「オマエ、ジャミル先輩の前だと妙にしおらしいなぁ」
はじまりは、エースのこんな一言だった。
「なに?どういうこと?」
わたしは努めて冷静に聞いたつもりだったけれど、声色はエースを詰問するようなキツい調子になっていた。
「だから、そのまんまだって。オマエってオレらと一緒だと馬鹿なことすんのに、ジャミル先輩の前だとノリ悪いっつーか、借りてきた猫みてぇっつーか」
背中にじわりと汗をかくように、わたしの胸にじわりと嫌な予感が広がった。そして、わたしが言い訳をするより早く、エースがこう言った。
「もしかしてオマエ、ジャミル先輩が好きなわけ?」
それに対するわたしの反応は、ノータイムでの「そんなわけないじゃん!」であった―――。
この学校で過ごして学んだことは、「秘密を漏らすべからず」ではなく「秘密を作るべからず」だ。たとえば自分のコンプレックス、黒歴史、恋愛事情、そんなものいつかは絶対に漏れる。噂好き、悪ノリ大好きなNRC生の前じゃ、秘密を隠すなんて無理に等しい。いつだってフルオープンでいるほうが、受けるダメージは少なかった。
はじめは、そんなオープンな自分でいることがさほど難しいとは思わなかった。とにかく個性溢れる生徒が集まる学校なので、どの生徒も等しく変人で、だからこそ特別な感情を抱くなんてことはなかったのである。ただ、だからといってそんな日々が永遠に続くとは限らない。
ある日突然、些細なことがきっかけで、人間はそこに存在しなかった感情を相手に抱いてしまうのだ。親切にされたから、勉強を見てもらったから、美味しい料理をふるまわれたから、きっかけは何でもいい。わたしは少なからず、そういう「変化」が起こることを恐れていた。そして、やがて危惧していたことは現実に起こってしまった。
ジャミル先輩への特別な感情に気づいたわたしは、まず気づかないフリをした。こんなの一時の感情である、と自分をたしなめた。好意なんてあってないようなもの。毎日勉強して、ご飯を食べて、お風呂に入って…そんな忙しい毎日を送っていれば忘れるはずだ。
次にわたしは、相手の悪いところを見ようとした。常識人みたいな顔をしているが、相手は口も性格も悪い、何よりオーバーブロットを起こした問題児だ。関わっていてろくなことはない。きっとわたしだって、裏じゃ彼に馬鹿にされているはずだ。
最終手段として、別の適当な生徒に好意を持つように自分を仕向けた。しかし、そもそも自分で「秘密を作るべからず」と掲げているのに、他の誰かに好意を持とうなんて無理な話だった。そして何より、ジャミル先輩以外に特別な感情など、起こりそうもなかったのである。
こうしてわたしは、とうとうその特別な感情を受け入れた。気づかないフリをしようとするほどソレは色濃く存在感を表し、悪いところを見ようとするほど彼の良い部分が際立った。まったくの逆効果だったのである。わたしは間違いなくジャミル先輩に好意を抱いていると自覚した。
つまり、わたしは不覚にも自分で「秘密」を作ってしまったのである。となれば、やるべきことは一つ。決してこの秘密を他人に悟られてはならないということだ。本人にはもちろんのこと、仲間であるエースやデュース、グリムにも悟られてはならない。
しかし、どうすればこの秘密を隠せおおせるのか、具体的な方法は一切分からない。だから、とにかく万人に同じ対応を取ることを心掛けた。ジャミル先輩も、その他大勢も、まったくの同じ人間であるという姿勢で日々生きることを心掛けた。
―――ところがエースの発言により、その心掛けがまったくできていなかったということが発覚する。エースがわたしに水を向けたということは、彼が自分の中の疑いを確信に変えようとしている、ということでもある。しかも、彼はジャミル先輩と同じ部活だ。ますます状況が最悪である。
また、エースの発言に対するわたしの反応も絶望的だった。余裕のない食い気味の「そんなわけないじゃん」。これはもう、「そんなわけある」と事実を認めているようなものだ。
エースの質問を強めに否定したあと、嫌な汗をかきながら、引きつった笑顔を作るわたしを、エースはジロジロと無遠慮に見つめる。それから「ふぅん」と興味なさげな相槌を打つと、片手に持っていたスマホに視線を落とした。例の会話が広がりを見せなかったのはありがたかったが、その反面、物分かり良く会話を切り上げたエースの態度が妙に気にかかった。
+++
それから一週間ほどたったある日の夕方、突然エースから電話がかかってきた。
「ごめん、監督生!オマエんとこのタオル、一枚持ってきてくんねぇ?」
「え、突然どうしたの?」
「いま部活の試合終わったとこなんだけど、今日タオル忘れちまってさ。このあとシャワー浴びんのに、タオルなしってきつくて」
できれば大きめのタオルでヨロシク、と言ってエースは一方的に電話を切った。
エースに突然お使いを頼まれるのは初めてのことではないので、それほど抵抗はない。ただ、バスケ部の練習場所に行くのは少々はばかられた。体育館まで行って、近くの部員にタオルを渡せばいいかと思い、わたしはバスタオルを一枚携えてオンボロ寮を後にした。
体育館に近づくにつれ、嫌でも先週のエースとのやり取りを思い出してしまう。興味津々という目で、やや確信に満ちた口調で、エースは「ジャミル先輩が好きなわけ?」と言った。あれはわたしから言質を取ろうとしていたんだ。あそこで「そうだ」と答えていたとしたら…恐ろしくてたまらない。
エースは友達として好きだが、時折その悪戯に度が過ぎることがある。いつもならデュースが制止してくれることも、あのように二人きりの場ではどうしようもない。本来わたしは、隠し事などできないタチなのだ。それを分かっているからこそ、彼はあのような質問をしたのだろう。
……やっぱり危険な気がする。
そう思ったときには、体育館はもう目と鼻の先。今ならまだ戻れる、と歩みを止めた瞬間、「小エビちゃあん」と間の抜けた声が聞こえた。運の悪いことに、体育館のドアを開けたフロイド先輩が躍るようにこちらへやってくる。
「カニちゃんのパシリなんだってぇ?ちょーウケる」
彼はわたしの肩に手を回すと、グイグイと強引な調子で体育館へ向かった。
「あの、これ、エースに渡してもらえます?」
「やだ、自分で渡せよ」
「…ですよねぇ」
はははと愛想笑いを浮かべながら、わたしは引きずられるように体育館へ足を踏み入れた。
心なしか、部員たちから多く視線を感じる。そりゃ部外者が来れば一瞥くらいするだろうが、まるで何かを楽しみにしているかのようなソワソワとした雰囲気と視線を感じるのだ。
「あのぉ…エースは、どこでしょうか?」
「こっちこっちぃ」
フロイド先輩は迷いなくわたしを体育館の奥へと連れて行く。相変わらず肩をがっちりと掴まれているので、逃げようがなかった。やがて、更衣室、と書かれたドアが現れる。そして、フロイド先輩は迷いなくそのドアを開けた。
「え?いや、さすがに、」
「はい、どーぞ!」
ドンッと強く背中を押され、わたしは勢いよく更衣室に入る。そればかりか、足元に転がっていた誰かのバスケットシューズにつまずき、体勢を崩す。そうして、届けに上がったタオルをクッションにするようにして、情けなく硬い床に転げた。
わたしの背後のドアが閉まるのと、わたしの数メートル先にある「シャワー室」と書かれたドアが開くのとは、ほぼ同時だった。人間というのは、音がすれば、その音がした方を反射的に見てしまうものだ。だから、そうしてドアを開け入室してきた人物と目が合ったとき、そんな愚かな人間の習性を激しく呪った。
「は………?」
そこにはシャワーを浴びてきたのであろう姿のジャミル先輩がいた。ハーフパンツを履いているとはいえ、上半身裸に濡れた髪…まともな感覚の人間なら、特に親しくもない人間に見られたくもない姿だろう。彼は怪訝そうというより、状況を理解できない呆気にとられた表情で、わたしは慌てて顔をそらした。最悪だ。悪戯にしては本当に度が過ぎている。
「…なんだ、君は」
「すみません、違うんです!すぐに出ますから…」
慌てて立ち上がろうとするも、腰が抜けたのか上手く足腰を使えない。それでも早くこの場所から逃げ出したくて、這うようにドアまで行く。しかしドアレバーは一切動かず、押しても引いてもドアはびくともしない。このドアの開閉を阻止している誰かがいることは明らかだ。もしかしたら、ドア自体に魔法をかけているのかもしれない。
泣きたいくらいに最悪の気分だった。いや、最悪なのはジャミル先輩も一緒だろう。なんなら、わたしに不快感を抱いているに違いない。
「ごめんなさい、開きません」
自分の声とは思えないくらい、力のない声でそう伝えると、ジャミル先輩は深いため息をついた。
「フロイドたちの仕業か?ターゲットにされるなんて、君も災難だな」
それからジャミル先輩は、わたしのことなど気にならないかのように、自分のロッカーを開けた。
「まあじきに開くだろう。そこの椅子にでも座って待っているといい」
「あ…はい」
そこ、というのはわたしのすぐそばにあるパイプ椅子のことだろう。わたしはジャミル先輩が背を向けているうちに、椅子へ這い上がろうとチャレンジしたが、依然としてわたしの腰は抜けたままだった。
くるりと先輩が振り返った。彼の格好は、まだ目のやり場にこまる状態であったため、わたしは再度慌てて目をそらす。
「大丈夫か?立てないようだな」
「お、お気遣いなく!」
わたしの言葉など聞こえていないかのように、彼はズンズンとこちらにやってくる。そして、なんの断りもなくわたしの両脇に手を入れ、こともなげに立ち上がらせた。驚きで呼吸ができなくなる。頭の中がすべてにおいて限界だった。先輩に触れられることにより、すべてが伝わってしまうようで恐ろしく、いますぐ消えてしまいたくなった。
わたしをパイプ椅子に座らせたあと、彼は黙ってこちらを見下ろす。見上げなくとも、その額に深い皺が刻まれていると分かる。やがて彼は組んでいた両手をほどき、片方の手を腰に、もう片方の手を口元に当てた。
「俺が言うのもなんだが……君は、もう少し気楽に構えたほうがいいんじゃないか」
特別な人がわたしにだけかけてくれる言葉。嬉しいはずなのに、こんな状況だから辛く苦しい気持ちになる。
「でないと、あの悪戯好きたちに弄ばれ続けるぞ。あいつらは悪気がないから始末が悪いんだ、君が自衛していくしかない」
「はい……ごめんなさい」
「あー…その、俺は君を責めているわけじゃないんだが…」
というより、と先輩は続ける。
「監督生、とりあえず君は、自分を責めるのを辞めたらどうだ」
「痛っ」
おでこに鋭い痛みを感じ、反射的に彼を見上げる。ああ、これも人間の愚かな習性だ。右手でわたしのおでこを弾いた先輩が、したり顔でこちらを見下ろしていた。
「このまま話そう、監督生」
わたしが目をそらす前に、先輩が牽制する。
「こんなこと、自分で言いたくはないが…俺は、俺と君がこうして二人きりになるよう仕組まれる理由を知っている。…気づいている、と言う方が正しいか。だから、俺はこの状況を別に不愉快だとも思っていない。まあ、フロイドたちの考える悪戯なんて知れているしな」
「…すみません、ちょっと、頭が追いつかない」
「だから、そうだな…端的に言うと、君はとても分かりやすい人間だということ。そして、俺はこの悪戯を何とも思っていないから気にするな、ということだ」
おそらくわたしは驚愕の表情を浮かべていたはずだ。そんなわたしを見て、ジャミル先輩は我慢できなかったかのように噴き出す。
「それって、すごく複雑なんですけど」
「だろうな。ただ、それが俺の本音なんだ」
そう言ってから、ジャミル先輩はドアレバーに触れる。レバーは上下に動く素振りすらなく、頑として開閉を拒否しているようだった。
「せっかくだから、少し話をするか。単刀直入に言うが、君は俺のどこが好きなんだ?」
「……はい?」
「参考までに教えてくれよ」
ジャミル先輩が意地悪なニヤニヤ笑いを浮かべるので、こちらも幾分冷静になってくる。
「ずいぶん自惚れた質問ですよ、恥ずかしくないんですか?」
「でも、君が俺に惚れていることは否定しないんだな」
そうだ、こういう人だったなと、今度はこちらがため息をつきたくなる。ジャミル先輩はいろんな面において魅力的だ。けれど、その性格は一癖も二癖もあるのだ。
「その質問に答える義理なんてありませんが」
「俺の自己肯定感を高めるために、教えてくれたっていいじゃないか」
「わたしの好意なんかで、自己肯定感が高まるもんですか」
「高まるよ」
「え?」
「君に好かれていると思うと、自信が持てるよ」
ジャミル先輩は、ハンサムな澄ました笑顔をたたえてそう言った。しかし、だからと言って口車に乗ってやるつもりはない。
ポタリ、と先輩の髪から水滴が落ちる。水滴はわたしの太ももに垂れ、制服に染みを作った。
「あぁ、すまない」
彼は肩にかけたタオルを使い髪を拭こうとして、手を止める。そのわざとらしい動作に、わたしの気持ちは否応なく反応した。つまりその動作により、彼がいまだに上半身裸というひどくセクシーな状態でわたしに接していたことが、嫌でも思い出されたのである。
「顔が真っ赤だぞ、今さら意識するなんてスケベなやつだ」
「うるさいですよ、早く着てください」
「はいはい」
彼が再びロッカーへ向かうと、カチャリ、と鍵が解錠されたような音がした。飛びつくようにドアレバーに力を入れると、スルリと滑らかに動く。ドアが開いたのだ。
そのまま飛び出すように外へ出ようとするも、グンと腕を引かれ脱出に失敗する。すぐ近くにジャミル先輩の顔がある。濡れた髪がわたしの頬に触れ、切れ長の目が自分の目と鼻の先にあった。心臓が止まりそうだった。
「忘れ物だ」
握らされたのは、床に放り出していたタオル。エースに渡すはずだった、タオル。忘れ物を伝えるにしては、近すぎる顔の距離。余裕のある、憎たらしいほど整ったその顔。でも、特別なこの人にはどんな顔をされても敵わないのだと思った。
「また転ぶなよ」
彼はそう言ってドアを開けると、わたしの背中を優しく押す。
そこから先のことは覚えていなくて、ただただ必死に寮に帰った。そして寮の中に入り、玄関のドアを閉めた瞬間、わたしはやっとまともな呼吸ができるようになった。
なんてひどい人、性悪な人。人の心を弄ぶ、悪い人。なんて、なんて憎たらしい。
でも、一番憎たらしいのは、ますますジャミル先輩に夢中になってしまう、自分の心だった。
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