マドンナリリーは笑わない(前編)

イデア先輩は、この学園の中でエースやデュースに次いで面倒見のいい人だった。むしろ、彼は明らかにわたしの面倒を見たがっていたし、そのためなら自分の巣穴を這い出てくるほど、わたしとの接触に心血を注いでいたのである。わたしが図書室で調べものをしていれば積極的に手伝ってくれたし、勉強に必要な参考書、魔法道具は気前よく貸してくれた。会うたび押しつけられたお勧めのマンガやゲームは良い暇つぶしになったし、それらはなかなか面白かった。学園内でわたしを見つけると、おどおどと周りの目を気にしながらも必ず話しかけてくれた。顔と髪を真っ赤にしながら昼食に誘ってくれたこともあった。
人見知りで、人嫌いで、面倒くさがりなあのイデア先輩が、そこまでしてわたしとコミュニケーションを取りたがっているという事実と、分かりやすすぎるその態度から、彼がわたしを好いているのは明らか。そして、そんな彼の気持ちに気づかないほどわたしも鈍くはなかった。

この世界の不可思議さばかりに気を取られていたものだから、当時わたしは人に好かれるとか、誰かを好きになるとか、そういった感覚がすっかり抜け落ちていた。だから、イデア先輩の気持ちに気づいたときは、非常に面食らった。こんな自分でも好きになってもらえるんだ、という驚き。しかも、相手はイグニハイドという学園内でもトップクラスで異彩を放つ寮の寮長、そして変わり者と揶揄されるイデア先輩だ。
正直言って彼はわたしの眼中になく、はじめは何もピンとこなかった。しかし、好意を持たれていると自覚すればするほど、わたしの中でイデア先輩の存在は色濃くなり、その熱意に当てられれば当てられるほど、わたしは彼を好ましい相手として認識するようになった。我ながら、単純な人間である。

そうしてわたしはイデア先輩から告白された。それは当然の流れだったし、その告白に対してわたしは「OK」の返事をする。あのとき、イデア先輩は半分泣きそうな顔をしながら喜んでくれた。わたしとの交際を純粋に喜ぶ、下手くそでぎこちないあの笑顔は可愛らしく、わたしは先輩をますます好きになった。

―――けれど、あれ以来わたしはイデア先輩のそんな無垢で可愛らしい笑顔を一度も見ていない。

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スマホのメッセージアプリを立ち上げ、イデア先輩の名前をタップする。表示された画面の右上を押し、さらに右上に出現したマークをじっと見つめる。「ブロック」と名前のついた禁止マークの上に指を運んだが、数秒間考えたのち引っ込める。……かれこれ一週間ほど、この行為を繰り返している。踏ん切りのつかない自分に嫌気がさすが、それでもこの小さなマークを押せないのには理由があった。

トーク画面にはわたしとイデア先輩がやり取りをした履歴が残っている。といっても、最後にメッセージを送り合ったのは1ヶ月も前のこと。わたしが送ったメッセージに対し、イデア先輩が既読をつけた状態で終わっている。それから、お互いに連絡を取り合うこともなく1ヶ月が経ってしまった。恋人同士として、だいぶ”終わってる”関係だと思う。

無論、イデア先輩に対するわたしの気持ちはとっくに冷めきっていた。別に彼と大喧嘩をしたわけではないし、浮気をされたのでもない。むしろ、喧嘩や浮気ならまだよかっただろう。何しろ、わたしとイデア先輩の間には「何もない」のだ。何もないから、こうして連絡も途絶えているし、自分から関係を終わらせにいくしかない、という状況にまで追い込まれているといえる。


わたしと恋人同士になってから、イデア先輩は変わった。まず、わたしをまったく構わなくなった。これまであんなに甲斐甲斐しく面倒を見てくれていたのに、付き合ってからは課題のアドバイスの一つもしてくれないどころか、漫画の1冊も貸してくれないし。そりゃ、彼の部屋に遊びに行きさえすれば、さすがに相手をしてくれるけれど。それでも、彼が見せる忙しそうなそぶりや、濃いクマのできた疲れた顔を見ていると申し訳なくなってしまうので、わたしは彼の部屋に足を運ぶのをやめてしまった。

もちろん学園内で会っても、彼から話しかけてくれることはない。話しかけるのは、いつも”わたしから”だ。しかも、話しかけたってろくに会話が続かず、イデア先輩はすぐ明後日の方を向いて黙り込んでしまう。別に彼の機嫌が悪くなるような失言などしていないのに。
あとから先輩に聞いたのだが、彼はわたしと交際していることを周りに隠していたらしい。これまでわたしに猛烈にアタックしていたのに、急に態度を翻せば、逆に不自然なのでは…と思いモヤモヤしたけれど、彼には彼なりの事情があるのだろうと思い、わたしも交際の事実を周りに漏らさないようにした。

付き合っていることを周りに隠していながら、プライベートでも交流を持とうとしない……となると、いよいよわたしがイデア先輩と一緒にいる意味がなくなってくる。正直、付き合う前の関係のときのほうが断然楽しかった。そして、理由も分からずわたしを避けるような、冷めた対応を取り続けるイデア先輩がいよいよ分からなくなった。だから、わたしのイデア先輩に対する愛情はあっという間に消滅する。ただ、どうしてこんなことになってしまったんだろう?という、その1点を解き明かしたいというわずかな気持ちのみが、わたしと彼を繋ぎ止めていた。つまり、自分の”物事を有耶無耶にするのが苦手”という性格が、完全に悪い方向に働いてしまったせいで、わたしはいまだに「ブロック」のボタンを押せないのである。


そんなイデア先輩との交際を終わらせるため、何度目かの「彼の連絡先を拒否する」に失敗したときのことだった。わたしは実験の授業でペアを組んだ、他クラスの男子生徒と仲良くなる。
実験という共同作業は、どうしても相手とコミュニケーションを取らなければならない。中には黙々と工程を進めるタイプの者もいるが、たいていは声を掛け合い、協力しながら実験を進めてくれる者ばかりだ。そんな中、他クラス合同の魔法薬学の授業でわたしがペアを組んだのは、ニコニコと笑顔をたたえるハンサムな男子生徒だった。

彼は明朗な性格の、感じの良い男子だった。彼が上手にエスコートしてくれることで、問題なく課題の魔法薬を作り上げることができたし、何より彼との作業は始終楽しかった。彼は好奇心が旺盛なタイプで、しきりにわたしのことを知りたがった。そのうえ大変聞き上手なものだから、わたしは自然とおしゃべりになった。こんなに楽しいおしゃべりは久しぶり、と思ったのはわたしだけではなかったらしい。だからわたしたちは、この授業を終えたあとも時間を見つけて交流を図るようになる。そうしてわたしたちはすぐに、10年来の友人かのような軽口をたたき合える間柄になった。

わたしは、エースやデュース以外に親しい友人ができたことが、嬉しくてたまらなかった。もちろん、エペルやジャック、セベクなんかも大切な友人ではあるけれど、彼はそういった友人たちとは少し違う存在だった。それは、彼がさり気なくわたしを女性扱いしてくれるからかもしれない。ときどき、含みのある柔らかな笑顔を見せてくれるからかもしれない。そのこっそりとした下心に気づかないフリをする自分がズルく、それでいてちょっとした快感もあり、わたしは次第に彼に夢中になっていくのだった。

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しかし、そんな関係は突然終わりを告げる。
その日、わたしは学園内で久しぶりにイデア先輩を見た。その頃には、先輩と最後にメッセージのやり取りをして、2ヶ月もの時間が経とうとしていたから、わたしの中で先輩はほとんど”過去の人”になりつつあった。わたしは新しい友人との関係が楽しくて、もはや先輩をブロックするという行為すらどうでもよくなっていたのだ。

わたしは中庭のベンチに座り、昼食を取る準備をしていた。サンドウィッチを包む薄いフィルムを剥がそうとしているところ、視線を感じ顔を上げる。すると、外廊下の途中で立ち止まり、こちらをジッと見つめているイデア先輩がいた。そのとき、わたしはなぜだか罪悪感にかられた。イデア先輩にはさっさとどこかへ行ってほしかったし、間違ってもこちらにやってくる、なんてことはしてほしくなかった。
そこそこ距離があったため、先輩の表情をつぶさに確認はできなかったが、どんよりと思いつめたような雰囲気をまとっていることだけは分かる。いつまで経っても去ってくれないイデア先輩にいよいよ焦りを感じ始めた頃、勢いよく両肩を叩かれ飛び上がる。

「なに、その反応。そんなにびっくりした?」
そう言ってわたしの両肩に手を置いたまま、こちらを覗き込むのはあの男子生徒。一緒に昼食を取る約束をしていたわたしを驚かせるため、足を忍ばせて背後に立っていたようだ。
「え、あ、ちょっと、ね。ははは…」
わたしが愛想笑いを浮かべると、彼は回り込んでベンチに座る。それから、わたしの手からサンドウィッチを取り上げ、器用な手つきてそのフィルムを剥がしてくれる。
「はい、どうぞ」
愛嬌のあるハンサムな笑顔をわたしに振りまきながら、彼がサンドウィッチを手渡してくれた。それを受け取ってから、わたしは恐る恐る外廊下の方へ視線を向けた。……もうそこに、イデア先輩の姿はなかった。

あのお昼の出来事以降、わたしの頭の中はイデア先輩のことでいっぱいだった。どろりとした罪悪感や後ろめたさのせいで息苦しくなる一方、友人と仲良くして何が悪い、と開き直る自分もいた。別に浮気でも何でもない、彼とは一線だって超えていない、ただ、親しい友人の一人。それに、もしわたしが彼と恋人同然の関係だったとしても、それが何だ。そもそも、わたしとイデア先輩との関係なんて、とっくに終わっているじゃないか。わたしはそう開き直って自分を正当化し、この気持ち悪い胸の内から抜け出そうとしていた。

そんな状態だから、午後の授業はことさら長く感じた。午後の最後の授業を終えたあと、わたしはすぐに図書室へ逃げ込む。もしまた偶然友人である彼や、イデア先輩と顔を合わせてしまったら、どんな顔をすればいいか分からなかったからだ。だから、わたしは図書室のなるべく奥まった席へ座り、ここで1時間ほど時間をつぶしてから自寮へ戻ることにした。


―――気づけば、図書室の大きな窓から真っ赤な夕日が差し込んでいた。窓から外を覗くと、外を歩く生徒たちの姿もまばら。これなら彼や他の友人に会わずとも寮に帰れそうだ。ほとんど手をつけていない、数冊の本を本棚に返してから、出口に向かう。
学園ほどではないが、この図書室もなかなか大きく設備も充実していた。閲覧室はもちろんのこと、申請しなければ借りられない古書が保管されている部屋や、ネットで調べものができる部屋、会議室や視聴覚室まである。しかし、閉館時間が近い今は、どの部屋も利用者がいないようだ。

わたしは人気のないそれらの部屋の前を、黙って通り過ぎていった。別に今後利用する予定もないし、特段それらの部屋に注意を払っていなかったのである。そうして、制服のポケットから取り出したスマホを見ながら、視聴覚室の前に差し掛かったとき―――その視聴覚室のドアが音もなく開いた。
半分ほど開いたドアの奥は真っ暗で、何も見えない。驚いたわたしが足を止めると、そこから一本の腕が伸びてきた。その腕はわたしの手を掴み、強く中へと引きずり込んだ。

わたしがスマホを落とすと同時に視聴覚室のドアが閉まる。暗闇の中で、堅いスマホが床に叩きつけられる耳障りな音が響いた。さきほどわたしを引きずり込んだ手が口を塞いでいるらしく、悲鳴を上げることすらできない。そんな状況下で、わたしは自分の手を掴んだあの手のことをもう一度思い出す。それから、じわじわと指先が震え出した。
なぜなら、あの骨ばった手、着古したパーカーの袖に見覚えがあったからだ。だから、今この暗闇がとてつもなく怖い。

目の前にいる誰かが、わたしの口からゆっくりと手を外した。その代わり、相手の気配がグッと近づいたのが分かる。相手の髪が触れたのか、頬や耳がさわさわとくすぐられ、首元に相手の息がかかった。あまりに恐ろしく、全身が石のように硬直し、いまや悲鳴を上げる勇気も出なかった。そんな中、わたしの耳に笑いを押し殺したような低い囁き声が流れ込んできた。その声は、こう言った。

「……ようこそ、監督生氏」

ヒヒッという特徴的なその笑い声が、「あの人かもしれない」というわたしの疑いを確信へと変えた。


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