世界は黒く、そして赤い。
それは炎であり、時に瘴気であり、あるいは血だ。

1人、幼い少女が立ち尽くしている。呆然と世界が崩壊していく様を見上げるその背中に、私は声をかけた。

「――――」

確かに声を発したはずだが、私の耳はもう音を拾わない。
しかし、少女には私の声が届いたようで、驚いたように振り向いた。
私と同じ背丈。私と同じ肌の色。そして私と同じ顔。
暗く、深い怒りを湛えて世界を睨んでいた彼女の瞳が、僅かにその色を揺らす。

それを確認したのが最後。
薄らぐ意識と暗転する世界の中で、眼を見張る彼女に向けて、私は私だけの願いを口にするのだ。

その怒りを。その瞳を忘れて、ただ生きて欲しいと。



1.
気分屋と仏頂面



世界の名はオールドラント。
その南に位置するダアトの街は、今日は穏やかな天候に恵まれたらしい。
朦朧とする意識を徐々に覚醒させながら、私は部屋の入り口から差し込む日の光に目を細めた。

ひとつ大きく欠伸をして、思い至るのはさっき見た夢。
あの悪夢を見るのは連日徹夜をして寝落ちた日に限る。
案の定今の私は煤けた小さな木箱に座りっぱなし。足元にはいつのまにか手から滑り落ちていた工具と、直しかけの音機関が転がっていた。

ただ、隣に置いていたランタンの灯りは消えていない。
そんなに長い時間寝ていたわけではないらしい。

「流石に寝るかぁ……」

そうひとりごちて、ふいと灯りを吹き消す。後は工具室の扉を閉めさえすればよしだ。
どうせ自分以外は入ってこない部屋。ここで盛大に大の字になって寝たところで誰にも見つかりゃしないだろう。

回りきらない頭で安易にそう結論づけ、のろのろと立ち上がる。部屋の扉を閉めようとドアノブに手をかけた、が

「おい」

声が降ってきた。
見上げれば、扉の隙間から緑の瞳がのぞいている。

よくよく見慣れたその瞳とかち合うや、私は咄嗟に手元のドアノブを引き寄せた。
しかし、相手はそれを先読みしていたのか、即座に扉のへりを掴んでくる。
いつもであれば簡単に押し勝てるというのに、なかなかどうして体に力が入らない。
お互いに引っ張り合う格好の中、私は仕方なく相手を睨みつけた。

「もうマジで、寝ないと死ぬから勘弁して」
「手前が勝手に徹夜して、勝手に死にそうになってるだけだろうが」

容赦なく吐き捨てて無理やり扉を開けにかかるのは、私よりも幾分か年若い赤毛の少年。
眉間にしわを寄せたその顔は、彼を知らない人間が見れば距離を取ること間違いなしの仏頂面だ。

見つかった以上どうしようもないか。

そう思い直し、扉を閉めることは早々に諦めた。私がぱっと手を離せば、奴は一気に扉を引き開ける。

私は目一杯浴びることになった日光を遮るべく、両腕で顔を覆った。

「あー、もう溶けるー」
「いっそ溶けろ」

我ながらなんと気の抜けた声。
伸びをする私に簡素な毒を吐き、呆れ返ったように見下ろす少年。
彼は自身の鼻を若干ひくつかせると、元々の眉間のシワをより深く刻んで顔をしかめた。

「仕事熱心なのはいいが、風呂くらい入れ。いつから入ってねぇんだ」
「え?えーと」

涙が数滴溢れでる目をこすっていた手を止め、少年の言葉を受けて思案にふける。

風呂?あー。
記憶にない。

「忘れた」
「……最後に飯を食ったのはいつだ」

そういえばいつだったっけか。

ここ数日まともに食事をとった記憶もないや。

うん?いやまて、一応はある。

「アッシュにサンドイッチもらった時かな」
「いつの話してんだ!2日も前だろうがバカが!」
「おぉー、マジか」

アッシュが声を荒立てるが、気にしていてはキリがない。
すっかり怒られ慣れているので、ダメージはゼロ。

「あー、でも、確かにお腹すいたなぁ」

先程から体に力が入らないのは、睡眠不足に加えて空腹のせいだったか。

自分のお腹をさすりながら扉から顔を出して辺りを見渡す。
だだっ広い廊下に人の気配はない。
こめかみを抑えるアッシュを見上げ、

「てか、今何時?食堂やってる?」

と問えば、彼は肺の中の空気を全て吐き出す勢いでため息をつき、ビッと私の鼻先に人差し指を突きつけた。

「今は6時だ。取り敢えず風呂に入れ。食堂はその後だ」
「んなー、先にご飯食べたいんだけど」

のんびりそう答えてやると、アッシュのこめかみがピクリと動く。
相変わらず切れやすい堪忍袋だ。と思うや否や、首根っこに衝撃が走り、カエルが潰れたような声が喉から鳴った。

「ンなカビ臭い奴と飯が食えるか!いいから来い!」
「ぐえぇ!!襟を引っ張るな!!」
「うるせえ!」
「いだーーーッ!!!」

ガツンという鈍い音。
穏やかな天候の下、だだっ広い廊下に私の喚き声とアッシュの怒鳴り声が反響していた。

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