Tea to you

本を1冊返却するために立ち寄った図書室に滞在する時間といえば、せいぜい1〜2分。長くても5分程度で用事は済んでしまうだろう。それなのに、ジャミルは読みたくもない実践魔法の分厚い歴史書を手に取り、そうっと椅子に腰を下ろした。パラパラとページをめくりながら、さりげなく斜め前に視線を向ける。そこには、彼がよく知る顔――監督生がいた。

監督生は開かれた本の細かい文字列に真剣に目を走らせており、斜め前にジャミルが座ったことになど少しも気づいていないようだった。それほど本を読むことに没頭しているのだ。そして、何か該当箇所を見つけると、すぐさま手元のノートに書き写す。それからまた、文字を追うことに没頭する……その一連の動作を何度も何度も繰り返していた。そしてジャミルは、そんな監督生の様子を涼しい顔をしながら盗み見ていたのである。

ジャミルは、監督生に用などない。それなのに、なぜ適当な本を手に取り、わざわざ監督生の斜め向かいの席に座ってしまったのか……彼はその理由を考えないことにした。ただ、この図書室の一員として不自然ではないように、本を読むフリをする。そして、時折視線を上げて監督生の顔を盗み見る。当たり前だが、彼と監督生の視線が合うことはなく、ジャミルはそれにホッとするような、焦れったいような気がした。

―――それから1時間ほどが経った頃、ジャミルは監督生のペンが一切動かなくなっていることに気づいた。それに、本と顔の距離が異様に近い。もうすぐ鼻先が紙に触れてしまいそうだ。ジャミルは無遠慮にじっと監督生を見つめる。ぱたりとペンが手から転げ落ちたが、それを拾おうともしない。ジャミルは、ふっと小さく笑った。監督生は、まるで電池が切れてしまったかのように、突然眠りこけてしまったのだ。ジャミルはポケットに入っているスマホを取り出し時間を確認した。図書室の閉館時間まであと40分ほど。閉館時間までに起きなければ、自分が監督生を起こしてやろうと思い、ジャミルは再び手元の本に目を落とした。最初はつまらないと思っていたこの歴史書だが、読み進めてみると意外と面白く、いつの間にかジャミルは純粋に読書を楽しんでいた。


閉館時間になっても、監督生はとうとう起きなかった。読みかけの歴史書の貸出手続きを取ってから(続きは寮に帰ってから読むつもりだ)、ジャミルは監督生のもとへ行く。監督生は今や机に突っ伏すようにして眠っている。ジャミルは監督生の耳元に顔を近づけ、「おい、監督生。起きろ」と言う。図書室で大声を出すのは憚られたため、控えめな声量で呼び掛けた。しかし、相当に深い眠りなのか、丸まった背中はピクリとも動かない。
ジャミルは溜息をつき、今度は肩を揺らしてやりながら監督生を呼んだ。
「おい、監督生。もう閉館時間だ、さっさと寮に戻れ」
ようやく身じろぎをする監督生を見て、ジャミルは広げられた本やノート、ペンを素早く集める。それから監督生の腕を取り、無理矢理に椅子から立ち上がらせた。
「君の荷物は持ってるから、ほら行くぞ。これ以上ここに居ちゃ、迷惑だ」
先導するように歩くジャミルの後ろから、眠気眼の監督生が続いた。

+++

鏡舎を抜けたところで、「あの」と監督生が声を上げる。ジャミルはギクリと肩を揺らすも、その足を止めなかった。「なんだ」と答える声は刺々しく、その声色は監督生をますます不安にさせた。なぜなら、監督生にとってジャミルは、特段仲の良い先輩ではない。彼らの間にはいつも絶妙な距離があり、二人きりになると会話すらままならない。仲が良いのか、悪いのか…と言えば、悪い方に分類されるだろう。そんなジャミルが居眠りしていた監督生を起こし、あまつさえ寮まで送ってくれるなんて、不自然以外のなにものでもなかった。

また、監督生がそんな不安を感じるであろうことは、ジャミルにも分かっていた。しかしそれを承知の上で、ジャミルは監督生を送ることにした。たとえ「送り狼」の疑いをかけられたとしても、ジャミルは強い意志で監督生を寮まで送りたかった。

ジャミルの剣呑な声色に怯えて、監督生は何も言わなくなった。だから、二人は黙って寮までの道を歩く。寮までの道は意外と長く、日が暮れた頃にこの道を一人で歩くのは危険だと、ジャミルは以前から思っていた。だからこうして、半ば無理矢理に一緒に帰路をたどっているわけだが、監督生からしたら夜道もジャミルもどちらも怖いに違いない。どうにか和ませてやるような言葉をかけたかったが、ジャミルの口からは気の利いた言葉の一つも出てこなかった。自分は、アジーム家で執り行なわれる接待や宴で完璧に立ち回ることのできる男なのに、なぜ監督生に対しては手も足も出ないのか。ジャミルはそんな自分が情けなくて仕方なかった。

やがて薄暗い森に囲まれるようにして、オンボロ寮が見えてくる。ジャミルは監督生の気持ちが手に取るように分かった。「ようやく俺と二人きりの空間から解放される、そう思っているんだろう」とジャミルは歯噛みしたくなる。
あまり寮に近づきすぎると、そのまま上がる気なのかと勘違いされそうなので、ジャミルは寮の数メートル手前で足を止めた。それから、持っていた監督生のノートやペンを返す。
「あ、ありがとうございます」
「……あぁ」
今や、ジャミルの眉間には深いしわが刻まれている。だが、もちろん彼は監督生に怒っているわけではない。監督生と親しくなるべく、こうして親切に寮まで送ってやったのに、結果的に気まずい空気と無言の時間を作ってしまったこと、また自分の気持ちと言動がすべてチグハグであることに対し、怒っているのである。

「ジャミル先輩…あの、ご迷惑をおかけして、すみません」
困り果てた監督生は、とにかく謝ることにした。正直、何が彼を怒らせているのか分からないが、ひとまず謝った。が、謝罪したその瞬間、さらにジャミルの眉間のしわが濃くなり、監督生は恐ろしさのあまり心臓が急速冷凍されたかのような心地がした。
「はぁ?俺は迷惑などしていないが。別に俺は、俺の意思で君を起こし、ここまで送ってやっただけだ」
ジャミルは、頭を掻きむしりたくなる衝動にかられる。違う、こんなつっけんどんな物言いをしたいわけじゃない。こんな、監督生の怯える顔を見たいんじゃない。もっと素直に、自然に、優しく、スマートなことを言って、それじゃあまた明日学校でと、気持ちよく別れたいのだ。ジャミルは、理想と現実の狭間でもがいていた。また、人生における「全然上手くいかない」という初めての事態に戸惑っていた。

一方監督生は、不機嫌な顔をするジャミルの視線が、時折ウロウロと泳ぐのが気になっていた。ずっと怒りっぽい物言いをしているが、もしかしたら本心ではないのかもしれない。などと、ジャミルの態度を幾分肯定的に捉えようとしていた。とはいえ、冷たく細い目で見下ろされるとどうも肝が冷えてしまい、怖い、という気持ちをすべて拭いきることはできない。
ただ、監督生は勇気を出した。もしかしたら、先輩は悪い人じゃないのかもしれない、態度が悪いだけで本当は気さくな一面もあるのかもしれない、そんなポジティブ思考でこう声をかけた。


「あのう…ご迷惑でなければ、少しうちでお茶を飲んでいきませんか?今日のお礼、と言いますか」
ジャミルから表情が消えた。正確に言えば、思考が停止したのだ。まさか監督生からこんな嬉しい誘いが来るとは、という気持ちの反面、自分のような男を気軽に寮に入れようとする不用心さにショックを受けたのである。そして、その渦巻く感情の中から出たジャミルの返事は、「結構だ!」という強い断りの言葉だった。

今度、ショックを受けるのは監督生の方だった。まさか、そんなに勢いよく断られるとは思わず、やはり彼が自分を嫌っている気持ちは本物なのだと、悲しみが押し寄せる。その態度を肯定的に受け入れようとしていた自分が、間抜けだと思った。そして、そんな青ざめた監督生の顔を見て、ジャミルはいよいよパニックになり、気づけば思いつくままに口を動かしていた。

「き、君は俺を寮に上げて、どんな茶を出すつもりだったんだ?」
「えっ…?お茶、ですか?あ……今ちょうど、リドル先輩からいただいたローズヒップティーがあるので、それを」
「ふむ、そうか…リドル先輩からのいただきものなら、きっと高級な茶葉なんじゃないか?薔薇の王国から取り寄せたものとか」
「あぁ、そうですね。薔薇の王国のものだとおっしゃってました」
「やっぱりな。なら、そんな茶を俺に出すのはもったいない」
「え、そんな…」
「だ、だから、その、今日は遠慮するよ…という意味だったんだ、さっきのは。俺にそんな高級な茶を出す必要なんてない」
「………」
監督生は不思議そうな、やや不安げな表情でジャミルを見つめる。それにより心拍が上がったジャミルは、段々と早口になった。
「そ、そうだ監督生。実は俺たちの故郷、熱砂の国の紅茶も立派な名産品でな、スパイスが効いてて美味いんだ。…うん。それで、ぜひ君に飲ませてやりたい。だから、今度うちの寮に来るといい。俺が熱砂の国の紅茶を淹れてやる。なんだったら、茶葉だって分けてやる。紅茶に合う茶菓子もあるから、それも持って行くといい」
ジャミルはじっとりと背中に汗をかいていた。自分がらしくもない言い訳をし、おまけに今度はこっちがお茶に誘っているなんて、滑稽に他ならない。しかし、ジャミルは必死だった。急速に冷えた監督生の心を取り戻すのに真剣だった。

そうして結局、監督生は快くこの茶の誘いに乗った。ジャミルの部活がない、次の木曜日にスカラビア寮に行くと約束までした。無論、ジャミルの「結構だ!」の剣幕はいまだ監督生の心をわずかに傷つけていたが、監督生の中で”ひょっとすると彼はただのお茶好きな先輩だったのでは?”という可能性がむくりと首をもたげていた。だから、お茶での交流を通して少しでも関係が円満になるのなら、ぜひこの誘いに乗りたいと思ったのだ。
一方、ジャミルの頭の中は処理しきれないほどの喜びで溢れていた。監督生に対し、初めて感じの良いアクションができたことに、達成感すら覚えていた。しかし、これ以上ボロが出てはまずいと思い、「それじゃあ木曜に」と浮ついた足を動かしながら、その場を後にしたのである。


恋愛と呼ぶにはまだ早い、デコボコとしたこの感情にジャミルが気づくのは、もっと後のこと。今はただ、「監督生に美味しい茶を淹れて喜ばせてやりたい」「だから木曜を迎えるまでに目一杯茶を淹れる練習をしよう」そんな風にはやる心を抑えながら自寮に向かって駆けていたのだった。


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