。

「……馬鹿だよねえ……」
「そうねぇ、お馬鹿さんね」
「……ほんと救えない……」
「案外そうでもないわよ?」

え? と名前がわざわざ聞き返すまでも無かった。それよりもいち早くイヴァが広間の出入り口に目を配って、「ねえ平門?」と意味ありげな微笑を浮かべる。
紡がれた名に、現れた姿に、名前の心臓は強く脈打って。見る見るうちに引き攣っていく彼女の面持ちとは反して、男の笑みはイヴァ同様にいっそう深まっていくばかりだった。

「全く……何を悩んでるのかと思えば、」
「そういうけど平門、アンタが後先構わず取った軽率な行動も悪いのよ。臭いものには蓋をしろって言うけど、時には包み隠さず暴くことも大切なんだから。じゃないと伝わるものも一向に伝わらないわよ」

何よりこの子相手ならなおさら、ね。
何だか揶揄されているような気がしなくも無いが、無闇に横槍を突っ込んだところで話の要点を掴めていないのだからこの二人の会話に付いていける筈も無い。
なので訝しげに首を捻りながらも大人しく事の成り行きを見守っていれば、平門はイヴァの諭す言葉に考えるところが合ったのか「ふむ、」と指先で顎を撫でる。
程なくして合点がいったかのように頷いたあと、腰掛ける名前の傍まで歩み寄り呆ける彼女の腕を取った。

「悪かったな、手間かけて」
「可愛い子の為なら一肌も二肌も脱ぐわよ。そんなことより、くれぐれも名前を他の男に横からかっ攫われないよう用心しときなさい」
「ふ、俺がそんなヘマを犯すとでも?」
「アンタがいつまでもそんなんじゃ名前が愛想尽かす日も遠くないっつってんの」
「…………肝に銘じておくよ」

厳しい険相と語気で抜け目なく釘を差してくるイヴァに、参ったと言わんばかりの苦笑を零し、平門が掴んだ腕をそのままに再び踵を返して出入り口に向かい始めるから、必然的に名前もつられて歩き出す。
「平門?」
不測の事態に彼の名を呼んでもこちらを振り向いてはくれず、代わりにイヴァに目線で救いを求めても手を振られて見送られるだけ。

その後、話題に窮したままずるずると流れに身を任せ、平門の自室まで連れてこられた。
扉が閉じる音がやけに静寂の中で大きく響き、重苦しい空気によって怯えに捉えられる。幾度も何か言葉を発しようとしても口は空気をかくだけで、中々音にはならず虚しく時が過ぎるだけ。依然として腕は解放されない。
意を決して名前が大きな背中に向けて声を掛けようとした時、掴まれていた腕を強く引き寄せられた。

「ひ、ら……やだ」
「何が、嫌なんだ」
「……心臓が、いたい。しぬ」
「死なない。……これくらいで死なれたら、困る」

ツクモちゃんのことも、こうやって抱きしめたクセに。苦しくて、切なくて。
でも久しぶりに感じる温もりがどうしようもなく嬉しくて、愛しくて。離してほしいと思うのにこのままずっと離さないでほしいと請う自分もいる。
裏表に対比する矛盾と綻びに板挟みになって、心臓が平静を忘れて暴れ出す。
されども平門は名前のそんな弱々しい抵抗をものともせず、彼女がもがけばもがくほど殊更強くなっていく力。
触れる素肌から伝わる温度が、じわじわと甘美な麻薬のように名前の身体を蝕んでいって。
不可抗力で目蓋の裏が熱くなる感覚に、名前は深みから抜け出すよう頑なに瞳を閉じた。

「いや、やだ、きらい、嫌い」
「名前、」
「平門も、何より私も、私が、一番きらい」
「……お前、 俺だけでなく俺の好きなものまで否定する気か?」

駄々をこねるようにかぶりを振って心を閉ざす名前に、痺れを切らしたのか平門の声色が低くなった。
否、それだけじゃない。
名前が不用意に放った一言に彼の機嫌はより下降して。金縛りに遭ったかのようにたちまち固まった身体を、平門は適度に距離を離して面と向かい合った。

「──ああ、そうだな。お前は馬鹿だ。救いようのない、度しがたい大馬鹿者だ。何故気付かない、気付こうともしない。お前があの場に居たことなんて知っていた。知ってて、やったんだ。お前がどんな顔をするか、反応を見せてくれるか試したくてな。なのに何も言ってこない上、その間に一人で抱え込んで自分のことを責め、仕舞いには嫌いだと? 冗談も休み休み言え。大概にしろ。それ以上俺の大事なものを侮辱するなら例え名前でも許さない」
「……」
「臭いものには蓋をしろ、とイヴァは言ったが正しくその通りだよ。今まではお前の前では明かさなかっただけで、本来の俺はこっちが本性だ。お前の色んな一面を見るためなら何でもする、如何なる状況でも利用する」

嫉妬に歪んだお前の顔は、とてつもなく可愛らしかったよ。
雄弁に語られた話の内容に絶句するしかなかった名前は、ニコリと愛想の好い笑顔を浮かべる男を見上げ、身に余る危機感に背筋を戦慄かせた。

いつもいつも人を手のひらの上で転がすような平門が、いいや、実際転がされていたわけだが恥ずかしげもなく赤裸々に暴露されたとんでもない秘密に、今頃になってとんだ男に捕まったとおののいても時既に遅し。
自分の醜い心情なんて、いくら自分がもみ消そうと足掻いてもこの男には筒抜けなのだ。

「っズルい。平門ばっかり何でもかんでも人の思考見抜いて、理解してますみたいな余裕な顔して振る舞って」
「名前は考えていることが手に取るように分かるからな。とは言え、俺にもたった一つだけ分からないことがある。……お前が好きで好きで、どうしようとな」
「……煮るなり焼くなり?」
「それは流石にしないが」

名前の言葉に苦い笑みを零し、平門が額を合わせる。曇りのない瞳を真っ直ぐに見つめて、

「体の隅々まで、余すとこなく美味しく頂きたいかな」
「…………ばぁか」

案の定、予想していた悪態にふと微笑んだ。
拗ねると姿勢が丸くなる癖も、泣きそうなのを懸命に耐える姿も、花開くようにあどけなく笑う表情も。
ぜんぶ、ぜんぶ。

「──好きだ」
君だから、貴方だから。
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