――ああ、体がなんだかだるい…。
不思議と嫌な感じはなく、運動をした後のすっきりとしただるさだ。
目覚まし無しで起きたのは何か月ぶりだろう。ここのところ激務に次ぐ激務でろくに寝れていなかったが、だいぶ質の良い睡眠がとれたらしく体はとても心地よかった。今日は休みだ。1つのヤマが片付いて、やっと安心して休めると分かったうえでの本日の休みが無ければ、昨日の飲み会も断っていただろう。縮こまっていた体を伸ばすように足を伸ばすと、シルクのような滑らかなシーツが皮膚を撫でて気持ちいい。
………シルク?
私の家のシーツは麻のものを使ってはいなかったか?心なしか広い気もするベッドで寝返りをうって、朝から絶叫――しそうになったが、動揺した喉からは音が声にはならず、ひぐ、と引き攣っただけだった。
――っな、なんで!?
なんで隣に風見さんが寝てるの!?
寝返りをうった先には、一瞬誰かわからなかったが99%の確立で風見さんが寝ていた。
彼が小休憩にコーヒーを飲む際、眼鏡を外すのを何度か目撃したことがある。安らかな寝顔とは言い難いが、眉間に皺も寄っておらずいつもより幾分か穏やかな顔をしていた。…いやいや、穏やかな顔をしていた、じゃない。ちらとサイドボードを見ると、彼がいつもかけている眼鏡が乱雑に置かれていた。はい、100%風見さんです。
な、なん、なんで…動揺する脳とは裏腹に、私の目は状況を理解しようとぐるぐると視線を巡らせていた。風見さんは、上半身に何も纏っていなかった。見る勇気はないが、きっと下半身も裸だ。わたしも自分自身を手で確認してみると何も身にまとっていない。いやこれは…確定だろう。うん、何時までことに及んだのかもさっぱり覚えていないが、外気に触れる部分は乾いていても、その…ある特定の部分の体のナカは、いつもとは違う違和感が確実にある。下半身に力を入れると、ぬるりとした感覚に冷や汗が背中を伝った。
この後処理もままならないような状況――私の知る限り、彼はそんな人間ではないはずだ。いや、彼とこういった状況に陥ったことは無いので、プライベートでは適当ですってオチならあり得る話かもしれないが。…そして私はというと、昨日の記憶は飲み会の中盤からスコンと抜け落ちている。仕事の疲れが酒をこれでもかというほど回してくれたんだろうと自嘲すると、脳は冷静さを取り戻していく。
目の前の彼はどうなんだろうか。きちんと意識が明確な状態でことに及んだのか、そして起きた後それを覚えているのかいないのか。…分からない。私に好意を寄せている素振りは全くなかったし、きっと…いや、うん、確実に、私が誘ったんだろう。
わたしは少なからず、この上司に尊敬の念を持っていた。真面目で仕事ができて、厳しく指導してくれるなかに優しさを隠しきれない不器用な人だった。一緒に仕事をしていく中で、そんな不器用さが可愛いと感じたり、なにかと動作を目で追ってしまうようになっていた。いわゆる淡い片思いであったが、私はその気持ちを1ミリたりとも表面には出していなかったはずだ。隣で役に立てるだけでいいと思っていた。でも、そんなのは建前であの大きな手に触れてほしいと、本心では思ってしまっていた。そんな卑しい欲が、まさか酒の力によって本人にぶつけてしまう結果になろうとは思ってもいなかったが。
「すごい、人間って本当に絶望したときって、ため息をつくのすら忘れるんだ。」
そんなどうでもいいことを考えるまでメンタルが回復したところで、シャワーを浴びたいという人間らしい欲求が顔をだした。もう、やってしまったものは仕方がないのだ。起きた彼がどんな反応をしても耐えられるよう、いろんな可能性を考えながら、熱いお湯を浴びたかった。
そうと決まれば目指すはシャワールームだ。初めて見る上司の寝顔をもう一度だけ目に焼き付け、起きないようそっとベッドを後にした。
私の今の状況は、まるで良く聞く”袋の鼠”だ。まったくもって360度逃げ道がない。一番笑えるのはそこまで私を追いこんでいるのが自身を抱いた男ではなく、自分自身のくだらない恋心ということだ。
きっと彼は覚えていないだろう。その時は私も覚えていないと正直に謝ろう。笑顔だ。笑顔で、気にしないでほしいと告げ、これまで通りに接してほしい旨を伝える。完璧だ。覚えていたとしても一緒だろう。男性は、気持ちが無くても女を抱けると誰かが言っていた。彼がきちんと意識があって私を抱いたからといって縋り付くようなみっともない真似はしたくない。重い女が彼を困らせることは、近くで彼を支えてきた私が理解しているつもりだ。こうなってしまったことを彼は謝罪してくるかもしれないが、むしろ公私ともに潔白であったであろう彼を汚してしまったのは私なのだ。無かったことにしたいなんて当然であり、私は当たり前ですと笑い飛ばすぐらいでないといけない。
私と彼のどちらのチョイスかはわからないが、とても綺麗でそこそこお高そうなホテルだった。内装でもそう感じていたが、お風呂のアメニティを見て確信した。わたしはこんなホテルを使ったことはないし、きっと入口にあるフロントで尻込みをするだろう。きっと彼のチョイスなのだ。べつにどちらでも幻滅はしないが、安いラブホテルをチョイスしない風見さんってかっこいいなあと思ってしまう。私の馬鹿。
「――ああ、だからかぁ。」
涙なんて出ない。その代わりというように流れ落ちた白濁の液体を見ても、不思議と悲しさや怒りはこみあげてこなかった。自分の口から零れたセリフ同様、なるほどなあという、それだけの感情。
もちろん処女ではない。そこそこいい年齢だ。ワンナイトなんて最低!と憂い反応をする気も微塵もない。
自分の意思で酒を飲んだのも、一緒にホテルに来たのも自己責任だと理解しているし、恐らく私が誘ったのだとも、今までの経験上納得している。…自分自身の名誉のために言っておくが、今までワンナイトの経験が豊富というわけではなく、記憶を飛ばしても友人曰く通常と変わらず言動もいつも通りで嫌なことは嫌だとハッキリ言っていたらしい。いや、私は誰に言い訳をしているんだ。落ち着け。
さっぱりと泡が流れ落ち考えもある程度まとまったところで、――せっかくなら覚えておきたかったとか、どんな表情だったんだろうとかそんな浅ましい考えがよぎったが、それもレバーを押して完全に止まったシャワーの音と一緒にお風呂場が飲み込んでいった。
ゆっくりシャワーを浴びながら頭を整理できたおかげで、気持ちはだいぶ落ち着いていた。
そういえば着替えを持ってくるのを忘れたため、バスローブを身にまといベッドルームへ戻ると、風見さんは起きて間もない様子で上半身のみ起こし、眼鏡に手を伸ばしていた。あ、やばい。
「風見さん!見えます、ふ、布団上げてください!」
慌てて半ば叫ぶように言えば、風見さんはそんなことお構いなしという様子でバッとこちらを見た。いや、怖いから!あと、ほんとに見えそう!なにとは言わないがナニが!
やはり眼鏡無しでは見えなかったのか、真っ白な掛け布団を手繰り寄せた後眼鏡をかけてこちらを改めて視界に入れた風見さんは、驚いたような、焦ったような――失敗した、というような、苦い顔をしていた。
シャワーを浴びながらある程度のシミュレーションをしたはずの脳は思考を停止したように何も言葉を練りだせず、落ち着けたはずの心臓はあっという間にドクドクと打ち付けてうるさかった。
――私、だめだ。その表情を見るのが、つらい。なんで平気だなんて思えたのか。思った以上に私は自分の気持ちに無頓着であったらしい。結局ショックを受けて固まってしまうなんて、みじめだ。
何かを諦めたように、風見さんは私でも分かるくらい一度唾をのみこんで、口を開けた。
「苗字、その、すまなかった。こちらへ、来てくれないか。」
大きな手が風見さんの座るベッドのふちを差し、私を誘導している。頭では理解しているのに、気まずそうな表情をされて、予想通りのはずが謝られてしまったことに体の芯がショックを受けているらしく、足が震えて動かなかった。
こちらへ来てほしいという風見さんの声が届いているはずなのに一向に動こうとしない私に、風見さんは続けて「…嫌じゃなければ、来てほしい。」と続けた。その指令に従うように、一歩、一歩と足は動くのに、私にその感覚は届いていないようだ。足が冷たい。何を言われるかが、怖い。
やっと風見さんの座るベッドの隣に立つことができた私を、風見さんは顔色を窺うように見つめた後、視線を下に下げると私の左手を自身の右手で救い上げ、そっと握った。
「…体は。」
「え、」
「体はなんともないか。どこか具合の悪いところや、痛いところは。」
「ありま…せん。」
気遣われている。それもなんだかこどもみたいに。その優しさにジンとする。それと同時に、こんなに近くにいるのに下げたままの視線は私の手を見つめるばかりで、視線が合わないことに無性に涙が出そうだった。
風見さんの様子では、覚えているのか覚えていないのか、現状どちらか分からなかった。
じゃあ、「すまなかった。」は何に対して?
そんなの決まっている。昨日のことを無かったことにすることに対してだ。誰が言った?シャワーを浴びながら私が言ったのだ。
は、と風見さんが息を吐いた。ひやりとした。何も言わないでほしい。分かっています、大丈夫です。
わたしは自分の心が傷つく前に、バリケードを張ることを選んだ。だってしょうがない。この人が好きで仕方がない。そんなことに、どうしようもなくなってしまった今、気づいてしまった――。
「か、風見さん!あの、ごめんなさい!私、実は何も覚えてなくて、本当に、…申し訳ありません!」
思ったより声を張ってしまったが、そのかわりに震えずに済んだ。風見さんが顔を上げたのが視界に入ったが、私は右に首ごとずらして知らないふりをした。そうでもしなければ、これ以上言葉を紡ぐ自信がなかった。
「ごめんなさい、でも――私が誘ったんですよね?すみません、欲求不満だったんでしょうか。そんなつもりはなかったんですが――あ、いやえっと…あの、そうじゃなくて…大丈夫ですから!風見さんは私に巻き込まれたんだって分かっています、大丈夫です。風見さんには嫌な思いをさせてしまいましたが、あの、忘れましょう、お互い。お酒に酔った一晩の過ちなんて私初めてでなんだか自分も大人になったんだなって――…」
完全に墓穴を掘り、最後の言葉は尻すぼみに消えてしまった。初めてとか言うな、馬鹿。ああ、風見さんが気にしてしまったらどうしよう、軽い女を演じて風見さんの気が少しでも軽くなればと思ったのに、混乱した頭が使い物にならなさすぎてダメだ。
風見さんの握る手が、ギュッと力が入ったのが伝わって、なんだかもういたたまれない。慌てて手を引き抜いて、風見さんが何かを言う前に「あの、用事があるので着替えて帰ります、本当にすみませんでした!」と一礼とともに言葉を吐き捨て、ベッドルームを飛び出した。彼が私を呼ぶ声は、乱雑に閉めたベッドルームの扉の音で聞こえないふりをして。
追いつかれる前にと慌てて着替えを済ませソファを見ると、私のカバンが丁寧に置かれていた。適当に床に落とされている風見さんのジャケットと、キレイにソファに掛けてある私のジャケットがあまりに対照的で、初めて涙が出た。
覚えていないのにわかる。ハンガーに掛ける余裕がなかったことも、そんな中でも彼が優しかったであろうことも。