ひみつのおわり

フロイド先輩と交わってしまった日以来、わたしは一度もあの秘密の場所を利用していない。どんなに体調が悪くても、あそこで休むことはなく、大人しく保健室へと直行した。あの日の出来事を忘れたくてたまらなかったし、あの日のことを誰かに言いふらされていたら…と思うと、気が気でない。そんな心配事ばかりしているせいか、わたしはいつも心が休まらず、疲れていた。

だからだろうか―――わたしは実験でミスをしたり、レポートの提出を忘れたりと、以前よりも些細な失敗が増えた。そのせいで、補習を受けることもあった。まったく、何をやっているんだろう…と落ち込む日々が続いていたのである。

+ + +

その日も、わたしはひどく疲れていて、背中を丸めながらオンボロ寮に向かっていた。今日は大事な魔法薬の入った瓶を落とし、罰としてクルーウェル先生の雑用をこなすことになったのだ。お使いや資料整理、掃除、荷物運び…そうしたすべての雑用をやっとの思いで終わらせた頃には、外はすっかり日が落ちていた。

薄暗い道をゆっくりと歩く。あぁ、お腹が空いたな。でも今日はもう何も作る気にはなれない。グリムには前もって帰りが遅くなることを伝えていたので、先に夕食を済ませているだろうし、今頃わたしの部屋で食事のあとのひと眠りについているだろう。わたしだってグリムとそんなまったりとした時間を過ごしたかった。だけど現実は心も体もくたくたで、知らぬ間に深いため息をついている。
寮にたどり着くまでの道が随分と長い気がした。あと数メートルでドアに到着する、というところで何かがモゾモゾと動き、驚いて足を止める。よく見ると、寮の玄関ドアの近くに誰かが座っている。
「あはっ、しけたツラ」
そう言って立ち上がったのは、壁のように長身の男―――フロイド先輩だ。驚きのあまり、わたしは持っていた教材をすべて落としてしまう。
「なに、その面白ぇ反応。オレがここにいたの、そんなにびっくりした?」
フロイド先輩は長い脚を使ってこちらに寄ってくると、地面に散らばった教材をさっさと拾い上げた。
「とりあえず中にいれてよ。ね、小エビちゃん」
そう言って彼はわたしの肩に腕を回し、ずしりと体重を預ける。この時点でわたしに拒否権はない。フロイド先輩を寮に招き入れるしかないのだ。そう悟っているから、わたしは重い腕を肩に感じながら再び寮に向かって歩みを進めた。


寮に入ると、フロイド先輩は真っ先にキッチンへ向かった。薄暗い外では気づかなかったけど、彼は四角いバスケットのようなものを持っていた。何をする気なんだ、と若干気がかりではあったものの、とりあえずわたしは2階の自室へ向かう。
地面に落としたせいで薄汚れた教材たちを雑巾で拭い、そしてエースたちから支給された古着に着替えてから1階に戻る。すると、ふわりと良い香りが漂ってきた。コンソメの香りだ。カチャカチャと食器を動かすような音もする。まさか、夕食を作っているのか…?気になってキッチンを覗こうとしたが、その前に両手に皿を持ったフロイド先輩が現れる。
「小エビちゃん邪魔、大人しく座ってて」
「…はい」
彼がテーブルに置いた皿には、具だくさんのホットサンドが乗っていた。美味しそうなそれに目を奪われていると、今度はサラダやスープが目の前に置かれる。コンソメスープだと思っていたけれど、厚切りベーコンやジャガイモなんかも入っているので、ポトフに近いのかもしれない。
「あとフルーツタルトもあるから、食いたかったら食って。まぁ店の余りなんだけど」
いつの間にかテーブルについていたフロイド先輩が、わたしにスプーンとフォークを渡しながら言った。
「んじゃ、どーぞ」
聞きたいことは山ほどあったが、美味しそうな食事を前にそんなことは後回しだ。わたしは「いただきます」と言うと、まずは分厚いホットサンドに手を伸ばした。

+ + +

食後の紅茶を持ってきたフロイド先輩は、さっきまでのように正面ではなくわたしの隣に座った。途端に言いようのない圧迫感を覚え、わたしは体が緊張する。そりゃそうだよな、フロイド先輩がただ純粋に夕食を振るまってくれるわけがない、と思いながら湯気の上がるティーカップに目を落した。
「そんでさぁ、あれからぜーんぜん来てくんないじゃん、あの教室」
フロイド先輩は紅茶に一切手をつけず、わたしの横顔を見つめている。
「……まさかオレのこと避けてんの?」
久しぶりだ、このヒリヒリする感じ。
わたしとフロイド先輩は信頼関係があるようで、ない。これまであの教室での時間を通して、友情を育んできたように思えるけれど、結局はフロイド先輩の言うことを聞かなければ痛い目を見る…という関係は変わらない。フロイド先輩の言うことは絶対で、フロイド先輩が楽しいことが絶対なのだ。だからあの日も抱かれるしかなかったんだ、と今ではそう思える。

そんな絶対君主である彼が、わざわざわたしに会いにきた。手ごろな遊び相手(または玩具)がいなくなり、つまらないと駄々をこねに来た。…まあ、そんなところだろう、と諦めに似た感情を覚えるも、背中には嫌な汗をかく。
「オレ言ったよね。言いたいことあんなら、ハッキリ言えって。なのに小エビちゃんはずっと曖昧なまんま。あの日、寮の風呂に入ったあともさっさと一人で帰っちゃってさ、マジでなんなの」
この人は思い出したくもないことをほじくり返す。

たしかにあの日、行為を終えたあと、わたしはオクタヴィネル寮の風呂へと連行された。別々に入浴するのかと思いきや、わたしがシャワーを浴びていると当たり前のようにフロイド先輩も風呂場に入ってきた。彼は舐めるようにわたしの体を一瞥してから、バスタブに入る。そして、「汗流したら小エビちゃんもこっちおいでよ」とわたしもバスタブに入るようにと誘ったのだ。

……嫌だった。
あんなことをしたあとに仲良く風呂に入るなんて、嫌だった。そんな風に懐柔されるのは、たまらなかった。わたしはさっさと解散したかった。本当に馬鹿馬鹿しくて、いつまでもこんなセックスフレンドの真似事みたいなことはしたくなかった。だからシャワーを浴びた後、一言お礼を口にすると逃げるようにその場を後にした。幸い髪はあまり濡れなかったので、適当にバスタオルを拝借して体を拭き、制服を着て寮を出る。授業中ということもあり、誰ともすれ違わなかったのが救いだった。
しかし、あのときのことを彼は快く思っていなかったらしい。

「オレ別に小エビちゃんの気持ち、無視してぇわけじゃねーのに……一方的に避けるって話ちげーだろ」
無意識に肩が揺れた。凄みのある声を出されると、やっぱり怖い。そんなわたしの肩に向かって、フロイド先輩が手を伸ばす。するりと肩を撫でたその手は、そのまま膝の上で拳を作っているわたしの手を包んだ。
「だからぁ、今日はオレとちゃんと話そ」
ちゃんと、ってなんだ。別に喧嘩をしたわけでもない。ただ……ただ、セックスをしただけだ。その上でわたしたちが話すことなんて、ないはずなのに。…という思いは言葉に出さずとも、それは顔に表れていたらしい。

「はあ、小エビちゃんってマジ強情。なら、オレの質問に答えてよ、それならいいでしょ」
「……あ、えぇと…」
「じゃあまず、小エビちゃんってなんであれから教室来なくなったの」
「………」
「オレと会いたくなかった?」
「…はい」
「ふーん」
フロイド先輩はわたしの手を開かせようとするみたいに、固く握った拳を指で撫でたり突いたりする。
「オレとしたの、嫌だった?」
「…別に、あれは事故ですから」
「は?事故じゃねーよ」
「痛い、」
フロイド先輩に強く手を握られ、思わず声を上げる。すると彼は慌てたように手を離し、そうしてもう一度優しくわたしの拳を包み込んだ。
「オレのこと、嫌いになった?」
「だから、何とも思ってませんから」
「嘘つけ、じゃあなんでそんなによそよそしいんだよ!オレ、小エビちゃんの気持ち全然わかんねーよ。それが……一番キツい」
初めて聞く、余裕のない声だった。彼はぐしゃりと前髪を握ったあと、冷めた紅茶を一気に飲み干す。そして意を決したように再び会話を再開した。



「オレ、あれからずーーっと小エビちゃんのこと考えてるよ。学校いるときは、どっかでバッタリ会わねぇかなーって探しちゃうし、モストロ・ラウンジで仕事してるときは、小エビちゃんが遊びに来ねぇかなーなんて馬鹿みてぇな妄想してんの」

「夜寝るときは、ダメだって分かってるけど、あのときのこと思い出してすんげームラムラしちゃう。つーかそれで抜くこともある。引くでしょ、オレも引いてる」

「正直、小エビちゃんとまたシたいなぁって思ってるし、勝手にそーいう妄想もしてる。まあ、そればっかじゃないけどさあ、でもそんくらいオレの頭ん中は、いつも小エビ小エビ小エビで溢れてんの」

「なんでだろーね、オレ馬鹿になっちゃったみたい。最初はさ、単にまたヤりてぇだけなのかなって思ってて。だってそういう気持ちはゼロじゃねーし、つーか抜くぐらいだからバリバリその欲求もあるし。でもさ、そーいうモードじゃなくてもオレは小エビちゃんのこと考えてるよ。最近もさ、学校の裏手のほうにチョー景色の良い場所見つけたんだけど、小エビちゃん連れてきたいなーとか思って…」

「そーそー、なんかこないだもオレ店ですっげー調子よくてさぁ。頼まれたオムライスがチョー上手く作れたわけ。でさぁ、それ客に出すのもったいねーって、客に出すくらいなら小エビちゃんに食わせてぇー、とか思っちゃって。あはっ、全然オレらしくねぇ〜」

「…あのさー。今話してて思ったんだけどぉ、オレってさー、小エビちゃんのこと好きすぎじゃね?そーだよね、小エビちゃんのこと考えすぎっつーか、なんかもうこれ……」

そこで突然口をつぐんだので、こっそりと横目でフロイド先輩の顔を伺う。彼はぼうっとこちらを見下ろしていたけれど、わたしと目が合うと、へにゃりと相好を崩した。
「ごめぇん小エビちゃん、オレ言うの遅すぎたね」
「…えっ?」
「オレってば全然ダメじゃん、順番もめちゃめちゃだし。小エビちゃんに嫌われてとーぜんって感じ」
フロイド先輩がわたしの頭を優しく撫でる。
「オレ、小エビちゃんのことめちゃくちゃ好きみたい。小エビちゃんと過ごすあの教室での時間、オレすんごい好きで、いつもチョー楽しくってさぁ…ずっとこの時間が続けばいいのにっていつも思ってて。でもそれをぶち壊したのはオレだよね」
こつん、とおでこがぶつかる。目の前に、鼻と鼻が触れそうなほどの至近距離に、フロイド先輩がいた。
「ごめんねぇ、小エビちゃん。ひどいことしてごめん、傷つけてごめん。でもね、オレ小エビちゃんのこと大好きなだぁ」
わたしはこれまでフロイド先輩が誰かに謝るところを見たことがない。その人生で初めて見る彼の”謝罪”が自分に向けられているなんて、という驚き。そして彼の口から発せられた”好き”という言葉のインパクトに、わたしは石のように固まってしまう。

「なんだろこの感じ、好きっていうの、すんげームズムズする。恥ずかしーかも」
フロイド先輩は笑いながらわたしに抱きついた。それから猫のようにわたしの頬に自分の頬をすり寄せる。
「ねぇ、小エビちゃんはどーぉ?」
突然顔を覗き見られ、わたしは大いに動揺する。まだこの状況を飲み込むのも、心の整理もできていないのに反応を伺われたのだから当然だ。
「……へー、満更でもないってカオじゃん」
「いや、ちょっと…勝手に話、進めすぎ…では」
「あー、どうしよ、チューしたい」
「そ、それは違うでしょ」
「えー…じゃあさ、小エビちゃん。オレたち、好き同士になろうよ」
「……は?」
フロイド先輩はこれまでにないほど柔和な表情を浮かべている。こんなことを言うのは憚られるけれど、”今すぐキスしたい”と顔に書いてあるようだ。それほど、わたしに対する好意が全身からあふれていた。だからと言って、じゃあ好きになります、というほどわたしも単純ではないのだけど。(だってまだ混乱している)

「……っあーー、オレ焦らされるのって好きじゃないんだよね」
ごつん、と再びおでこをぶつけられる。急なアクションにわたしは危うく舌を噛んでしまうところだった。
「好きになるのはあとでいいから、とりあえず今はチューさせて」
「え……はい?」

”好きだよ、ナマエ”―――フロイド先輩がわたしの耳元でそうつぶやき、全身に鳥肌が立った。直後、口を塞がれる。行為中にされたキスのときのような嫌悪感に似た違和感は一つもない。それどころか、わたしはみっともないほどドギマギとしながら、彼の唇の柔らかさに浸ってしまった。



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