ちょうど今から半月ほど前の二月十四日。
つまり聖バレンタインデーとは、主として女性が男性に親愛の情、または告白の意を込めてチョコレートを贈与する勝負の日である。勝負とはチョコの数を競う男性陣にとっても、好きな人に渡す女性陣にしても、だ。
そしてそれは俺も例外ではなく、バレンタインに近付けば近付くほどに浮き足立って平静では居られなくなっていた。油断するとついほっぺが緩んじゃって、花礫くんやツクモちゃんからはドン引きされるくらいには舞い上がっていたのだ。

とは言え俺の場合、恋人である名前さんからチョコレートを貰えるとは思っていなかった。
モノグサで俺より男らしい名前さん。林檎の皮を剥くのでさえ手間が掛かるからってそのまま丸かじりしちゃうし、料理もからっきしってワケじゃあ無いんだけどメンドイって言って途中で俺に投げることもしばしば。
そもそもバレンタインなんて行事に名前さんが興味あるのかさえ疑問だったし、覚えていたとしても率先して動くようなことは天地がひっくり返っても無いだろう。
だから当日は俺がチョコを作って名前さんに食べてもらおうと目論んでいたんだ。最近は逆チョコって言って、男から女の人に渡すことも珍しくないっていうし。
それにバレンタインっていうのは地域によって習わしが違うみたいで、男性が花束や甘いものを買って女性に感謝を伝える日としている所もあるようだ。
「これだー!」と俺は思い立った。

普段俺みたいなのと付き合ってくれてありがとうって、面倒くさいって言いながらもお世話焼いてくれてありがとう、これからも宜しくねって、返礼ってほどでは無いけどかねがねより万謝の気持ちを伝えたい。花束とかは「邪魔」って言われそうだから、消費出来るもの。となると食べ物イコールチョコっていう発想に至って。
色んな準備をいそいそと仕込みつつ、いよいよやって来たバレンタイン当日。
勝負の日、本番。
カチンコチンに緊張しながらも恐る恐るお手製のフォンダンショコラを渡せば、

「え? チョコ? ……ああ、そういえば今日バレンタインだっけ。ありがと」

……反応、うっすー……。
受け取ってはくれたものの、淡々とした対応に俺はガックリと項垂れた。もうちょっと喜んでくれたって……いや、最初からそんな過剰な期待はしてなかったけどさ〜……。さほど重要でない物のように名前さんの横に置かれた(愛がたっぷり籠もった)チョコを見ながら、俺は心を涙で濡らしたのだった。

「名前さんがすげない……」
「いつものことでしょ」

特にアンタに対しては、と姐さんに泣きついたら間髪入れず切り捨てられた。
これも毎度お約束の展開だった。
常通り名前さんに素っ気なくされてヘコんでいるところを、名前さんの親友でもあるイヴァ姐さんにけんもほろろにあしらわれること。
確かにごもっともなんだけど、めげている時にこうもズバッと事実を畳み掛けられると流石に打たれ強い俺でも気が滅入る。
だからって俺はそんな名前さんだからこそ好きになったワケだし、今更どうこう言って態度を改めて欲しいとか、ましてや別れるなんて論外なんだけど!!
でも、でも。

……せっかくのバレンタイン、名前さんとイチャイチャしたかったなあ……。
結局あの日は名前さんの仕事が立て込んでて二人っきりで過ごすことは叶わず、俺の理想プランは夢のまた夢で儚く終わった。世間の恋人達は妬ましいくらいにイチャイチャラブラブして一夜を明かしただろうその日、俺は冷え切った布団に一人で、ニャンペローナ人形を名前さんの代わりとして抱き締めながら悶々とした想いを持て余しつつ眠ったのだ。
腕の中の柔らかい感触は、されど俺が狂おしいほど恋い焦がれてる温もりじゃなく。朝起こされて羊に「寝言で名前の名前を叫んでたメェ」と教えられた時の恥ずかしさといったらとても筆舌には尽くしがたい。
いっそ近くに穴があったらなりふり構わず入ってしまいたかった。

────ここまでの流れは、本当に決まってお馴染みのことだった。
ただ今回一つだけ違ったのは、始終呆れ顔しか見せなかった姐さんが暫し考えるような仕草を取って口を閉じたこと。降りた沈黙に俺は訝しみつつ、姐さん? と小首を傾げた。
姐さんは俺みたいに饒舌って方じゃないけど、話し掛ければきちんと応えてくれるし、滅多に会話が途切れることは無いから突然黙り込んで不思議に思ったんだ。
具合でも悪くなったのかな、そう俺が一抹の不安を寄せた時、姐さんはおもむろにニヤリと片頬を上げた。まるで「イイコト思い付いちゃった」と言わんばかりに。

「與儀。アンタ、名前の気を引きたい?」

投げ掛けられた問いに速攻で頷いた。
あの無頓着な名前さんが俺を見てくれるなら、少しでも気にかけてくれるなら、意地悪かもしれないけどどんな事だって厭わない。あ、いや、名前さんが悲しむようなことは辞退したいけど。
しかしのちに姐さんから提案された策に俺は瞠目した後──乗り気では無かったけど、「名前に構ってもらえるかもよ」と魅力的な言葉に釣られて大きな賭けに出てみたのだった。
…………が。


「──あぁあっもうムリィッ! 名前さんとマトモに話せないなんてやだよ〜っ! 俺が干からびちゃう、名前さん不足で死んじゃう。名前さん名前さん名前さん〜っ!!」
「っこの堪え性なし! まだ三日よ!? 今からそんな音をあげてどーすんの!」
「嫌なモンは嫌なのーっ!! 名前さんの声が聞きたい、名前さんを抱き締めたい、優しい香りを堪能して、頭撫でてもらって、ギュってしてちゅーして、もう一生離したくないうわぁぁああ!!」
「……ダメだこいつ重症だわ……」

たった三日、されど三日。俺の方がリタイアしそうな勢いだった。
だってもう三日も名前さんとロクに話せてないんだよ。名前さんが話しかけてきてくれても業務上での必要最低限な会話だけ。姐さんに言い付けられて「今日は天気がいいわねー」なんて他愛ない話でも「そうだね」としか返さない。適当な相槌に適当な態度。
いつも名前さんが俺にやっていることをやり返してやんなさい、とのイヴァ姐さん仰せのことだった。

だけどそうする度に罪悪感が募って、俺の胸は張り裂けそうで、直ぐにでも名前さんにネタ明かしして土下座したいくらいだった。
二度とこんなバカみたいなマネしないから許して〜! って抱き付いて頬ずりして、名前さんの存在を腕の中でじっくりたっぷり噛み締めたい。そしたらホンットしょうがないわね、なんて苦笑いしながら、名前さんは俺の背中をあやすように撫でてくれるだろうから。

「好きだって言いたいよ、大好きすきすき名前さん愛してるぅ〜!」
「るっさい!」

にべもなく撃沈させられた。イラついた様子の姐さんに頭を引っ叩かれて、やり場のない想いを堪えながら俺は「だってぇ……」と涙ながらに机に突っ伏す。こうでも愚痴らないとやってらんないんだよ。
俺たち二人の計画は滞りなく実行されてるワケだけど、一向に名前さんには俺が望むような変化は無いし、かといって関係が悪化したワケでも無い。とどのつまり膠着状態。万策尽きて打つ手もこれと言って無し。
続けても意味あるのかなコレ。俺が名前さんに飢えるだけじゃない? 辛いし、切ない。
寂しくて寂しくて耐えきれない。ウサギって寂しいと死んじゃうんだからね。俺が干からびて死んじゃったら名前さんの所為なんだからね。とは言っても俺がやってるのは猫だけど。

早くも挫折感に打ちひしがれてる俺を見て姐さんはため息を吐いた後、やれやれと肩を竦めて「シャキッとしなさい」と窘めた。
顔を上げれば案の定、呆れつつも苦笑していて。

「間抜けねえ……バレンタインがダメならホワイトデーが残ってるでしょ。タイミング良く名前もその日はオフみたいだし、なけなしの勇気奮って誘ってみたら?」
「ホントにっ?!」
「嘘言ってどうするのよ」
「…………行ってくる!!」

辛抱も限界だった俺は出し抜けに立ち上がって、今も仕事中だろう名前さんの元へ一目散に駆け出した。これから名前さんに会えると思ったらなんだか物凄く身体が軽いや。今なら腕輪の力なんて無くても空も飛べそう。
憂鬱から一気に有頂天になった俺の後ろ姿を見て、イヴァ姐さんが「仕方ないわね」と頭を抱えていたことを俺は知らない。
ここには居ない名前さんに向かってお膳立てはしてあげたからね、と呟いたことも。

ALICE+