”影踏み鬼”で鬼だった者が、他人にその役割を奪われるパターンにわたしはいまだかつて出会ったことがない。この遊びをしたことがある人なら誰だってそうだろう。それがあまりに荒唐無稽な話だからだ。
しかし、その首謀者がフロイド先輩なのであれば話は変わってくる。なぜなら彼を前に、”常識” や ”ルール”といったものはすべて無に帰すからだ。だから、エースが息も絶え絶えに「フロイド先輩に鬼を奪われた」と言ったとき、わたしは無条件でその話を信じた。信じるも何も、それが真実だからだ。
異常事態が起こっているらしい、ということは、すぐにほかの仲間たちにも伝わった。フロイド先輩の楽し気な笑い声を頼りに影の中を移動してきた仲間たちが、こちらを伺う。そして彼らは顔色を変えた。思った以上にマズい事態になっていることに気づいたのだ。
「フロイド先輩!ストップ!ストーップ!!」
エースが両手を広げ、通せんぼをするみたいにして大声を上げた。彼の後ろにはわたしが控えている。なんだかんだ、わたしとフロイド先輩の関係のことを気にかけてくれているらしいエースの行動に、少しだけ嬉しくなった。
しかし、そんなエースとフロイド先輩との距離はほんの1〜2mしかない。わたしたちの近くに手ごろな影はなく、フロイド先輩が大股で一歩を踏み出せばすぐに捕まってしまうだろう。
「あの、ちゃんとやりません?!このゲーム!」
「あ?だからぁ、カニちゃんたちは影ん中を逃げ回ってて、そのカニちゃんたちを引きずり出して捕まえれば良いゲームでしょ?」
「うーーーん、合ってるようで合ってない!だからいったん、ルールのおさらいしましょう、ね!!」
ここでエースは息を整えるように大きく深呼吸をし、唾を飲み込んだ。
「まず、オレらのルールなんすけど、えっと…影に潜んでいられる時間は”10秒”で…」
いきなりルールの水増しをするエース。10秒間影の中にいていいのはわたしとグリムだけで、エースたちは5秒間という決まりだったはずだ。
「んで、鬼の方は最初に10秒数えてから追いかけはじめるってのが基本で。捕まえたら鬼はバトンタッチってことでお願いします。あ、監督生とグリムにはハンデがあって、こいつらを見つけたときだけは、5秒数えてから追いかけるようにしてください。それから、えーっと……」
時間稼ぎもだんだんとキツくなってきたエース。必死に言葉を捻りだそうとしているところで「てかさぁ」とフロイド先輩が声を上げた。
「そのルール、ぬるくね?そんなんじゃオレ、すぐカニちゃんたちのこと捕まえちゃうよ?」
「へ……」
「捕まえたら鬼交代とかどーでもいいからさ、全員捕まえたらオレの勝ちにしてよ。で、捕まった奴らはオレのこと妨害していーよ」
そう言ったあと、フロイド先輩はエースの後ろにいるわたしを覗き見るように、こてんと首を傾げた。
「小エビちゃんを捕まえるのは一番最後にしてあげる〜。あはっ、オレって優しーじゃん」
エースが返事を伺うように背後のわたしに視線を送る。「お前はこのルールでいいのか?」と聞いているようだ。とはいえ、フロイド先輩によって下された決定事項をを覆すことはまず不可能だ。なるべく事を荒立てないためにも、今は彼のルールで遊びを終えるしかない。わたしが小さく頷くと、エースも神妙な顔で頷き返した。
こうしてフロイド先輩の緊急参加により生まれた”新たな影踏み鬼”がスタートした。
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まず最初に犠牲になったのはエペルだった。「うわぁああ!!!」という悲鳴に近い叫び声が上がった方を見ると、フロイド先輩によって米俵のように肩に担ぎあげられたエペルがジタバタと暴れている。たまたまわたしの隣にいたセベクがそれを見て「恐ろしすぎる…」と、これまた恐ろしいほど小さな声でつぶやいた。
続いて犠牲になったのは、なんとジャックだった。陸上部のエースで体力勝負なら誰にも負けないタフマンのジャックが、だ。そんなジャックの雄叫びが聞こえ、わたしたちは彼がフロイド先輩に捕まってしまったことを悟った。
フロイド先輩に捕まった者は、彼を妨害していいことになっている。だからエペルとジャックはストーカーのようにフロイド先輩をつけまわし、一心に妨害を試みた。しかし、たった2人の妨害役がいるところで、フロイド先輩の勢いを止めることはできなかった。
…デュースが捕まった。「チクショー!!!」という声のあと、「絶対にリーチ先輩を止めて見せる!」「見てろよ!」などという悔しさに満ち満ちた叫び声が続いた。さらに、ほどなくして「ふなぁぁあ!!!」と虐待でもされたかのようなグリムの声も聞こえた。フロイド先輩はきっと流れ作業のように、デュースとグリムを順番に捕まえたのだろう。わたしの向かいの影に隠れていたエースの顔が真っ青だった。
「逃げろ人間!!!」
そう言ってセベクがわたしを突き飛ばした。瞬間、セベクの首にフロイド先輩の長い腕が巻きつく。恐ろしい光景を目の当たりにしてしまった。わたしは転げるように影の中を走る。夕刻が近づき、だいぶ影が長くなってきたのはよかったが、そんなこと意に介さないくらいフロイド先輩の足は速い。ああ、どうしよう。すぐそこまで来ている。”わたしの番”が。
それから、だいぶ粘ったように思う。さすがに運動部の男子たちにまとわりつかれると、フロイド先輩も足止めを食らう場面が出てくるらしい。ひらりひらりとエペルとデュース、グリムの妨害を交わすフロイド先輩。すると今度は壁のように大きなジャックとセベクが道を塞ぐ。この連携の取れた妨害のおかげで、わたしとエースはだいぶ遠くまで逃げおおせた。
+ + +
なるべく見晴らしの悪い場所を目指した結果、植物園周辺まで戻ってきてしまった。一方エースはその向かいの魔法薬学室付近の影に身を隠している。散り散りになった方がいいのに、友人として何か責任を感じているのか、彼は常にわたしが見える範囲の場所に身を潜めるようにしていた。
「鬼がー!植物園の方にー!向かっているぞー!!」
突然、轟くような声が上がった。セベクがわたしたちに危険を知らせてくれたのだ。
「…それってフロイド先輩があいつらを撒いたってことじゃん」
そう言うとエースが影から飛び出す。
「監督生、逃げるぞ!!」
しかし、その判断はすでに遅かったらしい。バサリと木々が揺れると、エースの後ろに何かが落ちてきた。
「はい、カニちゃんご愁傷様ぁ〜」
エースが振り向くよりも先に、その長い腕を彼の首に巻きつけたのは、息一つ乱していないフロイド先輩だった。
「いーち、にーい、」
フロイド先輩がニヤニヤしながら数字を数えはじめ、わたしは我に返る。気づけば魔法薬学室の方向へ走り出していた。
「バッ…!そっちは行き止まりだぞ…!!」
そんなエースの声が聞こえてきたが、もう引き返すことはできなかった。
空はすっかりオレンジ色になっている。ケイト先輩が「映える〜」と言いながらスマホで写真を撮りそうなほど、美しい茜空だ。けれど今はそんな空を見上げている余裕はなく、ただひたすら足を動かし続けた。
やがて、エースの言っていたことは本当だったと気づいた。数メートル先には大きな湖が広がっている。もちろん湖にも終わりはあるが、この巨大な湖を迂回しようものなら一瞬で鬼に捕まってしまうだろう。”絶体絶命”とはこういうことなんだ、と絶望を感じた途端、足が鉛のように重くなった。背後では軽やかな足音が近づいてきている。振り返って距離を確認する勇気もない。
そんな風にあまりの恐怖と焦りで思考が鈍っていたからなのだろう。わたしは目の前の大きな湖の一部に、大きな影ができていることに気づいた。湖を囲うように生えている雑木林が影を作っているのだ。
「影だ」―――そう思った瞬間、わたしは湖に飛び込んでいた。
+ + +
一番はじめに、暗い、と思った。湖の中が思った以上に暗かったのである。それから、凍えそうなほどの水の冷たさが肌を刺す。わたしはすぐに、自分がどれだけ無茶な行動に出たのか自覚することができた。
とにかくまずは水面に顔を出さねば、と両足に力を込めるも、その足はただ水中を蹴っただけだった。途端に全身から血の気が引く。つまりこの行為は、わたしがまだ湖の底にたどり着いていないということ、この湖がそれなりの深さを持っていると決定づけたからである。
フロイド先輩にボロ小屋に閉じ込められ、水責めにされたときのことを思い出す。状況はあのときよりずっと悪い。わたしは今一人きりで、そして摑まれるものも何もないのだから。パニックを抑えきれず、口の中の息を吐いてしまう。ゴボゴボというくぐもった音が余計にわたしを恐怖に貶めた。
暗くて、寒くて、怖い。心臓が握りつぶされるように痛い。
膜がかかるように、徐々に頭がぼんやりとしてくる。そんななか、わたしは最後の力を振り絞って頭上に手を伸ばした。すると何者かがその手を掴み、ものすごい勢いでわたしを引き上げた―――。
「ナマエチャン、無茶しすぎなんですけど」
咳き込むわたしの背中を撫でながら、フロイド先輩が呆れたように笑う。彼は人魚姿でわたしを抱えていた。
「あのさーナマエチャンは人間なんだから、そういうことしたら本当に死ぬよ。ちょっとは考えたら」
デスゲームかのような過度なプレッシャーを与えながら追いかけてきた鬼が、一丁前にわたしに説教している。しかし今は反論する元気もなかった。
「まぁでも、オレの勝ちだね。はい、捕まえた〜」
フロイド先輩は、ぎゅ、とわたしを抱きしめた。フロイド先輩の体はひんやりしていて、およそ体温など感じられない。しかし、この恐ろしい湖の中で唯一わたしの命を支えてくれる存在という心強さに、わたしも反射的に彼の首に両手を回していた。
「あはっ、なーにぃ?ナマエチャンもぎゅってしてくれんの?チョー嬉しい〜」
彼はそのままゆらゆらとその辺を遊泳して見せた。わたしとしては、やめてくれという気持ちでいっぱいだったけれど、やはり抵抗する元気がなく彼に身を任せた。
それからほどなくして、エースたち一行も湖に到着した。その頃にはフロイド先輩の手を借りて陸に上がっていたのだけど、全身水濡れのわたしと、人魚姿のフロイド先輩を見比べていた彼らの顔は一生忘れられないだろう。
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こうしてわたしたちの影踏み鬼は、急遽参戦した鬼・フロイド先輩の”圧勝”によって幕を閉じた。なお、寮に帰ってから1時間後、なぜかわたしの寮にはモストロ・ラウンジより温かい食事や飲み物、栄養ドリンク、風邪薬等々がデリバリーされた。
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