リドル寮長から呼び出しを受けた日は天気が悪かった。正確には、午後から天気が悪くなったのだけど。朝は青空が広がる快晴であったのに、約束の時間が近づくにつれ空はどんよりと曇り始め、ついにはしとしとと雨が降り出してしまった。
『雨が降っているから待ち合わせ場所を図書館に変更しよう』
と彼がメッセージを送ったときにはわたしは目的の場所に向かっていたし、その場所に着く頃には肌寒いと感じるほどに気温も下がっていた。
「ナマエ!どうしてメッセージを見ないんだい?!」
傘を差したリドル寮長が眉を吊り上げてやってきたとき、わたしは傘代わりにした教科書が雨粒と湿気により波打っている様子をぼんやりと眺めていた。
「メッセージ…」
そういえば、この場所――薔薇の庭のひと際大きい薔薇の木の下に到着してからの今の今まで、わたしは一度もスマホをチェックしていなかった。ブレザーからそれを取り出すと、15分前と10分前、3分前に1件ずつ、リドル寮長からメッセージが来ていた。スマホを確認する余裕がないほど、わたしは浮き足立っていたのかもしれない。
「まったくキミは、こんな寒い中待っているだなんて…!」
「すみません」
「…まあ、もとはといえばボクがこの場所を指定したのが悪いんだけれど」
彼は、さあ行くよ、と言ってわたしに傘を掲げた。しかし、わたしがその中に入ろうとしないので、不安そうに眉を潜める。
「あの、やっぱりここで話をしませんか?」
「どうして?雨も降っているし、ここは寒いだろう」
「でも、わたしは外にいるほうが落ち着くんです」
リドル寮長はなにかを考えるように一瞬口をつぐんだ後、胸ポケットから取り出したマジカルペンをわたしに向け、軽く振る。すると、肩にふわりと温かな感触が降り立った。柔らかな生地のストールがわたしの体を包んでいる。
「実は、雨の日の薔薇の庭というのもなかなか悪くないんだ。少し歩いてみないかい?」
そう言って彼はもう一度わたしに傘を掲げる。今度は素直にその傘の中に入った。
雨に濡れた薔薇からはしっとりと柔らかな香りが漂っている。肩が触れるほどの距離にいるリドル寮長から意識を逸らすために、雨を一身に受ける薔薇の花一つひとつに注目した。薔薇の迷路と呼ばれるこの庭だけど、リドル寮長は少しも迷わずに進んで行く。そうしてわたしは、ある一つの”行き止まり”まで彼に導かれた。そこには小さなベンチがあったが、少しも濡れた様子はない。ベンチの上にある生い茂った薔薇の木が、見事な傘としての役割を果たしているからだ。
このベンチの周りには、まだ成長途中の幼い薔薇の木が多い。しかし、手塩にかけて育てられているのが見て取れるほど、小さくとも美しい花を咲かせていた。
「ボクはよくここで読書をしたり、考え事をしたりするんだ」
木の下に入ったリドル寮長がゆっくりと傘を閉じながら言う。つまりここは、彼のお気に入りの場所、ということらしい。
ベンチに座り、雨音に耳を傾ける。デュースやジャックは、雨が降ると外で思いきり部活ができないと嘆くけれど、わたしは雨の日がそれほど嫌いではない。特に、今日のような少しひんやりとした日がけっこう好きだ。雨の音は落ち着くし、日々生まれる雑念やくだらない悩みをすべて洗い流してくれるような気がするからだ。そんなことを考えているうちに、自然と瞼を閉じていた。
甘い香りがして、目を開ける。隣を見ると、リドル寮長がわたしにライムグリーン色の紅茶が入った透明のカップを差し出していた。彼ほどの優秀な学生であれば、屋外で紅茶を淹れるようなことなど造作もないことなのだろう。両手でそのカップを受け取ると、フレッシュなハーブの香りが鼻を抜けた。
「ハーブティーさ、気持ちが落ち着かない日によく飲むよ」
リドル寮長が紅茶を飲む姿は実に様になる。わたしが不躾に彼が紅茶を啜る姿を眺めていると、彼は困ったような顔で「キミもお飲み」と言った。
温かくすっきりとしたハーブティーを飲んでいると、パズルのようにバラバラになった感情のピースが、少しずつまとまり形を成していくようだった。ここに来るまでに感じていた緊張もいつの間にかほどけている。
「ねぇ、ナマエ」
さほど大きくないボリュームで彼がわたしを呼ぶ。隣に顔を向けると、大きな目がふたつこちらを見ている。驚いて顔を逸らすと、肩を落とすリドル寮長の落胆が伝わってきた。
「いつからそんな風になってしまったんだい。この間と同じ質問をするよ、ボクはキミに何かをした?」
「して、いないと思います」
「そう。ならばボクは今日、キミが取る態度の明確な理由を聞くまで帰れないね」
そうだ、彼はもともとその理由を聞くためにわたしを呼びだしたのだ。ハーブティーによってもたらされた寛ぎはどこかへ消え、わたしには焦りと戸惑いが募る。
「どんな理由でも構わない、ボクはキミから正直な気持ちを聞きたいんだ」
「わたし…あなたにみっともない姿を見せたくないんです」
「キミをみっともないだなんて思わない、思うはずがない」
こうなった寮長は絶対に引かない。それなら、さっさと降参の旗を上げてしまった方がいいのだ。ハーブティーによって一瞬でも気を抜いてしまった自分を情けなく思いつつ、わたしはカップの淵を眺めながら口を開いた。
「わたし、以前リドル寮長に目を治していただきましたよね。あのときのこと、本当に感謝しています。おかげでこうして今も…問題なく生活が送れていますし。本当にあのときのことは感謝してもしきれない、と言いますか……」
彼は先を急がせるわけでもなく、真剣にわたしの話を聞いている。その姿が逆にわたしを参らせた。
「あの日のことは、わたしにとって忘れられない日です。たぶんリドル寮長は、この世界で初めて、わたしの弱くて醜い部分を見せた人…ということですし。でもそうしなければ、わたしの目は治らなかったわけですから、そこに異論はありません。だけどその、やっぱり後になって羞恥心を覚えたりして…」
喉が渇く。震える手でカップを持ち上げ、紅茶を流し込んだ。今じゃハーブティーによるリラックス効果なんて少しも得られやしない。
「それで…その、」
人生で初の”無断欠席”をしてまでわたしを助けてくれた熱意。目が醜く腫れ上がったわたしの姿を”覚えていない”と言ってのける不器用な気遣い。そうした彼の「気持ち」がどうしようもなくくすぐったく、好ましくて、落ち着かない。けれど、彼がそういう人間だからこそハーツラビュル寮の王に君臨しているのだと思うと、わたしに向けられたそれらは何ら特別なものではないのだと分かる。だからわたしは、自分が浅ましく恥ずかしくてたまらない。でも今、そんな自分を彼に正直に伝えなくてはいけないのだ。
たぶん、と口を動かしたのに、声が掠れてちゃんと発音できなかった。だからもう一度、同じ言葉を繰り返す。
「たぶん、わたしはあの日以来、あなたが素敵に見えているのかもしれません」
雨音の隙間から、寮長の息を呑む音が聞こえた。恥ずかしさでこめかみに頭痛を覚える。落ち着きを装った化けの皮はすぐにはがれ、わたしの口から滑るように言い訳が漏れ始めた。
「単純すぎて、自分でも馬鹿だと思っています。少し助けてもらっただけで、意識してしまうような単純さが、恥ずかしくてたまらないです。愚かなのは自分で一番分かっています。でも、」
突然、口元に手の平をかざされた。黙れ、という彼のジェスチャーのそれに従い、わたしは口をつぐむ。
「それの何がいけないんだい」
リドル寮長の声は落ち着きを払い、堂々としている。しかし口の前から手が退かされないので、わたしは黙ったままだ。
「ボクは、キミに素敵だって思ってもらいたいし、そう思ってもらえるようにキミに接してきたつもりだよ。ボクの行動の一つひとつは、ナマエの気を引くため、ナマエに好意を持ってもらいたいがために取ってきたものだからさ」
リドル寮長の手の平はゆっくりと下っていき、やがてカップを包むわたしの両手の上に重なる。
「そんなボクの努力が報われたというのに、どうしてキミはそんなに恥ずかしそうに、自分を責めているの?」
頬が灼けてしまうんじゃないかというほど、熱い視線を感じる。どうしてこうなったのか、わたしにはいまだ理解できない。ただただ、カップの中で小刻みに揺れるわずかに残ったハーブティーを見つめるしかなかった。
「正直に言うよ」
縫い付けられたように口を開けないわたしを見つめながら、彼が言う。
「これはボクの自惚れかもしれない。でも…恐らくナマエはいま、いや確実に、ボクを意識している。つまりこれは、キミがもっとボクを意識してしまうように仕向けるチャンス…この機会を活かさない手は、ないね」
わたしの手に重なった彼の手が、俯くわたしの頬を包みすくい上げた。そんな風に顔を固定されては逃げ場がなく、射るようなその大きな瞳にたちまち絡めとられた。
髪の毛一本動かせないくらいに硬直したわたしを見て、リドル寮長はふっと息を漏らすように笑う。それから、何か確信を持ったみたいな少し意地悪な笑みを口元にたたえた。
「どうして、って顔してる。それはキミの胸に聞いてみたらいい。だってボクはさんざんキミを特別扱いしてきたし、それは周りだって気づいていたよ。…だから、これはすべてはキミの”鈍さ”が招いたことさ」
目の前からリドル寮長が消えたのは、わたしたちの距離がゼロになったからだ。初めに感じたのは、薔薇の庭から香ったものとは異なる優しい薔薇の香り。それから、肩、胸、背中にぬくもりを覚える。そうしてわたしを抱きしめる彼の体温があまりにも高いから、頬に跳ねた雨粒がことさら冷たく感じられた。
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